16「呪いのような名前」
❖暗い過去 /
冗談みたいなそのキラキラネームを、1年以上経った今でも、僕は忘れられないでいる。
1年前、高校1年の春。入学から1週間が経ったころのことだった。
JR東西線の車内で、僕は痴漢に出くわした。
……僕がされたんじゃないよ?
女子高生が、サラリーマンに体を触られてる現場に居合わせたんだ。
満員電車だった。僕は、女子高生と痴漢のすぐ隣に立っていた。
女子高生は恐怖に震えるばかりで、声を上げることもできない様子だった。
周りの人たちの中にも気付いた人がいて、けれどみんな、見て見ぬ振りをしていた。
――不意に、女子高生と目が合ってしまった。
折しも、高校生活に慣れ始めたころだった。
あの、思い出したくもない中学3年生時代に比べれば――高校デビューと言うにはあまりにも地味だけれど――素晴らしい高校生活の始まりに、期待を膨らませつつあるころだった。
きっと、気分が大きくなっていたんだろう。
だから僕は、らしくもなくあんなことをしてしまった。
「――そ、その手を離せ!!」
みっともなく声を震わせながら、痴漢野郎の腕をつかんだんだ。
次の瞬間、電車が急ブレーキで駅に着いた。
乗客がドミノ倒しのようになり、もみくちゃになった中で、痴漢は車内から逃げてしまった。
僕は散々な目に遭った。
女子高生は泣くばかりでちゃんと説明してくれず、駅員には逆に僕が痴漢なのかと疑いをかけられ、スマホを没収され、警察が来るまで拘束され、警察が来たら今度は取り調べを受けた。
女子高生が大神アルテという名前だというのは、取り調べの中で知った。
…………ようやく学校に着いたのは、4時間目を大きく過ぎてしまってからのこと。
何重もの意味で、その日、僕には運がなかった。
その日に限って、6時間目と4時間目が入れ替わっていたんだ。
初受講にして大遅刻をしてしまったその授業こそが、隔週の『IT科』。
友柄講師にはいろいろとウワサがあった。
曰く、
『生徒にレッテルを貼りたがる』
『デキない、とレッテルを貼った生徒を徹底的にイジめる。当然、内申点はボロボロ』
『1クラスにつき必ず1人は「デキない」生徒を用意し、事あるごとにその生徒をイジめ倒す』
というもの。
だからみんな選択授業は『IT科』を避けていて、他の『家庭科』や『美術科』に人気が殺到していた。
けど、『人数は均等にしないといけない』とかいう意味不明な理由により、僕は『IT科』に放り込まれたんだ。
『これはこれは、遅刻魔くん』アイツの朗らかな笑顔は、今も鮮明に覚えている。『初授業から大遅刻とは、大したものですねぇ』
(ああ)と僕は思った。(この人は今、僕にレッテルを貼ったんだな)
その日は、授業が終わるまで立たされた。
その日から、僕の地獄の日々が始まった。
『なぜ、課題が未提出なのかな?』その日の放課後、僕を呼び出した友柄講師はそう言った。『キミだけ未提出なのだが、遅刻魔クン』
当たり前の話だった。
だってその日は授業が終わるまでずっと、僕は廊下に立たされていたのだから。
パソコンは電算室にしかないし、僕は6時間目が終わるや否や職員室に呼び出された。
パソコンに触れるタイミングがなかった。
『そ、それは、課題をやるタイミングが――』
『いやぁ、すごい』友柄講師が朗らかに笑う。『遅刻して、やるべきこともやらないクセに言い訳とは。これが令和生まれの新人類かぁ。え、違う? 平成? 令和生まれって今何歳だったっけ? 時間も守れないような人間なんて、僕からすれば赤ん坊や幼稚園児と変わらないんだけどなぁ。どちらにしても、昭和生まれの僕からすれば、とても理解の及ばない相手だよ、キミは。遅刻して、放課後まで待ってあげたにもかかわらず課題が出来ていなくて、そのうえ言い訳とは。いやぁ、すごい』
朗らかに笑う。
そう、『朗らかに』だ。
嫌味のない、ストレートな笑顔。
あまりにも爽やかな笑顔。
屈託のない笑顔と、タバコ臭い口から紡ぎ出される嫌味。
サイコパス。
職員室にいる教師たちの誰も、こちらに注意を向けない。
友柄講師の席は職員室の隅。
笑顔で、隅っこで、小声で喋る友柄講師が、よもやこんな――身の毛もよだつほど理不尽なことを言っているとは、誰も思わないらしい。
『いつになったら出来るのかな?』
『あ、明日には』
『へぇ、明日? 他の生徒は全員提出済なのに、キミだけ明日?』
