誘い
ある日の夜、カフェ・ゴトーにて。
「はい、今日もお疲れさま。レジはボクが閉めるから、美佳さんはもう上がっちゃっていいよ。21時まで付けておくから。」
後藤はサイフォンを手入れしながら言った。
「ありがとうございます、お先に失礼します。」
バックヤードでエプロンを脱いでロッカーに吊るし、美佳は愛車のBMWに乗り込む。
「ふう、今日はお客さん多くて忙しかったな。……ひとっ走り行くとするか。」
BMWを買ってすぐの頃にアキラと出会った後も、美佳はアルバイト後にしばしば峠に寄り道するようになっていた。
「溜まり場にいるのは数台……今日もアキラさんはいないか。追いつかれる前にさっさと走っちゃお。」
美佳は自身がまだ若い女子であることを自覚して、あまり話に加わったり、目立つことは避けていた。(純粋な車好きなら余程のことは無いだろうが……)
ただ、内心では、あの日の出会いから再びアキラとこの道で出会わないかと期待していた。
溜まり場からしばらく流して気持ちを整えて、ゴルフ場入口を抜けたあたりからペースを上げる。
318iの4気筒エンジンはBMW伝統のストレートシックスより少々荒々しく吹け上がり、美佳はエンジンの回転数に合わせて、自身の気持ちも高揚するのを感じる。
ゆるい右コーナーを4速全開で抜ける。
続く左コーナーに向けてセンターラインギリギリまで右タイヤを寄せてブレーキング、ヒールアンドトーで3速に合わせる。
ブレーキを徐々に抜くと荷重移動に合わせて前輪の横グリップが立ち上がり、コーナーの内側へ吸い込まれる感覚を得る。
3速全開で立ち上がり、4速に叩き込んだらジャブのような緩い左右をアクセルワークだけで抜けていく。
「よし、そうこの感じ。」
ここまでは雑誌や動画で見て、イメージトレーニングしたことが上手くいっている。
高速セクションを抜け、峠が目前に迫ると、待ち構えているのは美佳にとって苦手な左コーナー。
このコーナーは斜度とRの両方がきつく、フロントの接地感が薄くなり、どうしてもうまくいかない。
「うーーん、このコーナーの処理がなかなかいい感じにならないのよね。2速全開でも加速がもたつくわ。」
美佳はタイヤを鳴らしながらぼやく。
峠を過ぎると、湖畔へと続く下りセクションが始まる。勾配が下りに転じたことで、運転感覚が一変し、美佳の腕前が再び試される。
BMWは後輪駆動なので下りではオーバーステアが出やすく、少しトリッキーな挙動を見せる。
美佳はアクセルワークに気を使いながら、上りより早目にブレーキングをし、後輪のトラクションを感じながら丁寧にコーナーを抜けていく。
「下りはやっぱり感覚が違うわね……」
上りの勢いに比べるとまだまだ踏み込めていないのが自分でもわかる。
しばらく丁寧な走りで下りセクションを抜け、湖畔の駐車場に到着して美佳の心はほっとした。
エンジンを切り静かな湖畔でドライビングの課題を反省していると、湖畔の道を反対方向から1台の車が走ってきた。赤の86、アキラさんだ。
アキラは美佳のBMWが停まっていることに気づいて車を隣に寄せてきた。
「やっほ〜!山の上ではおひさ~。」
「わあ、お久しぶりです!と言ってもスタンドではちょくちょく会ってますよね笑」
「そうだね笑、なに、ここは相変わらずよく走ってるの?」
美佳はあれからドライビングテクニックを磨くために雑誌や動画サイトで研究して、バイトが終わった後も度々この道を走っていたことを話した。
「そっかそっか。ねえ、自分が後ろから追いかけるから、湖畔を半周、自分のペースで走って研究や練習の成果を見せてよ。どれだけ成長したのか、見てみたいんだ。」
美佳の目が輝いた。
アキラに自分の成長を見せて認めてもらいたい、そんな気持ちが沸き起こった。
「いいですね!ぜひ見てください!」
二台がエンジンを掛けて、美佳のBMWが先陣を切って走り始めた。
湖畔の道は見通しこそ悪いが、平坦でヘアピンなどのない高速セクションだ。
美佳のBMWがブレーキを残してコーナーに切り込んでいく。
テールランプの残像が伸びる。
しっかり車線の端から端まで使い切っているのがわかる。
「これが春にはギクシャク、フラフラ走ってた美佳?思い切りの良い鋭いコーナリング、まるで別人ね。」
美佳の進化に驚かされ、アキラの手には汗がにじんだ。
まだ荒削りなところはあるが、美佳の走りに秘められた可能性にアキラは興奮を覚えた。
そうこうしているうちに半周のポイントを過ぎて、アキラは美佳へパッシングとハザードをONにしてアクセルを抜き、減速を促した。
美佳も合図に気が付いてスピードを緩める。
その先の駐車場で二台は再び車を停める。
アキラは初めて会ったときと同じように、美佳に缶コーヒーを渡して笑いかけた。
「今の走り、ずいぶん変わったね。覚えてる?最初にこの道で走ったとき、2つ目のコーナーでびっくりするほどギクシャクしてたよ。」
「あれから色々と研究して練習したんです。でも、まだまだ改善するべき点はいっぱいありますね。」
アキラは少し真剣な表情に変わりました。
「美佳、公道で走り屋するのは楽しいけど、リスクもあるのは忘れないでね。北海道だと特に動物の飛び出しがあるから。この間も知り合いが鹿轢いてクルマ壊しちゃったよ。これからも速くなることを目指すなら、サーキット走ることも考えた方がいいね。」
美佳の目が丸くなりました。
「それは大変な……動物の飛び出し、考えてもいなかったです。」
「うひゃあ!支笏湖の周りなんかエゾシカだらけだから気をつけなきゃダメだよ〜!サーキットなら安全装備も整っているから、ドラテクに集中できるよ。私も最初は公道派だったけど、実は最近はサーキットでの走行がメインになってるんだ。」
「そうだったんですね、だからバイト帰りに通ってても会えなかったんだ。」
「そうそう、セッティング変えたときにちょっとテストするくらいかな〜」
美佳は少し考え込み、頷いた。
「アキラさん、ありがとうございます。サーキットでの走行、本気で検討します。公道の走り屋は楽しいけど、リスクをちゃんと理解して、もっと高い場所で自分を試してみたいです。」
「うん、また一緒に走って、クルマ楽しもう!」アキラもニコッと笑って答えた。
「近々サーキット行こうと思ってたから、そしたらLINEで予定空いてる日教えるね。」
「ありがとうございます、楽しみにしてます!」
「ところで、じゃあ今日はなんかセッティング変えたんですか?」
「おっ!気になる?実は車高調を買ったんよ〜」
「えー!どこの買ったんですか??いいなあ〜」
「ゆーてラルグスの安物だよw とりあえずキャンバーと減衰調整できるのが欲しくて……」
「いやいや、わたしなんてまだ生活費でいっぱいで車のパーツにまで回す余裕が泣」
「そのうちクルマに使ってから生活のこと考えるようになるよ笑。外車だとサスってどこのがいいのかしら?やっぱビルシュタインかしらね?」
「あーそのメーカー雑誌で見ました!よくわからないけど!笑」
さっきまでの激しいチェイスの緊張感はどこへやら、若干偏った女子トークが夜の支笏湖に消えてゆく。
美佳の心の中に、新たな挑戦への決意が芽生えた。
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