第30話 末妹は密かに心当たる

 再び腕を伸ばしてきて、あろうことかぺたっ、と俺の脇腹あたりを手のひらで触ってきたのだ。

 なに!? !?


「ふっ……ヘンな声。まだ弱いんだ、おなか触られるの」

「っ……ちょ、まっ、待て待て待て、待て……!!」


 触れるだけならまだしも、柔い力でさすさす撫でてくるからあまりにも焦って、ぐいっと半ば強引に満月みつきの細い手首を掴み上げた。

 弱いのは触ってるのが満月だからだとかそんな生々しいことは言えるはずもなく、上がりかけた体温を誤魔化すように待てを連呼してしまう。


 すると満月は虚を突かれた顔をし、目を丸くして俺を見上げた。


 そのまま、時間が止まったみたいにふたりして固まる。

 かと思うと満月はぱっと顔を背け、見られたくないみたいに、俺が掴んでいるほうの手でガードしてしまった。


 ……その指の間から覗く頬に、わずかに朱がさしているように見えるのは──俺の都合のいい錯覚、だろうか。


「……………………」

「……………………」


 なんだかものすごい気まずさが込み上げて、満月の手首を掴む力を抜くと、するりと簡単にその体温は離れた。


「……はやく、っ……戻ろ」


 小さな声を落とした満月が、紛らわすように歩く速度を上げてスタスタと廊下を歩いていく。


 ……結局、よしよしするみたいに腹撫でてきたのはなんだったんだ、一体……。

 思わせぶり女子の小悪魔テクニックかよ。……だとしたら、効果覿面だよ……。

 呆然としながら、満月に触れられた箇所をなんとなく自分でさすった。


 そして、やっと気づく。


 満月……、二年前俺が刺されたところ、いまでも憶えてるんだな。

 ……なんて、当たり前か。


 この消えない傷痕を、俺の他に一番見てるのも、彼女なんだから。



 ※ ※ ※



「ふたりともさ、直近でなんかおかしなことなかった?」


 その日の夕食後。

 母さんの買ってきたちょっとお高めのアイスで糖分摂取しながら、今日も仲良くぴったり寄り添ってソファーに座っている義妹ふたりに問いかけた。


 ちなみに白羽しらははクッキー&クリーム、紅羽くれははリッチミルク、俺はストロベリーと見事にバラバラな味をチョイスした。

 母さんは湯上がりにグリーンティー味を堪能するつもりらしく、一足先にいま風呂に入っている。

 あの人に余計な心配をかけるわけにもいかないし、探るならいまが絶好のチャンスだろう。


「おかしなこと?」

「うん。なんか、いやなこととか、ヘンだなって思ったこととか。心当たりない?」

「いやなこと……? ヘンだなって思ったこと……」


 白羽は俺の言葉を反芻して真剣に考えながら、スプーンで掬ったアイスを小さな口に運んだ。

 直後、はっとしたかと思うと、眉根を寄せて深刻そうな表情を見せる。


「白羽っ、なんか思い当たることあった?」


 身を乗り出して訊いたが、白羽はふるふると首を振り、


「きーんって、きた……」


 ……目をつぶってこめかみのあたりを指で押さえた。


「アイスクリーム頭痛、なりやすいですよね。白羽姉さん……」

「か、可愛いかよ……。っじゃなくて、大丈夫?」

「……だ、だい、じょうぶっ……」


 恥ずかしそうに顔を隠しつつ、こくこく頷いている白羽。

 あんな少量のアイスでキーンってなっちゃうなんてほんとに可愛いかよ……。

 ともあれ、白羽は特に思い当たることはなさそうだ。よかった。


「紅羽は、気になることない?」


 横から抱き寄せる形で白羽の側頭部をよしよししてあげている紅羽に尋ねると、


「えっ。わたしは」


 紅羽はほんの一瞬、白羽をちらっと見て、


「……いえっ。わたしも、特になにもないですよっ?」


 ぱっと、まるで取り繕うみたいに笑ってみせた。


「そ、そう?」

「はいっ。……んーっ、アイス美味しいですね」

「ん……そうだな」


 全然、特になにもなくなさそうなリアクションだった気がするけど……?

 さっき白羽をチラ見していたし、もしかしたら、姉に聞かれたくないのかもしれない。

 いまここで聞き出すのは難しそうだ。


 でも……、もし紅羽がストーキング被害に遭っているなら、一刻も早く助けになってやりたいと思う。

 この気持ちは間違いなくエゴだ。それでも義理とはいえ彼女たちの兄貴である以上、俺が心配する道理はちゃんとあるはず。

 なにかあってからじゃ……遅い。


 食べ終えて空になったアイスの容器を軽くすすいでから捨て、自分の部屋へ上がった俺は、机に無造作に放置していたシャー芯の容器を目に留めた。

 残り、あと数本しかない。

 しばし考えた後、スマホを取り出し、紅羽との個人チャット画面を開いた。


【いまからコンビニ行きたいんだけど、一緒に来られる?

