第19話 末妹は男を知らなさすぎる
……どうやら、正面からでもなかなか縄が解けないらしい。
どんだけきつく結んでんだ。やっぱ、
「っく、……ぅん、んっ……!」
「……、……」
……いや、やめろ、ここで『声マジで可愛いな』とか思っちゃいけない。
俺の上で揺れる身体の振動に少しでも意識を持ってかれちゃいけない。
なにも考えるな。
「……ふっ……んん、ぅー……っ……!」
……いや、違う、なにか考えよう。
なにを考えようかな。ああ、あれだ、素数とか? ええーっと……1、2、3、5、7、11、13、17、19、23……29、31? 次はなんだっけ? なんだっけなー、あ、37、で、41、43……47、51……
「──解けましたっ……!!」
「ぶはっ!! はあっ、はあっ、はっ……!」
「えっ? おにぃちゃん、息止めてたんですかっ?」
溺れかけた人並みにゼェゼェと荒い息を繰り返す俺の顔を、すぐにベッドから降りた紅羽が心配そうに覗き込んでくる。だからもう前傾姿勢になるな!
俺はすぐさま上体を起こし、呼吸を落ち着けつつ、ひりつく手首をさすった。
擦れてちょっと赤くなってはいるものの、目立った外傷はない。
やっと解放されたというのに、いまになってドッと一気に疲れが押し寄せてきた。
……しかし、残念ながらまだ、俺にはしなければいけないことがあるのだ。
「ごめんなさい……。痛みますか……?」
「いやこんなのは明日には治ってるから。……それより、紅羽」
「は、はい?」
俺はベッドから降り、テーブル付近に置いていた座布団を手に持った。
紅羽は解いた麻縄をくるくると丁寧に巻きながらも、不安げな上目遣いで俺の動向を窺っている。
そんな彼女の足元に座布団を置き、努めて真面目な顔をつくった俺は、座布団を指さして言い放った。
「──ちょっとここに正座しなさい。いまから俺はお前を叱る」
※ ※ ※
ネグリジェの上から俺のパーカーを着させ(ファスナーもきっちり上まで閉めさせた)、敷いた座布団の上に紅羽を正座させた。
俺も彼女の真正面のカーペットの上に同じように正座し、厳しい目付きを彼女に向ける。
紅羽は肩を窄め、俺を上目遣いで見つめ返してきた。その緊張した面持ちは、叱ると宣言したからなんだろうが……。
なんでちょっと、どきどきしてるみたいに顔赤らめてんだこの子。
「さっき言ってた、可愛い女の子に縛られて襲われるのが男の夢って、それどこソース?」
彼女の様子を不可解に思いつつも、それ以上に不可解極まりない点を、ひとまず紅羽に尋ねた。
随分自信ありげに言い切っていたからなにかしらの根拠があるんだろう。
性欲うんぬんはまだしも、恋愛指南書とやらにそんなマニアックな具体例が書かれているとは考えづらい。
「数日前……わたしに告白してくださった男の人が、『
「うん、……うん? はっ?」
「だから、わたしに襲われたいってどういうことか、詳しく聞いてみたんです」
「いやあの、ちょ、ちょっと待って? それは、……冗談なんだよな?」
笑おうとして顔が引き攣った。
どこからがネタかわからないし、この状況下で出任せを言うなんて神経を疑うが、さすがにふざけた冗談にしか聞こえない。
しかし紅羽にとぼけている様子は一切なく、きっぱりと真剣に首を横に振った。
「本当の話です。その時のわたしはおにぃちゃんに好きになってもらうために、男の人が好むことならなんでも知りたいと思っていたので。そしたら、『可愛い女の子に襲われたら男はみんな喜ぶものなんだ』という旨のお話を懇切丁寧に教えていただいて……」
「……………………」
「あっ、でも、もちろん交際のお申し込みはお断りしましたよっ。わたしはおにぃちゃんと付き合いたいのでっ!」
「……………………」
俺は思わず、額を押さえて絶句していた。
聞くに堪えない話すぎたので最後のほうは耳に入ってない。まったくもって最後のほうは耳に入ってない。
も……もう、ネタを通り過ぎて洒落にもならねえ。
マジで、俺はどこからツッコめばいい?
