第42話 末妹は義兄に愛されたがる

 紅羽のほうから核心を突かれて、息が止まった。


「混乱……させてしまいましたよね。ごめんなさい。意地悪、してしまいました」

「……………………」

「本当のわたしは、息を吐くように嘘をつけてしまう、性根の腐りきった人間なんです。家族に、隠していたいことだって……多い」


 ぬいぐるみを抱いたまま、前を向いて話す紅羽の声は、いままで聞いたことがないほど硬く沈んでいる。


 内容によるとはいえ……、家族に隠しごとをするのは、なにもおかしなことじゃないと思う。

 俺だって紅羽に襲われかけたこととか、絶対なにがあっても母さんには言えない。死んでも無理だ。


 ……だけど、たぶん。

 紅羽のは、そういうのとはまた少し違って。


 ──『余計な言葉で傷つけられないよう、心のバリアを何重にも張ってるんです』


 自分の心を、大切なものを守りたくて……、偽ったり隠したりしてしまうんじゃないか、という気がする。

 誰ひとり、そこに触れてこないように。

 誰も、それに、傷をつけてこないようにと。


 隣の義妹を可愛く思うあまり、分別が甘くなってしまっているだろうか。

 でも──紅羽がただの意地悪で、そんな嘘をつくような人間には、どうしても思えないのだ。


「……性根が腐りきってるは、言い過ぎだと思うけど……。じゃあ、──俺を好きっていうのも」

「……………………」


 なんとなく、自分の中で感じていたことがある。

 白羽と部屋でふたりきりでいた時に、紅羽が嫉妬していた理由。

 それは……俺を好きだから、というわけではなくて、もしかしたら。


 白羽を──たったひとりの大切な家族あねを、盗られたように感じてしまったから、なんじゃないかと。


 去年の夏に俺と紅羽が出会っていなかったのなら、紅羽が俺を好きというのもすべて嘘なら、もう、そうとしか──



「……そう、思われてしまっても、……仕方ないです」

「…………え…………」

「──っ、……だ、けど」



 紅羽は息を詰まらせ、静かに、こちらを見た。


 その表情に、俺は──紅羽を深く傷つけてしまったことを、悟った。



「本当に──ずっと前から……、陽富せんぱいのことが、好きです……」



 眉を下げた紅羽は、目いっぱいの涙を浮かべて、笑っていた。



 ずっと前から。

 彼女はたしかはじめて俺に告白してくれた日も、そう、言っていた。

 ……それが本当に、嘘ではないのだとしたら。


 その“ずっと前”が──去年の夏、白羽の生徒手帳を拾った日のことではなく、もっともっと、以前のことなのだとしたら。



「いつ、から……。なんで、俺のこと……好き、なの?」



 だとしたら、俺は──この子と初めて出会った時のことを、まるで憶えていないのだ。



 紅羽は切なげに笑い、溢れそうなほど涙を湛えたまま。

 けれど涙が零れないようにか小さく、何度も、ふるふると首を振った。


「ひ、みつ……っ、です」

「……なんで」

「だって、そのほうが……、陽富せんぱいは、わたしのことを考えてくれるでしょう? ずっと気にして……、くれるかなって、思、って……っ」


 声を震わせた紅羽は、少し呼吸を整え、顔を上げて俺を見る。


「……忘れないで、ください、ね。わたしのこと」


