二話(2) アンタから代償、喰ってやろうかしら

本作は一部、暴力・残酷描写が登場する場合があります。

作中ルビは一部、フランス語表記です。

※R15推奨。卑猥めいた表現が登場します。苦手な方はお気を付けください。

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 そもそも精霊ってなんなんだ。


 混迷のはじまりは、なんの気なく放った一言だった。

「ルネは王都から来たんだったわね」

 王都の外れ生まれの“ハズレ家”育ち。はずれなりには運よく生きてきた自負があった、のだが。

「知らないのも無理はないか」呟く声はなんとなく偉そう。


 たった四つ上というだけで保護者ぶるリズ。本人は成人だと胸を張っていたが。出るとこなく直線的な体形のせいか、感覚は昔馴染みの友人に近い。

 背だってそう変わんないくせに。

 広場の時計を見つめる思案顔を、内心ぼやきながら見つめる。


「時刻もちょうどいいし。ついてきなさい」

 長く続く市場から脇道へ呼ぶリズ。その背を深く考えず追いかける。

 このに、血が滲むほど唇を噛み締めることになることなど。

 この時のルネは知る由もなかった。




 細い路地にある一軒のアパルトマン。その一階に居を構えるなんの変哲もない店。

 目当ての扉をリズは開いた。


「あら珍しい」

 ドアベルとともに、しっとりと転がる鈴のような声。

「すっかりご無沙汰だったから。ついにミイラになったのかと思っていたわ」

「……ずいぶんな挨拶ね、ビビアン。ヨアンは?」

「ふふ。再会の挨拶もないなんて。相変わらずせっかちなんだから」


 天窓から注ぐ陽光。まるで洞窟に踏み入ったかのような石造りの食堂ビストロ

 カウンターに客用の椅子がいくつかあるだけ。閉塞感さえ感じる店内に、まだヨアンの姿はない。


「坊やは初めましてね。私はビビアン。このカフェ“空腹の食事ラファン ルパ”亭主の精霊よ」

 見せつけるために晒した白い肌。スリットの入った黒のマーメイドワンピースに、波打つ長い黒髪を耳にかけるその指先まで妖艶なビビアン。ふっくらした唇がしっとりと湿度の高い声を紡ぐ。

「贔屓にしてね、坊や?」

「は、ははい!」

「ふふ、……かぁわいい」

 早くも手玉に取られている。そこは『オレは坊やじゃない!』じゃないわけ?


