第17話 末妹は童貞より特別を求める

 思いがけない質問を放った張本人の紅羽くれはは、予想外の反応を目にしたみたいに「わぁっ、大丈夫ですかおにぃちゃんっ」とマグをテーブルに置いておろおろしつつ俺の背中をさすってくれる。


「んなっ……ケホッ、えっ? なにっ? どっ?」


 あまりにも衝撃的すぎて、にわかにはいまの発言を呑み込めなかった。

 いま、ど、童貞……っつったんだよな?

 天使と呼ばれるほど可憐すぎる女の子が、その可愛すぎる口から、愛らしすぎる声で平然と……。

 紅羽が言うとひどいギャップにただただ愕然とせざるを得ない。たぶん白羽しらはにも同様だ。


「っケホ……。なんでいきなり、そんな話?」

「だって、おにぃちゃんには一時期付き合っていた幼馴染の相手がいらっしゃるんでしょう?」

「ああ……、えっと、白羽からなんか聞いた?」

「いいえ」


 紅羽はすぐに首を振った。


「白羽姉さんは他人のプライバシーに関わることを無断で話したりしません。さっきのおにぃちゃんと白羽姉さんの会話を、わたしが勝手に盗み聞きしてたんです」

「そ、そっか。聞いてたのね……」


 ドアは全開にしていたのだから、盗み聞きという言い回しはスルーするとして。

 …………うん?

 聞いてた、って、どこから?

 だって満月みつきの話をしたのは、白羽が太腿に触らせてくる前で──


「……べつに、わたしは気にしませんよ」

「えっ?」

「おにぃちゃんが童貞じゃなかったとしても、わたしは構いません」

「はっ……!? なに言っ」

「わたしは童貞厨というわけでもありませんし」


 紅羽は至って真面目な顔で、なおも衝撃的な台詞ばかり吐き続ける。


「まあ欲を言えば、わたしがおにぃちゃんの童貞をいただきたかったのですが、すでに卒業されてしまったのならしょうがないです。そこはちゃんと我慢します。その代わり、童貞よりもっと特別な初めてを──」

「待て待て待て、そんなワード連呼すんな! なんか、罪悪感がすっごいから……!!」

「んむっ」


 焦った俺は、マグを持っていないほうの手で紅羽の口を塞ぎ、それ以上の言及を防いだ。

 それはよかった、のだが──紅羽があどけない声を上げると同時、ふにっと柔らかな唇の感触が、手のひらの一部分に訪れるのを感じた。感じてしまった。


「…………っ!」


 これはこれで罪悪感が込み上げ、ほぼ条件反射ですぐさま手を離した。

 口を塞がれた直後にすぐに解放された紅羽は、不可解なのか、俺をじっと見上げてくる。

 俺はなんとなく目を逸らした。


「あ、あと、あのね……。彼女がいたイコールそういう経験があるって結びつけるのも、如何なものかと思いますよ……?」

「えっ? じゃあ、おにぃちゃんはいまでも童貞だと思っていいんですか?」

「こ、こら!」


 思わず短く叱ると、紅羽はきょとんと大きな瞳をしばたかせた。

 さっき俺が口を塞いで窘めた理由を、まるでわかっていないらしい。

 本人は否定してたけど、ここまで言及されると逆に童貞厨なんじゃないかと思えてくる。

 いや童貞厨ってなんだよ。処女厨ならわかるが。


 童貞かそうじゃないかとか、そこまで気になるもんか?

 そりゃあまあ、男としても、好きな子が初めてか否かはだいぶ重要なところではあるんだけど……。

 でも、ちょっと、あまりに開けっぴろげに話しすぎだと思う。

 というか、彼女の清らかなイメージとかけ離れた話題すぎて、俺の心が追いつかない。


 ……それに、訂正しておかなければならない点も、ある。


 俺は気を取り直すために軽く咳払いをし、マグをことりとテーブルに置いた。

 そして向き合うようにして、真剣に隣の紅羽を見据えた。



「紅羽。────ごめん」



 声に乗せるのは無論、先ほどの質問に対する答えではなく──断りの言葉だ。

 俺の改まった硬い声音に、察しのいい紅羽はやや顔色を変えた。


「昨日、紅羽が好きだって言ってくれたのは、本当にうれしかった。だけど、俺は紅羽と付き合うことは、できない。だから、紅羽と……そういうことをする気も、ないよ」

「……………………」


 もし本当に紅羽が俺を好いてくれているのなら、きっと傷つけてしまうであろうことは承知の上で、それでも、はっきり返事しておきたかった。

 今日のうちに、しておくべきだと思った。


「……どうして、ですか……?」


 紅羽はしばらく黙り込んだのち、悲しげに瞳を揺らした。

 その表情を目にした途端、胃のあたりにずくんと重い鈍痛が生じた。


「わたしのこと、まだ好きじゃないから……ですか? だったらっ、わたし、おにぃちゃんに好きになってもらえるように、たくさん頑張りますっ……たくさん、尽くしますっ……。だから……っ」


