第18話 末妹は痕に触れる

 ※ ※ ※



 ────そして、物語は冒頭へと舞い戻る。



「……とっても長い回想でしたね」

「メタ発言に躊躇がねえな……」


 ……状況整理をしよう。

 一昨日告白してくれて、昨日義妹になったばかりの紅羽くれはに、俺は睡眠導入剤を飲まされてしまったらしく自室のベッドの上で意識を落とした。


 そして現在、午前一時過ぎ。

 目を覚ますと、倫理的に非常によからぬ事態が発生──いや進行していた。

 俺を好きだという紅羽は、依然として俺の上に跨っており、俺の腹部に手を添えたままほほ笑んでいる。

 俺の両手首を麻縄で拘束し、ベッドのヘッドボードに縛り付けた上で、だ。

 ──つまり、俺はいまにも、義妹に取って喰われようとしているというわけだ。


 なんでこんなことになってんだ!! !!


 俺は尋常でないほどの冷や汗を感じながら、ローテーブルに放置された、もうすっかり冷めてしまったであろうムーンミルクの入ったマグに視線を向けた。

 半分くらい飲んじゃったはずだけど、あのミルクの中に、睡眠導入剤を混ぜられてたってことなのか?

 俺を眠らせ、そして縛るために……?


 ゾッとするどころじゃない。ふつうに、めちゃくちゃ恐ろしすぎる。犯罪じゃないのこれ。違うの?

 現在進行形で身の危険に直面しているせいで、ちっとも冷静になれない。


『“お兄ちゃん”は──妹に恋をするもの、なんですよ?』


 眠りに落ちる前に囁かれた台詞が脳裏に蘇ってくる。

 ただ俺に恋をさせる──俺をオトすためだけに、こんな大掛かりなことを?


「ふふっ……。おにぃちゃん、着痩せするタイプなんですね。服の上からでも割れてるのがわかります……。かっこいい……」


 うっとりとした表情で、腹筋の割れ目に指を這わせてくる紅羽に、ただただ血の気が引く。


「っ紅羽、やめろ、頼むから……」


 相手は可愛すぎる女の子とはいえ、さすがに、こんな状況で全然ときめけない。怖い。怖すぎる。


「どうして怖がるんですか? 危害を与えるつもりなんてないのに」

「じゃあなんで縛ってんだよ……!」

「可愛い女の子に縛られて襲われるのって、男の人の夢なんでしょう?」

「どっからツッコめばいい!?」

「心配なさらないでください。おにぃちゃんに不快な思いはさせないように頑張ります。……ただ、わたしで、気持ちよくなってほしいだけなんです」

「…………っ!」


 腹部からゆっくりと下へ降りてきた細い指が、スウェットのウエスト部分のすぐ上を妖しくなぞる。

 ゾクリと、肌が粟立つ。あまりに理解不能すぎて、言葉を失う。


「男の人は性欲を刺激されると、どきどきして恋愛感情が生じやすいって、心理学に基づいた恋愛指南書にも記述がありました。おにぃちゃんが童貞じゃない可能性は視野に入れていませんでしたが……、きっと、上手くやれます。これでもわたし、なんでも器用にこなしていままで生きてきたんですよ」