 ちょっと紅羽とふたりで話したいことあって】


 一分も経たないうちに既読がつき、【わかりました。ついていきます♥️】とハートマーク付きの了解が返ってきた。


 ……っいや、ハートマークて。

 思いもよらずどぎまぎしてしまう。

 なにせ、満月はふざけてる時くらいしかそんな絵文字使わなかったし、言わずもがな他の女子からハートなんて送られてきたことがない。


 だめだ……。落ち着け、相手は義妹だ……!

 こんなことで照れていたら紅羽の思うツボすぎる!

 意図のある絵文字なのかは知らんが!


 平常心を保ちつつパーカーを羽織り、一階へ戻った。

 リビングのドアを開けて顔を覗かせると、ちょうど風呂から上がったらしい母さんがキッチンの冷凍庫からアイスを取り出しているところだった。


「シャー芯切れてるから、ちょっとコンビニ行ってくる」


 ドアの傍からそう告げると、俺が誘う前に紅羽がすっくと白羽の隣から立ち上がった。


「あっ、わたしも、買いたいものがあるのでおにぃちゃんと一緒に行きますっ」


 長い髪を揺らし、ぱたぱたと俺の元へ駆け寄ってくる。


「上着取ってくる?」

「いえっ、長袖ですし、大丈夫ですよっ」


 招き猫みたいに両手を掲げて、部屋着の長い袖を見せてくる紅羽。

 しっかり萌え袖で超あざとい仕草だ。

 計算でも天然でも紅羽がすると可愛すぎてやばいな、これ……。

 やりとりする俺たちを見て、母さんと白羽は目を瞬かせた。


「えー、こんな時間にコンビニ? 車出そっか?」

「や、近いから車で行く距離じゃないし。母さん風呂入ったばっかじゃん。ふたりで行ってくるよ」

「そーお……? 大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫。紅羽のことはなにがあっても俺が守るから。行ってきます」


 怪しまれないようにスムーズに断り、これ以上なにか言われる前にさっさと廊下へ出た。


「おいでー、紅羽」

「……………………」


 玄関へ向かいながら紅羽を呼んだが、返ってくるのは沈黙のみだった。

 あとをついてきている気配もない。


 あら?と思い振り返ってみると、紅羽はまだドアの傍で足を止めたまま、なぜかほうけたように俺を眺めていた。

 目が合ったタイミングで意識を取り戻したらしく、やや慌てた様子でリビングの中に顔を向ける。


「じゃっ、じゃあ、行ってきますね。白羽姉さ──」


 その瞬間、紅羽の声が誤作動でも起こしたみたいに、中途半端に途切れた。

 ん……?

 さっきから、ほんとどうした?


「……行ってらっしゃい」


 リビングから、小さく白羽の送り出す声が聞こえてきた。

 続いて母さんの「夜道気をつけてね~」という呼びかけも。

 紅羽はそれに「はい」と曖昧にほほ笑み、なぜか先ほどよりも重そうな足取りで、こちらへ歩いてきた。


「行きましょうか、おにぃちゃん」


 笑ってはいるが、ちょっと、浮かない表情に見える。

 ……やはり……、紅羽はなにか、心配ごとを抱えているんだろう。

 ここは兄貴として、しっかり力になってやらなければ。



 ※ ※ ※



 ────と、思っていたのだが。


「心配ごと……ですか? さっきも言った通り、ありませんよっ」

「エッ」


 夜道を歩くすがら、改めて尋ねてみたところ、返ってくる答えは変わらなかった。


「ほ、ほんとにないの? さっきは、白羽に心配かけたくないからはぐらかした……とかじゃなく?」


 杞憂だったのかと内心焦りつつ訊くと、紅羽はぱちくりと、驚きと不可解を足して二で割ったような顔で目を見開いた。


「どうして……、そう、思ったんですか?」

「どうしてって……だって俺が訊いた時、一瞬、白羽のこと見てたよな? だから白羽には聞かれたくないのかと思って、連れ出したんだけど……」


 てんで見当違いな気遣いだったなら恥ずかしいし、わざわざついてきてくれたのに申し訳ない。


「……あと、家出る前、なんか元気なくなかった?」


 気になったことにもついでに触れると、紅羽はさらに呆気にとられたように俺を見つめた。

 街灯に照らされたその顔は、間近からの上目遣いだからなのか、いつもよりも幼い表情に映る。


 やがて紅羽は、頬を染めてはにかんだ。


「わたしのこと……よく、見てくれているんですね。おにぃちゃん」


 それは褒められているのか、気持ち悪がられているのか。


 後者にしては──さりげなく近づいた距離が、俺に向けてくる表情が、まるで甘えたがっているみたいで、ひどくくすぐったい。


「っ…………」

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