第48話 末妹はご褒美を期待する

「……うれしそうにしてたじゃん」


 満月みつきは立ち止まることなく、ただぼそりと静かに声を落とした。

 え……。

 いや、俺を庇ってくれた紅羽くれはの気持ちがうれしかっただけで、その呼ばれ方に喜んだわけじゃないんだけど。


 ……そういえば、さっき満月も、俺の誤解を解こうとしてくれてたよな。


「満月、」

「はーいさっさと席つけー。ホームルームはじめますよー」


 呼び止めたのとほぼ同時に、担任教師が肩に日誌をのせて教室に入ってきた。

 それに声が被って届かなかったようで、満月は気づかず席についてしまう。

 お礼言うタイミング、逃した……。



 ※ ※ ※



 帰宅すると、ちょうど部屋着に着替えて降りてきたらしい紅羽がリビングの手前にいた。

 俺を見つけるなりうれしそうに頬を綻ばせ、パタパタ駆け寄ってきてくれる。


「おにぃちゃん、おかえりなさいっ」

「……ただいま」


 つくづく思うが、この子はいつでもどこでも可愛さの破壊力が抜群だ。

 癒されるを通り越して、たまにものすごく心臓に悪い……。

 そして、なんか新妻みたいだな、とかいう考えが一瞬浮かんでしまった自分をはっ倒したい。おにぃちゃんって呼ばれてるだろうが!


「はいっ」

「……ん?」


 靴を脱ぐ俺に、紅羽が満面の笑みでまるでなにかを欲しがるように両手をこちらへ差し出してきた。

 ……今朝、時雨しぐれに握手を求めていた紅羽の笑顔が、なぜかフラッシュバックする。


「お鞄お持ちしますよっ」

「え? な、なんで?」

「……こういうふうにお迎えするの、なんだか新妻みたいで、どきどきしませんか……?」


 俺が鞄を渡さなかったからか、ほんのり不服そうな上目遣いで訊いてくる紅羽から、思わず目を逸らしてしまった。

 同じことを考えてしまっていたせいで、後ろめたさに似た恥ずかしさが込み上げて、上手く二の句が継げなくなる。


「じ……自分の奥さんにそういうことさせるつもりないから、俺は」

「えっ、わたしはちょっぴり憧れがあるんですが……。だめ、でしょうか……?」

「い、いやっ、べつにだめとかでは、ないんだけど……」

「やったぁ……! じゃあたまにさせてくださいねっ」


 ……って、なんでナチュラルに未来図を語ってんだ!!

 いや、いまのは遠い未来とかじゃなく、近い今後の話か!?

 ふつうなら冗談として軽く受け流せるはずなのに、この子が俺のことを好きでいてくれていることを知ってしまっているせいで、必要以上に振り回されている気がする。

 ていうかどんな表情しててもなに言ってても、ひたすらに愛くるしすぎなんだよこの子……!! ほんと心臓に悪い!!


「き……着替えてくる、から!!」

「ふふっ、はい。その前に手洗いうがいをして……それからお弁当箱、持って降りてきてくださいねっ」


 またそんな、新妻みたいな──っいや違う、どっちかと言うとこの台詞は母親だ!

 しっかりしろ! 順調に毒されちゃってんじゃねえ俺!!



 ※ ※ ※



 一度自室に入ることで落ち着きを取り戻し、いつも通りラフな部屋着に着替えてリビングへ降りた。


「……そういえば紅羽。今朝、教室まで来て誤解解いてくれてありがとな」


 紅羽が蜂蜜入りの紅茶を淹れてくれて、ダイニングテーブルについてひと息つく。

 向かいに座った紅羽は、改めてお礼を言った俺に、しゃんと胸を張ってほほ笑んだ。


「いえっ。妹が兄を守るのだって、当然のことですからね」


 柔らかくもどこか不敵なその笑みに、純粋に、ときめいてしまう。


「うちの妹マジでかっけえな……」

「ふふっ、おにぃちゃんの真似ですよ? わたしだって、肝心な時にちゃんと大切な人を守れる立場にいたいんです。そのために日頃、頑張っていますので」


 つまりそれは、きっとこれまで、白羽しらはを守るための努力だったんだろう。


「ならもっとかっこいいよ。偉いな、紅羽は」

「……えへへへっ」


 賞賛なんて腐るほどもらっているはずなのに、紅羽はまるで褒め慣れていないみたいに、ふにゃっふにゃに照れた。

 ……可愛すぎる。

 だけじゃないのが、紅羽のすごいところだと思う。


 頭脳明晰で品行方正とくれば、人望も厚い。

 求心力も影響力も揃っていて、重要な場面で臆せずに、人心を操ることができる。

 並の努力じゃきっと到底敵わない。まさに完全無欠の天使だ。

 今朝、紅羽は俺や満月を憧れの先輩だと言ってくれたが、尊敬に値するのはどう考えても彼女のほうだ。


 ……まあ頭がキレるわりに、いささかいただけないというか、ポンコツな部分も大いにあるとは思うのだが。


「おにぃちゃんは、あれから大丈夫でしたか?」

「あ、うん、大丈夫だったよ。紅羽が来てくれたの他のクラスでもかなり噂になったっぽくて、少なくともいやな目で見られることはなくなった。話しかけてくるやつは増えたし、やたら見られんのは変わりないけど」

「それもそれで、大変ではありますよね。注目を浴びるの、ストレスになりませんか?」

「まあ、いまはちょっと居心地悪いけど……じきに慣れられると思う。そしたら学校でも気兼ねなく紅羽たちと話せるようになるだろうし」


 姉をストーカーから守った先輩、として、関わっても不自然じゃないだけの理由付けは紅羽がしてくれた。

 注目されるのはふつうに苦手だが、悪いことをしているわけでもないし、ぶっちゃけいちいち他人の目を気にするのも面倒なのでもう割り切ろうと思う。

 少し疲れつつもそう吹っ切れた俺に、紅羽は笑って頷いた。


「はい。学校でも人目を気にせずおにぃちゃんと話したくて、大暮おおぐれせんぱいにも声をかけたんですよ。交友関係は複数あったほうが、カムフラージュにもなるので」


 随分と明け透けな言い回しに、自分の脳内を見透かされたのかと思った。

 それは、気のせいではなかったらしく。


「……だから、おにぃちゃん」


 カップのそばに置いていた俺の手に、ふわりと紅羽の柔らかな手のひらが重ねられる。

 そのまま手の甲を撫でてくる指先が、いやになまめめかしい。

 どきりとして顔を上げると、真正面にいる紅羽の視線とぶつかった。


「誤解は、しないでくださいね……? 

「え……?」

「……わたしが本当に仲良くしたい男の人は、この世界でおにぃちゃんただひとりだけ、ってことですよ?」


 甘やかな熱を孕んだ瞳と、惑わすような笑みにとらわれて、手を引っ込めるタイミングを見失ってしまった。

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