 いや、女性経験ないって決めつけられてたのもよくよく考えたら地味に酷いな──なんてとても言っていられない事態である。本気で、やばすぎる。

 心臓がこれ以上ない速さでバクバク脈打っているが、言うまでもなく恋愛感情なんて露ほども生じない。

 どこから是正すればいいのかわからないレベルで、彼女の思考回路がマジで、おかしい。


 どうすればいいんだ、これ。


 幸い脚は縛られていないから、勢いをつけて力を振り絞れば、彼女の身体を無理やり捩じ伏せることはおそらく可能だろう。

 が、抵抗もされるだろうし、手荒い暴力行為になることは避けられない。

 正当防衛──のはずだが、そんなすぐに思い切れるわけもない。


 なにしろ相手は、これからめちゃくちゃ大切にしていくと心に決めた、可愛い義妹なのだ。


 しかしそんなことを考えている間にも、シャツの下に指を差し込まれ、焦らすように時間をかけて捲り上げられていく。


「く、紅羽っ……!」


 とにかく、どうにか説得して止めさせないと──具体的になにを言うかも決まらないまま、名前を呼んだ直後、だった。


 ────ぴたりと、シャツを捲る紅羽の動きが止まった。


 もしかして思いとどまってくれたのかと、彼女の顔を確認する。

 彼女は、数秒前とは打って変わって戸惑った表情を浮かべていた。

 その視線は、ある一点に向けられている。


 ──……ああ、と納得した。



「え、っと……この、……傷痕は?」



 彼女が目に留めたのは、俺の左下腹部に深く刻まれている、少し引き攣れた創傷だった。

 二年くらい経っているからすでに赤みはなくなっているものの、色素沈着していて消えない、俺の黒歴史の始まりとも言える──苦々しい


 人から指摘されるのは随分久しぶりだ。

 どう答えようかと逡巡して、……そのまま、説明すればいいのだと思い至った。


「中学ん時、下校中に不審者に刺されたんだよ。ちょうどいまの紅羽みたいに、上に跨られて、──気づいた時にはナイフでブスッとされてた」


 言い回しがあくどいかもしれないが、嘘偽りも誇張もない事実だ。一部の情報は伏せたとはいえ。

 すると紅羽はもともと大きな瞳をさらに大きく見開き、


「ごめんなさいっ……!!」


 顔を真っ青に染め、即座に俺の上から右側へと退いた。

 土下座でもするみたいに手をついて正座し、酷く狼狽えているのが見てうかがえる。

 一縷の望みにかけて話した俺は、しかしまさかここまですんなり引き下がってくれるとは思わず、目が点になった。


「わ、わたしっ、そんなつもり、なくて……。と、トラウマ呼び起こしてしまいましたかっ……?」

「いや、……うん、そうだな……。まあトラウマではあるから、退いてくれてよかった」

「ほ、本当に、ごめんなさいっ……。知らなかったとはいえ、き、傷つけてしまうなんてっ……! そんなことがあったなら、怖くなるに決まってますよね。察しが悪くて、すみません……っ!!」

「ま、まあ……察せるわけないし二年も前のことだし、そこまで謝らなくても、いいんだけど……」


 な、なんか、突然いい子すぎない……え……?

 縮こまって何度も謝る紅羽があまりにもしおらしくて、心が追いつかない。


 ……いや、そもそも紅羽は初対面(ここでは一昨日のことを言う)から、ずっといい子だったのだ。

 可愛くて礼儀正しくて気が利いて料理上手で日々の努力を惜しまなくて、重いものもひとりで持ってしまう、本当に年下なのかと疑うくらいのしっかり者だ。


 俺を組み敷いて強行突破しようとする彼女を目の当たりにして、もしかしてこっちが本性なのかと思ったが……やはり、違うんだろう。

 いや、厳密に言えば、豹変したわけではなく、紅羽なりの地続きでの行動……なんだと思う。


 ……と、いうことは。

 本気で、純粋に俺を喜ばせるために、こんなぶっ飛んだ奇行に走ったってことか……?


 だとしたら、白羽といい紅羽といい、マジで貞操観念どうなってんだ、うちの義妹たち。


「……あの、さ、紅羽」

「は……、はい……」

「とりあえずこれ、解いてくれる?」

「……っわ、わかりました」


 顔を青ざめさせたままベッドから降りた紅羽が、ベッドサイドに括りつけられた麻縄に手を掛ける。


 なにはともあれ、なにごともなく解放されることに心の底から安堵した。

 両手が使えないって、思ったよりも不自由で怖い。脚まで縛られていなくて本当によかった。

 さっきベッドの下に使っていない麻縄が落ちているのが見えたが、もう気づかないふりをしておこう。触らぬ神に祟りなし。というより臭いものに蓋だ。


 ……しかし、待っていても一向に麻縄が弛む気配はなく。

 顔を持ち上げると、困り眉の紅羽と目が合った。


「あの、すごくきつく絞めてしまったので、正面からじゃないと解けそうになくて……」

「ああ……」


 途轍もなく申し訳なさそうな顔の紅羽に、言わんとすることを察した。

 ……やむを得ない。


「俺の上、跨っていいよ」

「……し、失礼、します……っ」


 気が引けるようで、紅羽はおずおずと先ほどよりも遠慮がちに、俺の腹部を跨いで膝立ちになった。

 そして俺の頭上に位置する麻縄の結び目に、改めて紅羽が両手を伸ばした、その拍子に。


 俺は息を、呑んだ。

 というか、呼吸が止まった。

 なんなら心臓も止まった。


 紅羽が手を伸ばしたことで、思いのほか彼女は前のめりな体勢になり、必然的に──文字通り、俺の目と鼻の先に、質量のある胸部が急接近したのだ。

 鼻先に触れそうで触れないほどの至近距離に、身体が強張る。

 しかもよりによって胸元が開いたネグリジェだから、角度的に白く豊満な二つの曲線と、深い谷間が覗いて────



 俺は馬鹿かっっっ!! !!



 時間にしてわずかコンマ五秒ほどで、俺は即座に顔を真横に向けて強く目を瞑った。

 我ながら紳士的な対応の速さだと思うので、コンマ五秒の間で網膜に焼き付いてしまった光景についてはどうか、どうか不問に付されたい。

 真っ暗闇の中、どうにか脳内を空っぽにしようと葛藤する俺の上、


「……っふ、ぅ、……んん……っ!」


 ……なぜか、吐息混じりの、いやに悩ましげに聞こえる声が落ちてくる。

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