 ひどく瞳を潤ませているのに、ちょっと悪戯っぽく、笑って、囁く。


 彼女が恋に落ちた記憶を、俺は、憶えていない。

 彼女がこんなに悲しんで、それでも笑いかけてくれる理由を、知らない。


 ただ俺が──紅羽につらい気持ちをさせて、そして押し殺させてしまっていることだけが、たしかだ。


「忘、れるわけ……ないだろ」


 罪悪感に支配されて、胸騒ぎが止まなくて、答える声が掠れた。


「っ……はいっ、そうですよね。だって、一緒に住んでますもんね、わたしたちっ。ふふ」


 紅羽は無邪気に笑いを零すと、話を切り上げるように俺から顔を背け、前を向いてしまった。

 けれど、俺は、紅羽から目を逸らすことができない。


 紅羽が少し俯いて薄く深呼吸をしながら、すうっ──と表情を、無くしていく。

 瞳の縁に溜まった涙を一粒も零さないよう、自分の中にすべて仕舞い込んでしまうみたいに、ゆっくりとまぶたを下ろしてじっと黙り込む。


 たった、三秒間だった。


 それはまるで人形を思わせる無機質な顔つきで、──既視感に襲われる。



「──そんなことよりも。白羽姉さんはもう、おうちについた頃でしょうか? あんなことがあった直後ですし、寂しい思いさせちゃってるでしょうから、はやく帰らなきゃですねっ」


 三秒後、いつもとなんら変わらない、天真爛漫な紅羽の態度に、心臓が凍る。


 いつ、どこで、いまの……無表情で目を閉じる姿を見たのか。

 ……そうだ。

 俺と白羽がふたりきりでいるのを、部屋の外から見ていた時と──まったく同じ、だ。


 あの時も、紅羽はこんなふうに、涙を我慢していた──?



「っ、紅羽。ま……待ってっ」


 動悸がして思わず、歩く速度を上げた紅羽の腕を、掴んで引き留めていた。


「いまの、……くせ、なの?」

「えっ。なにがですか?」

「……………………」


 いつもの調子ではぐらかすつもりらしい紅羽に、すぐになにも言えなくなる。

 どう、触れればいいのかわからない。

 俺が触れていいのかも、わからない。

 それでもどうにか言葉を探そうとする俺を見て、……紅羽は申し訳なさそうにほほ笑んだ。


「ごめんなさいっ。本当に、あなたを困らせてばかりですよね、わたしっ……」


 笑いながらぎゅっと、ぬいぐるみを抱く力が強まる。


「だめっ、ですね。好きになってもらいたい、……のに、こんなことばかりくり返してたら、やっぱり、嫌われちゃうのかなぁ」

「…………っ」


 やっぱり、って……なんだよ。

 俺に嫌われるかもしれないって心のどこかで思いながら、いつも悪戯っぽく笑ってたの?

 不安を感じながら、それでもいつもあんなに可愛らしく、天使みたいに振る舞ってたのかよ。


 なんで。

 なんでだよ。


「いいよ……っ」


 もっと、俺を信用して、ほしい。


「……困らせたって、全然いいんだよ……! いくらでも振り回していいよ、全部付き合うよ、ふつうだろ……っ」


 紅羽の細い肩を掴んで、ちゃんと俺と向き合わせた。

 困惑した紅羽の顔が、ほんの少しだけ、ぼやける。


「……ふ、つう、って」

「っいままで、ふつうじゃなかったなら、これがふつうなんだってわかってほしい……っ、わかんないならわかるまで、ずっと教えてやるから! 好きとか嫌いとか、俺にとってはもうそんな話じゃないんだよ!」


