第47話 末妹は掌上に運らす
この世に実在する人間とは思えない神々しさだ。
天界から舞い降りた神の使いだと言われたほうがまだ納得できる、なんてそんなことを本気で考えながら目を奪われていたら。
「──ところで」
彼女は静かな笑顔に変わり、それから、水を打った教室内をゆったりと見渡した。
ひとりひとりと目を合わせるような優雅で丁寧な仕草のあと、
「先程、少し空気が重く感じたのですが……。なにか、あったんですか?」
一転して心配そうな顔つきで、俺たちに問いかけてくる。が、返事は待たずに「あっ」と声を上げた。
「そういえば、昨日
彼女の柔らかながらもどこか冷徹さを孕んだ口調に、なんとなく冷や汗を感じたのは、俺だけではないだろう。
おかしな誤解、をそのまま受け入れてしまった人間を遠回しに戒める、でも本人にはそんな自覚はちっともなく単純に俺を案じてくれているだけという、周囲に妙な居心地の悪さを与える話しぶりだ。
でも、俺にはわかった。表面上、これだけそつのない彼女のことだ。
すべて、意図的な振る舞いだろう。
「もしなにか困ったことがあったら、なんでも言ってくださいねっ! おふたりはわたしの姉の恩人──つまりわたしの恩人も同然なので、わたしにできることがあればなんだって協力しますっ!」
兄として……というか先輩として、情けない。
けれどいまこの場面で、彼女以上に上手く、しかも華麗に立ち回れた人間なんかいないだろう。
クラスメイトたちの反応を確認してはいないが、彼女のおかげで俺への非難の目が一気に和らぎ、なんなら反転したのは肌で感じた。
俺の義妹は本当にしっかり者すぎる。
……そして、あまりにも……優しすぎる。
一生分のクレームブリュレを捧げたいと思うくらいには、胸のど真ん中を、強く打たれてしまった。
「……ありがとう、
天使すぎる義妹の無敵ぶりに、さっきまで鉛のようだった心の重量は跡形もなく消えた。
むしろ幸せな気分で満たされて、自分でも驚くほど、ひどく穏やかな笑いが零れた。
そんな俺になんだかほっとしたように、紅羽はとびきりの笑顔を返してくれた。
しかも、それだけでは終わらず。
「陽富せんぱいのご友人の方ですか?」
紅羽は俺と
瞬間、時雨はビククッと地震が起きたのかと思うほど大きく揺れ、身を縮こめてなぜか俺の背を盾にしてくる。
「え!? お、お、俺っ!? 俺デスカ!?」
「はいっ」
こんな時雨ははじめて見たが、素直にドン引きした。
大の男子高校生が人見知りの幼児みたいなモーションやめろ。
あとせっかく笑って話しかけてくれた天使すぎる美少女にその態度は失礼だろ!
隠れてないでちゃんとご挨拶しなさい!!
「お名前、伺ってもいいですか?」
「お、おおお、
「大暮せんぱい! 陽富せんぱいのご友人でしたら、大暮せんぱいも素敵な方に違いありませんよね……! わたし、
挙動不審極まりない時雨に不快な顔ひとつせず、紅羽は友好的に両手を差し出す。
本当に天使すぎにも程がある。
というか、まるでアイドルのファンサだ。
対する時雨は、そんな天使をぽかんとした顔でたっぷり一〇秒見つめ、おず……と手を差し出そうとしたかと思うと瞬時に引っ込めてスラックスで念入りに手のひらを拭き、今度こそ紅羽と握手を交わした。
「よ……よろしくお願い、シマス……!?」
「はいっ」
両手で優しく包み込んでくれる紅羽に、時雨は完全に心酔した顔で見惚れている。
……モヤッ、とした。
正直いますぐ引きはがしてやりたくなったが、さすがに、我慢する。
ちょうどいいタイミングで間延びしたチャイムが鳴りはじめ、握手は数秒ほどで終わった。
「あっ、予鈴が鳴ってしまいましたね。教室が遠いので、わたしはこれで失礼します。またお話しましょうねっ」
最後まで隙のないエンジェルスマイルで、誰にともなく手を振り、長い髪を靡かせて紅羽がパタパタと駆けていった。
その後、クラスメイトたちが「はじめてあんな近くで見れた……」とか「実物も肉声も可愛すぎてヤバくない?」とか、男女問わず顔を赤らめながら口々に話している傍らで。
「ぐっ……あああああ……っ!」
時雨は紅羽と握手したほうの手首を掴んで、暗黒の力でも蘇りそうな声で呻きはじめた。
「う、生まれてはじめて推しと接触をしてしまったあああ……!! !!」
「「キッッッモ」」
はじめて時雨に対して、心の底から嫌悪の声が出た。
里砂ちぃも同感だったようだ。いや、なんなら俺よりも数十倍の悪意が籠っていたが。
「陽富までキモがるなよ!!」
「あの子のことなら別なんだよ。お前、味占めて紅羽のストーカーになったりすんなよ、絶対」
「なんねえよ……! 俺はガチ恋したくないから推しと接触しない主義貫いてんだよ!! ……ってか結局お前、神薙姉妹とどういう関係なんだよ!? ここまで来たらもう白状しろっ!」
いつもなら焦りを覚える詰問にも、いまはあまり感情が波打たない。
「……誰が、お前に話すかよ。俺が山下のこと恐喝してたって真に受けたくせに」
興奮している時雨とは正反対の、冷めた声が勝手に出た。
さーっと時雨が青ざめる。
「そ、それはマジでごめんって!! 今度なんか奢る!! なんでも奢るから!! 許して!!」
「いまなんでもっつったな? 大金用意しとけよ」
「おい!! ちゃんと恐喝してんじゃねえかっ!!」
とてもうるさい。マジでしばらく許さん。
誤解を鵜呑みにされたのもまあ心外だが、それよりも、紅羽が時雨に笑いかけてたのが……シンプルに気に食わなかった。
紅羽がわざわざ時雨に声をかけてくれた理由も、見当はつくのに、なんか……。
しこりを消化しきれずにいると、視線を感じた。
「……………………」
顔を上げれば、満月と目が合った。
その表情の読めなさに少しの間だけ空気がかたまって、それから満月が息を吸う。
「あの子。……上手いね」
「……ああ、うん。よくできた子……よねえ。ほんと」
「近所のおばさん目線やめろ」
……だってこの場で兄貴面はできない。
紅羽は本当に、自身が周囲に与える影響をよく理解していると思う。
才貌両全の完璧女子なだけあって、どう振る舞えばどんな反応を得られるか、他の関心を意のままに掌握している。
だからこそたったひとりで、多少わざとらしくなっても不自然じゃない理由でかつ、他人の悪事をバラす汚れ役にすらならない切り口を用意して、誤解の解消はもちろん、表向きの俺との関係の明示も、そして俺だけが矢面に立つ危険性の回避までしてくれたのだ。
たとえば今後、俺が校内で紅羽と会話していても、少なくともクラスメイトたちはもう不思議には思わないだろう。
……紅羽、将来人の上に立つ仕事とか向いてそう……。
「陽富はともかく、あたしは紅羽に憧れられるほどのことしてないんだけど」
「え、いや、してくれただろ。俺も満月に助けてもらったし」
「うるさい。正義のヒーロー」
「それやめろよ……、なんかめっちゃ恥ずかしくなってくるから」
むずがゆくなる呼称を寄越し、自分の席へ向かっていく満月の背中に、つい苦言を呈した。
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