『今からやってきます』
『電算室はもう閉まってるよ』
『カギを貸してはいただけませんでしょうか?』
『どうして? 申請理由を述べなさい』
『せ、先生が――』
『いやぁ、すごい。新人類だ』
僕が悪いのか? 頭がおかしくなりそうだった。
けど、理由はともあれ僕が遅刻してしまったのは事実だ。
……小一時間ほどもそんな無為な応酬を続けた挙句、結局、課題は自宅でやることになった。
久しぶりの感覚だった。
中3のころ、有栖川にイラストを『キモい』と言われてからの暗い日々を思い出した。
苦難は終わらなかった。
翌朝、課題を提出しても、受理してもらえなかったんだ。
『キミは授業を聞いていなかったのかな?』いたぶるように友柄講師は言った。『このプログラム、処理結果は同じでも、それに至るフローが僕の指示した内容とまったく異なるようなのだが』
そんなはずはない。
教科書のとおりにやったのだから。
やり直しを食らった。
何度出しても何度出しても、やり直し。
削られていく睡眠時間、疲弊していく毎日。
十回近くやり直してようやく、気付いた。
『キミは授業を聞いていなかったのかな?』
聞いていなかった。なぜって前半は遅刻して、後半は廊下に立たされていたのだから。
友柄講師はわざと、教科書にない処理フローを指示したのだろう。
肝心の授業の内容は、みんなの記憶とノートの中。
周囲のクラスメイトたちにノートを貸してもらえるようお願いしたりもした。
けど、みな一様に、答えは『ノー』だった。
僕、そこまでみんなに避けられるようなこと、したっけ?
入学してからまだ2週間だぞ? そりゃ、僕はけして陽キャではないけれど。
試しに、隣の席の男子にIT科以外の授業のノートを見れてもらえないかと頼んでみた。
すると、あっさりと貸してくれた。
同じ子にIT科のノートをお願いすると、目をそらして言葉を濁す。
……友柄講師か。
授業のときに、僕にノートを見せないよう指示した、とか?
内申点あたりを人質にして。
結局、次のIT科の授業で隣の席のノートを盗み見るまで、課題は終わらなかった。
何十回も提出して、ようやく課題を受理してもらったころには、僕は精魂尽き果てていた。
イジメはそれで終わらなかった。
授業のたび、僕は友柄講師に当てられ、何か答えると必ず難癖をつけられて、廊下に立たされた。
僕が教室から出される際に満ちる、クラスメイトたちのクスクス笑い。
……授業は順調な様だった。
夜、眠ると『遅刻魔クン』という声が追いかけてくる。
僕は遅刻した自分を呪った。
あの日、『アルテ』とかいう変な名前の女子高生を助けたことを呪った。
状況は悪化する一方だった。
僕は電車に乗るたびに胃痛や動悸がするようになり、仕舞いには、電車に乗ると嘔吐するようになってしまった。
僕は『遅刻魔』のあだ名のとおり、遅刻を繰り返すようになった。
友柄講師からのイジメについて、担任に相談したこともあった。
けれど、その頃にはもう僕は名実ともに『遅刻魔』になり果てていて、担任はまともに取り合ってくれなかった。
🍼 💝 🍼 💝
❖現在 / 神戸 耕太郎❖
「2週間に1度だけのことや。嵐やと思って通り過ぎるまでガマンすればええだけの話や」自分に言い聞かせるようにして、言う。声は震えている。「……でも、ダメなんよ。クスクス笑いが起こるたびに、中3の日々がフラッシュバックして、心臓が勝手に動き出して汗が止まらんくなってもて、頭がぼーっとしてきて」
ふと、千代子が手を握ってくれた。力強く。
温かい。僕の手は冷え切っていた。
心地良い。ママに包まれているような、守られているような感覚。
「ごめん」と千代子が言った。「同じ高校に通うとるのに、ウチ、全然気付いてへんかった」
「気にせんでええって。僕もあえて言わんかったし」
IT講座は選択授業だ。
千代子は家庭科を選択しているから、知らなくて当然。
「でも、ウチはアンタのママやから」ぎゅっと手を握ってくれる。「安心しぃ。アンタに降りかかる不幸は、心配事は、全部ウチが追い払ったる!」
「あはは、頼もしい」
「ところで、な」千代子が少しもじもじして、「どうしても確認したいことがあるんやけど」
「
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