 それでも、ぶれないように紅羽の瞳をまっすぐに見つめた。

 俺の真心が間違いなく、伝わるように。


「家族なんだからっ……! ────ちゃんと俺の一生懸けて、いやってほど大切に想うに決まってんだろ、紅羽のこと!!」



 正真正銘の本心をぶつけた俺に、紅羽は、ひどく驚いた顔をした。

 まるで夢にも思っていなかった言葉を聞かされたみたいに、しばらく呆然として。


 直後、一気に瞳を潤ませて、呼吸を乱して



「……────っっ……、ふ……っ」



 ……堰を切ったように、大粒の涙を零しはじめた。



 かと思うと、慌てたようにばっと俺の手を振り払って、すぐに背を向けてしまう。


「…………っご、めん、なさっ……。これは、あのっ、想定外……で。少しっ、待ってくださ、い」


 濡れた目元に手を当て、深く顔を伏せて小さな肩を震わせる。

 嗚咽混じりに謝ってくる紅羽くれはの言葉が、俺にはまるで理解できなかった。


「なにっ……言ってんだよ。涙なんか、想定するもんじゃねえだろ……っ」

「わ、たしはっ、……想定するんですっ……! ちゃんと先回りして感情を無くせばっ、泣くのを防ぐことだって、容易に可能なんですからっ……なのにっ」

「っいや、お前さっきだって、涙目だっただろ……!?」

「な、涙目までは、まだっ、許容範囲内です! でも、涙を零すのだけは、絶対に、だめなんです。……っ、す、すぐ止められなく、なるから……っ」


「……──っ、紅羽!! こっち向けよっ!!」


 本気で、馬鹿なんじゃないかと思った。

 ストーカーと対峙した時とはまったく違う種類の、いままで経験したことないほどの腹立たしさが、急激に込み上げる。


 頭に血が上った俺は、痛い思いはさせないようにでも無理やり紅羽の肩を掴んで、ぐいっとこちらを向かせた。

 彼女の背中に手を回し、その華奢な身体を、有無を言わせず両腕で閉じ込めるように抱き寄せる。


「っ…………!」


 ぬいぐるみが間にあってもすっぽり腕の中に収まってしまうほど小さくて、すぐに折れそうなほど細くて。

 恐ろしくなるほど、あまりにもこの子は──幼すぎる。


「涙なんかっ、感情無くして止めるもんじゃねえし、すぐ止まんなくていいもんなの!! 泣くのが絶対だめとか、誰がお前にそんな間違ったこと教えやがったんだよ……!!」


 なんでこんな、誰もがわかるような当たり前のことも、知らないんだよ。

 なんでそれでいままで生きてこられたんだよ。

 なんで周りの大人は、この子に教えてやってくれなかったんだ。


「……──……っ、……ふ、うぅっ……、……っ……ひっくっ……!」


 紅羽が俺のシャツをぎゅっと握りしめて、やっと堪えることをやめて、子どもみたいに泣きじゃくる。

 そんな彼女を抱き寄せる手が、微かに震えた。


 意味が、不明すぎる。マジでおかしい。

 本当に──どこから是正すればいいのかわからないレベルだ。


 心臓がドクドクと強く脈打って、喉の奥が煮え滾って、息がしづらい。


「っ……、……」


 もっと──もっともっと、はやく。


 もっとはやくこうして、この子を、抱きしめてやれたらどれだけよかっただろう。

 この子が生まれた時から、俺が兄貴でいてやれたら、どれだけよかっただろう。


 絶対に叶わないから、苦しい。


「っ……ひとっ、み、せんぱ」

「違うっ……」


 不自然に漏れた俺の呼吸に気づいたのか、紅羽が顔を上げようとしたから、見られるのを拒むように自分の胸に押し付けた。


「いま、俺は、紅羽の先輩じゃない。……先輩としてだったら俺は、紅羽には指一本触れられない」

「…………っ」


 だってもし、さっき俺を好きだと言ってくれた時に紅羽が泣きだしてしまっていたら、俺はどうすることもできなかった。


「……でも、紅羽の兄貴としてだったら、紅羽の全部まるごと受けとめて守ってやるし、紅羽が間違ってたらちゃんと教えてやるし、紅羽が泣くの我慢してたら……いくらでも、こうやって抱きしめてやる、から……っ」


 息をするように完璧な天使を演じ続けてしまう彼女が、この小さな身体に仕舞いこんでいる重いものを。

 彼女ごと、引き受けてやらなければいけない。

 時には無理やりにでも、分捕ってやらなければいけない。


 そしてそれをすべきなのは──この子の恋人になってやれない、なにも憶えていない、不甲斐ない先輩なんかじゃ、なくて。



「……ずる、いっ……です。──……おにぃちゃん……っ」



 この子を無条件で愛してやれる、家族おれたちだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る