 断る立場のくせに傷つく筋合いなどないとは思う。

 それでも、普段天真爛漫な彼女のいつにない悲痛な懇願に、先ほどとはまったく違う意味の罪悪感が募っていく。

 だが……、だからこそ、ちゃんと伝えておきたい。

 俺は彼女の言葉を遮るように、首を振った。


「紅羽とはこれから、家族になりたいと思ってるから。俺は紅羽のことも白羽のことも、妹として大切にしたいんだよ。義理とはいえ、妹のことを恋愛対象としては……、見られない」


 断る理由なんて、本当はいくつも思い浮かんだ。

 こんな時にも脳裏をちらつく幼馴染の存在は、別れたいまでもなお、俺の中で大きすぎる。

 しかし隣にいる彼女を無暗に悲しませるのは本望ではないから、いまこの状況で最適な答えだけを、返した。


 ……それが、いけなかったのだろうか。

 紅羽がすんなり納得してくれる気配は、なかった。


「でもっ……いまは、そうでも……未来はわかりませんよね……?」


 紅羽は膝の上に置いた手をぎゅっと握り込み、俯いて声を落とす。


「血の繋がりがないのですから……、いくら家族と言えども、うっかり異性として、性的な目で見てしまう瞬間はきっとあります。……さっき、白羽姉さんの肌に触れて、本能的に揉んでしまったように」

「…………っ!」


 やはり、見られていたらしい。

 動揺してカッと頬に熱が集中した、その隙を狙って、紅羽の手が俺の肩に触れた。

 そのままぐっと掴まれ、


「さっき……、わたしの唇に触れた瞬間、すぐに離してしまったように」


 ────次の瞬間。


 抵抗する間もなく、一気にベッドに押し倒された。

 視界が反転すると同時にくらりと脳が揺れる感覚がして、回路をき止められたみたいに、一瞬思考がはたらかなくなる。


「…………っ」


 なにが起こっているのか冷静に理解できず、しかしとっさに事故と判断した手だけは、紅羽の頭を守るように抱え込んでいた。


 紅羽はそんな俺の手に驚いた顔をして、その直後、とろけるような笑みを見せた。

 ……俺を、強い力で組み敷いた体勢のまま。


陽富ひとみせんぱい……」


 行き場を失った俺の手に、紅羽が滑らかな頬をすり寄せてくる。瞳を閉じた状態だと、そのまつ毛の長さが際立つ。

 呑気に間近の視覚情報に気を取られていた俺は、ようやく抵抗すべきだという思考に至った。

 思いのほか力強かったし、いまもほぼ全体重をかけられているが、それでも女の子ひとりの身体を押しのけることなんて俺には造作もない。


 ……はず、なのに、身体が思うように動かない。


 ぱたり──と、持ち上げていた手が、脱力してシーツに落ちた。

 ベッドに吸い寄せられているのかと思うほど、力が、上手く入らない。


 顔の傍に落ちた彼女の長い髪から、花のような香りがする。

 白羽と同じシャンプーの香りのはずなのに、それは何故だか一際甘やかに感じられた。


「あなたの妹になること、はじめは戸惑いましたが……いまは絶好のチャンスだと思っています」


 俺も、疲れていたのか。

 半ば強制とはいえ寝転ばされているから、なのか。

 驚くことに、こんな状況だというのに俺は、強烈な睡魔に襲われていた。

 視界が霞み、次第に思考力が鈍っていく。

 なのに彼女の静かな声だけは、まるで催眠術のように奥深くまで入り込んでくる。


「感情って、理性より先に動くものですから。妹だと思いたくても、触れて、ときめいて、……意思に反してうっかり、恋愛感情をいだいてしまったら」


 俺の状態を見透かしたように、紅羽の細く綺麗な手が、そっと目元に宛てがわれた。

 びくりと、身体が震える。


「そしたらもう戸籍上の関係なんて、どうでもよくなっちゃいます」


 耳にキスでもされているのではないかと思うくらい、近く。

 脳髄にまで響くのではと思うくらい、深く。

 くすぐったくなるほど甘やかな、吐息混じりの優しい声で──天使が囁く。


「だから、ね。おにぃちゃん。……わたしに、恋してください?」


 いや、もしかしたら。

 彼女は、天使、などではなく────



「“お兄ちゃん”は──妹に恋をするもの、なんですよ?」



 耳に直接流し込まれるあでやかな声と、広がる暗闇に引きずり込まれるように──俺は意識を手放した。

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