第8話 嫌な奴ほど好きになる? ―ゲインロス効果—

 なんなんだ、こいつは!

 俺、平田 浩平(ひらた こうへい)は久しぶりに怒っていた。その相手とは先週生徒会役員に内定した一年生、鞠川 瑠偉(まりかわ るい)だった。

 鞠川は俺と同じ中学出身で、クラスも同じのいわゆる陽キャ。生徒会など興味もなかった彼女が、なぜか生徒会総務部の欠員募集に応募してきたのである。ズバズバと物を言う彼女の性格は先輩からの覚えもよく、着任するやいなや総務部内での発言力を獲得したのだった。

 もちろん俺が怒っているというのはそこではない。先輩にはいい顔をする陰でこの女は俺をからかってくるのである。

 「で、生徒会長とはどこまで行ったのよ?」

 定例会議の帰り、鞠川は底意地の悪い笑みを浮かべながらそう尋ねてきた。

 「何もない! 何が目的だ、生徒会まで来て」

 俺はそんな彼女を振り切るようにすたすたと歩きながらそう返す。

 「前から興味あったんだって。生徒会って目立つし、かっこいいじゃん?」

 へらへらとそう言ってのける鞠川に俺はむきになった。

 「そんな不純な気持ちで取り組まれては困る。仕事に私情を持ち込むなよ」

 強く言いすぎたか、と思ったが鞠川は少し怒ったような顔で俺の痛いところを突いてきた。

 「へー、生徒会長に思いを寄せて、私より会議で発言の少ない誰かさんにもかけてあげたい言葉だね」

 強すぎる。

 図星を突かれて俺は、ますます鞠川が嫌いになった。

                  ◆◆◆

 俺は、仕事ができていないのか?

 鞠川に言われた言葉がとげのように突き刺さったまま、俺はぼんやりと手元を眺めている。手には会計監査用の資料。

 「次、平田の番だよ」

 鞠川に声をかけられ、俺は慌てて立ち上がる。

 「ええと、会計監査の件、役員の選出が……」

 と俺が話し出すと、望月 心(もちづき こころ)生徒会長が呆れたような顔をする。

 「すまないが、今は目安箱設置の件について意見を求めている」

 え? え?

 俺は動転してしどろもどろになる。どうやら今話していた議題について意見を言う番と言うことだったらしい。見かねた望月会長ははあとため息をついて一言。

 「会計監査の件で忙しいようだし、平田君は少し休んでいてくれ」

 失望させてしまった。

 俺は目の前が真っ暗になった。

 ぼんやりとしたまま会議を終えた俺は、鞠川が呼び止めてきたのも無視して、走って帰った。

 もうここにはいられない。

                  ◆◆◆

 翌日、会長がクラスにいるところを狙って、俺は辞表を提出した。

 「師匠、どうしてこんなものを……」

 会長は驚いたような、困ったような顔をした。

 「自分の能力では今の役職は務まらないとよくわかりました。新しい役員も入ってきたことですし、もう俺はお役御免です」

 作ってきた引継ぎ資料を渡して立ち去ろうとする俺に、会長が声をかけてくる。

 「待ってくれ、鞠川君から話は聞いている」

 「え?」

 意外な名前が出てきたことに驚き俺は振り返る。

 「ひどいことを言ってしまったと相談してきたんだ。そのせいで近頃思い詰めているようだから様子を見てあげてほしいって」

 「そんな、鞠川がそんなこと……」

 動転する俺に会長は続ける。

 「能力不足は私の方さ。君が悩んでいることに気が付かないばかりか、気遣うつもりが君を追い込んでしまった」

 休んでいてくれ、という言葉も、会長なりの気遣いだったのだろうか。

 「でも鞠川は俺に嫌がらせしてくるし……」

 俺が言うと、会長ははは、と笑った。

 「私も最初、彼女のことを勘違いしていたよ。少し怖いなと思って」

 会長ほど恐れられる存在が、鞠川を怖いとは。

 「でも彼女の真剣な訴えを聞いて、誠実な人だとわかった。君のことを心配しているのは、本当だと思う」

 「だとしても、俺はあいつのいる生徒会ではうまくやっていけません」

 そう言って立ち去ろうとしたところに、後ろから大きな声がした。

 「会長! 平田が辞めるって本当ですか?」

 まっしぐらに走ってきた鞠川は、俺に気づかないのか切羽詰まったような面持ちで会長に詰め寄る。

 「平田はすごくいい奴なんです! 仕事もできるし、今は調子が悪いだけで……」

 と、言いかけて視線に気づいたのか鞠川は俺の方を見ると、ひゃっと声を上げて顔を真っ赤にした。

 「な、本当だろう?」

 望月会長はにっこりと俺に目配せをした。

 どうやら、この意地の悪い友人について、態度を改めないといけないようだ。

                   ◆◆◆

 「ゲインロス効果というのを知っているだろうか」

 生徒会室、定例会議の前、いつものごとく会長が心理学のうんちくを語る。

 「人は損をすることに敏感で、逆に得をすることには鈍感だ。例えば、一万円もらってうれしい気持ちより、一万円なくして悲しい気持ちの方が印象に大きく残ったりする」

 「ありますよねーそういうの」

 横で聞いていた鞠川がのんきに返事する。

 「不思議なことに、なくした一万円が返ってきたとき、ただ一万円得するよりうれしくなったりする。これは、損をしたという落差がゼロに戻る喜びの方が、同じ額を得した喜びより上がり幅が大きいためだ」と会長が続ける。

 そんなものだろうか。俺は普通に一万円得したい。

 そんなことを思っている横で、まだまだ会長の講釈は続く。

 「これを人間関係に応用すると、こんなことも言える。はじめから印象がいい人がもっといい印象になるよりも、はじめは印象の悪い人がいい人だとわかった方が、好感度の上り幅は大きくなる」

 「わ、それめっちゃわかります! 少女漫画の男とか最初やな奴なのにいつの間にか好きになってるんですよね」

 意外とちゃんと聞いていたのか、鞠川は大きく相づちを打った。こういう無邪気さを、俺はいつの間にか憎からず思っていた。

 「嫌な奴ほど好きになる。なくしたものが返ってくるのがうれしい。どちらの効果もゲインロス効果だ、よく覚えておくと良い」

 会長は機嫌がいいのか、今日はずいぶんと饒舌である。

 「なんだか今日はうれしそうですね、何かあったんですか?」

 俺が尋ねると、会長は答えた。

 「なくなったものが帰ってきたんだ」

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ココロが知りたい心先輩 @nomo781

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