「いつもの、二人分!」

 注文だけ投げ、リズはルネとともに席につく。すると先客のスーツの優男が手を上げた。


「やあリズ。怪我もなさそうで安心したよ」

「どーも。セルジュ……は、あんまり元気じゃなさそうね」

 人懐こい羊を思わすくりくりの目。その下にはくっきり刻まれた深い隈。


「お陰様で……」

「なあにがお陰様よ。アンタのせいでの間違いでしょ!」

「その節はどうも」

「いけしゃあしゃあと、こんの小娘が!」

 セルジュの奥。銀色の髪をなびかせ、長髪長身がきゃんきゃん喚く。


「こっちは罰則のリスクを冒して、アンタに融通リークしてやったのよ。その報いが徹夜残業だなんて。不眠はオンナの敵なのよ!」

「り、リズ」ルネがリズの袖を引く。「あいつも精霊なのか?」


「そうよ。セルジュは聖都警察の人間で、ベルはその精霊。私とはそうね……持ちつ持たれつの協力関係ってところかしら」

「なーにが協力よ。寄生の間違いでしょ!」

「そんなことないよ。今回の一等級所持違反武器の密輸だって、リズたちのおかげで……」

セルジュは黙らっしゃい!」

「ご、ごめんよベルナード」

 謝るセルジュ。その頭に鋭利なフォークが突き刺さる。

「アタシのことはベルって呼びなさいって言ってんでしょ!」

 すらりと伸びた長身。目を見張る美男のベルだが、 “彼女”に男扱いは地雷なのだ。


「い、いたいいたい、やめてよベル!」

 夕陽のようなオレンジ色。羊を連想するふわふわの髪が、パスタのようにフォークに巻かれ。「ぐッ」呻き声とともに引っこ抜かれる。

「乙女の心を傷つけた。その報いを受けなさい!」

 巻いた髪を一呑みにするベル。リズの背後で小さな悲鳴が上がる。


「……オレ、こんなに精霊見るの初めてだ」

「なにを今さら。道端にだっているじゃない。靴磨きの精霊とか」

 道を歩けば、ぶつかるほどではないが、そこらに見かける存在だ。珍獣でもなんでもない。

 そうなんだけど、そうじゃなくて。ルネは身振り手振りで続ける。


「こんなに動いたり喋ったりするんだなって。本物の人間みたいで……」

 その人間に似たものが髪を貪る。その絵は王都育ちのルネには刺激が強かったのかもしれない。でも、……こんなものじゃない。

 ちょうどよく厨房から漂いだした、調理の香り。

「ルネ、あなた精霊について知りたがってたわね」

 頷くルネに、リズは手振りで訴える。黙って見ていなさい。


「今日も頼むよ、ビビアン」

「マルセルこそ、覚悟はよくって?」

 狭い厨房。中肉中背眼鏡の男、マルセルと向き合うビビアン。その手の中、馬車の御者が持つような黒い短鞭たんべんが鈍く光り。


「うぐッ!」

 鞭に頬を打たれ、勢いよくマルセルが床に倒れ込む。四つん這いに上がった尻に更なる一撃が振り落とされ、響く呻き声。

「やあね、この程度でみっともなく鳴いて。こらえ性のないブタね」

「ぼくはブタじゃ、あァ!」


 顔面蒼白のドン引き。背にへばりつくルネに、リズは肩越しに語りかける。

「ルネも聞いたことくらいあるでしょ。精霊は聖都にのみ存在する。代償を糧に願いを叶える存在だって」

「そ、そんなことより……」

「聖都にしかいないのは、精霊がリュミラックを包む湖。母の腕ブラ デル メールの外へ出られないからよ。水底に母の住む楽園があるからとか。反精霊団体たちの言葉を借りるなら、悪魔の力の源が沈んでいるからだとか。真相はどうであれ、奇跡は聖都にのみ存在するというのは確かな話」

 そうじゃなくって! 泣きそうなルネの前で、今も事態は進行中だ。


「ふふ。なあに、マルセル。あなた自分が人間だとでも言いたいの? このなりで? 私に殴られ感じているこの様で?」

 パァン! 破裂音にも似た音が響く。

「図々しいにもほどがあるわ。ブタに代わって、無様なあなたを見ているお客様に泣いて詫びなさい」

「あぐう、ご、ごめんなざい、ぼ、ぼくはブタです、お、お客様のお目汚しを、ごめんなさアァッ!」

「もう我慢できないの? ほんっと堪え性のないブタね。こんなんじゃ大事な大事なオムレットが半焼けよ」

「オムレット……?」ぽつりとルネがこぼす。

「その通り! あぐぅ……」

 絶え絶えの声でマルセルは説明する。


 ぼくの亡き妻、一番の得意料理であるチーズオムレット。それをビビアンは完璧に再現してくれるのだと。

「そッ、のための代償が、あぐ、この痛み。これがぼ、ぼくたちの、契約ぅ、――アァ、び、ビビアン様あッ!」

 一際強く鞭うたれ、床に沈んだマルセル。その背をビビアンは容赦なくハイヒールで踏みつけた。

「さて……焼けたわ。どうぞ召し上がって?」


 次々運ばれる四つの皿。可愛いらしい白い皿の上、蕩けるチーズはまるで花のよう。

「「いただきます」」

「――食えるかあ‼」

 カトラリーを手に取るリズとセルジュに、真っ赤な顔で怒鳴るルネ。髪パスタ程度、軽く上塗りされたことだろう。


「いいのかよ、あんな、おかしいだろ!」

「それは誰にとっておかしいの? 法、社会、それとも単なるあなたの主観?」

 だとしたら、ずいぶん自意識過剰だ。

「たった一人の意見で、法の下の他人の行いに口出しするというの」

「そんなつもりじゃ、ないけどさ……」


 リズはオムレットを一口頬張る。何種類もの自家製チーズが絶妙に絡んで溶ける。昔から微塵も変わらず、今日も絶品だ。

「あのねルネ。聖都では人も精霊も法の下で共存している。両者の間に禁忌は二つだけ。二重契約、そして契約主の“不幸”」


 思い出のチーズオムレット。マルセルの妻亡き今、それを守ることができるのは精霊のビビアンしかいない。

「び、ビビアンがいる限り。ぼくは彼女を、忘れないでいられる」

 まだ床に伏せたままマルセルは笑顔で続ける。

「ぼ、ぼくは幸せなんだ。こんな代償いたみ、なんてこと、ない」

 もっとも。リズは思う。

 彼の代償が本当に痛みなのかは正直、疑問だけれど。


「幻滅した?」

 どんな“願い”も叶えてくれる。探し人マイアを見つけ出してくれる奇跡のヒーローなんかじゃなくて。

 ルネはただ黙ってスプーンを口に運ぶだけ。その姿に何を思ってか、見た目通りの優男が口を開く。


「えっと、ルネ。これでも僕は住民を守る聖都警察官なんだ。何か困ったことがあったらいつでも訪ねておいで」

「まーたせるじゅはいい子ぶる! そんなだから毎度毎度、こんな小娘にいいように使われるのよ!」

 とんだ飛び火だ。「いっそのこと」凄みを増すベルが主を下敷きに身を乗り出し、

「次はアンタから代償、喰ってやろうかしら。小娘」

 鈍色のフォークがリズの髪を掬って弄ぶ。……嫌な方向に引火したものだ。


「前から目をつけていたのよ。日を透かすと澄んだ蜂蜜色になる。この色素の薄い栗色の髪」

「私に二重契約の禁忌を犯せと?」

「昔っから言うでしょ。ルールは破るためにある。それに……イケナイことほど愉しいことなんて、この世に存在しない」

 そうでしょ? 愉楽に細められた夕陽色の視線が、リズの奥に流れると。

 ゴト。卓上にフォークの切っ先が落ちた。


「見ない内に……耄碌もうろくしたようだな。カマ精霊」

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