頭痛くなってきた……。
「おにぃちゃん?」
「え……? 待って待って……。それでお前は真に受けて実行したの? なんっだそれ……。心っ配っすぎる……っ」
戦慄して声まで震えてきてしまう。
そんな俺を見て紅羽がきょとんとした顔で小首を傾げてるからなおさら怖い。
よくないけど、全然まったくこれっぽっちもよくないけど……紅羽が襲った相手が俺で、本当によかったと思う。
つーかうちの可愛い義妹に、あたかも一般論かのように己の汚い欲望を吹き込みやがったのはどこのどいつだ。
そいつがまずヤバすぎる。気色の悪い告白フレーズ吐きやがって。
妄想しちゃうのはしょうがないとはいえちゃんと心の内に留めとけよ……許せねえええ……っ。
「その……告ってきた男に、なんかいやなことされたりとかはなかった……?」
「えっ……? そんなの、されませんよ? というか、させません。護身術は一通り心得ていますから大丈夫ですっ」
「……………………」
……しっ……心配すぎる~~……。
胸元に手を当ててキリッと自信満々に言い張る紅羽に、いまとなってはもう不安しか覚えない。
しっかり者、のように見えてどこか危なっかしい──という印象はいだいていたものの、彼女はもしかしたら俺が思う以上に、ポンコツなんじゃないかという気がしてきた。
……ポンコツっていうか、男のこと、ほんとになにもわかってなさそう。
「じゃあ、さっきもし俺が抵抗してその護身術とやらを使ってたら、相当危ない状況だったんじゃない? 脚は縛られてなかったんだし。俺、確実に紅羽より筋力あると思うよ」
「えっ? ……おにぃちゃんみたいな心優しい人が、こんな可愛い義妹に暴力なんて振るえるんですか?」
それは質問でも確認でもなく、暗に『無理ですよね?』という反語を伴った主張だった。
今度も冗談ではないらしく、小首を傾げ、わざとらしいほどきゅるんっきゅるんの曇りなき
マジで自分の魅力を完全に理解している子の顔だ。おったまげてしまう。あまりにも可愛すぎて。
……が、ここは心を鬼にしなければいけない。
「こら」
呆れに加えて若干の怒りまで込み上げてきた俺は、けれどなるべく優しい声を意識して出し、紅羽に腕を伸ばした。
瞬間、紅羽がビクリと肩を跳ねさせ、わずかに怯えるように瞳を細めた。
俺はその小さな頭を軽く撫でるみたいにして、手のひらを彼女の頭頂部に置いた。
柔らかく細い髪のさらさら感が伝わってくる。
「乱暴なんかできねえのは事実だけどな。紅羽お前……、男のこと舐めてる節あるだろ」
紅羽はじわりと頬を赤く染め、少し驚いた顔でこちらを見上げた。
「なっ……なめ、舐めてるなんて、そんなことは」
「可愛すぎるぶん、危機感をちゃんと持ってほしいってことだよ」
「っ……」
すぐに手は離しつつ、言い聞かせる。
こんだけ可愛くて成績優秀で普段は上品で、しかもコミュニケーション能力にも長けているのだから、周囲の男からはさぞかし敬愛の眼差しを受け、紳士的態度を取られてきたんだろう。
……しかし、みんながみんな、そんな弁えた人間だとは限らない。数日前紅羽に告ってきたやつみたいな、ヤバい男だっている。
ともすれば、俺だって、危険な男である可能性は充分あったのだ。
「できれば男には、常に警戒心持っといてほしいくらいだよ。護身術知ってんのは頼もしいけど、それも万能ってわけじゃねえだろ? 大抵の男は女の子より体格いいし力強いし、そうでなくても……武器持ってる可能性だってあるしな……」
「す……すごく説得力があります」
「まっっったく自慢じゃないけど、被害経験者なのでね……。女の子ならなおさら危険だと思うんだよ」
苦い気持ちで腹の左下あたりをさすった。
そもそも護身術って警戒心を持っとくことが大前提なんじゃないのか、よく知らねえけど。目潰しとか急所を蹴るとかのイメージはある。
果たしてこの可愛い子にそんなことができるんだろうか……本気で心配すぎる……。
「とにかく、紅羽が男のこと知らなさすぎるのが問題だな……」
ため息混じりに呟くと、紅羽はひどく恥じらうように肩を竦めて俯いた。
その反応に遅れてぎくりとする。
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