二話(1) タダより高いものはない




 火を呑み込んだみたいだ。


 どれだけ離れられただろう。どこまで逃げたのかも分からない。住み慣れた街なのに灯りの見えない夜道は、まるで知らない世界のよう。

 身体はもう限界を超えていて。荒い呼吸の度に、喉が焼き印を押しあてられたように痛む。それでも止まれない。

 止まった先に待つのは、――。


「……が、し、」

 東に。とにかく、東の果てを目指して。

 砕けそうな足をひたすら動かした。




 瞼越しに届く朝の光。

 沈んだ意識がゆったり現実という水面に押し上げられる感覚。

 気だるい身体が寝返りをうとうとして、何かに阻まれる。


 なんだろう、重くて……あたたかい。

 暖かな毛布をぎゅうぎゅうに巻きつけられているような。不自由なのに心地いい圧迫感に身を委ねかけて、

「……いつになく、情熱的だな」

 耳元に落ちた低い声に、リズの意識が跳ね起きた。


「よあ、――ンッ!」

「大人しくしろ。加減が狂う。うっかり傷物になりたくはないだろう?」

 熱い声がこそばゆい。緩んだ寝巻の肩口でぼやくヨアン。こんなの大人しくできるわけがない!

 布団の中、圧し掛かるヨアンを押し返すが、大きな体はぴくりとも動かない。


「どきなさい、命令よ!」

「却下だ。聞き入れる道理がない。……力を抜けリズベット、受け入れればすぐ終わる」

「だれが、寝込みを襲うような奴に、大人しくやりますか!」


 落ちる溜息。不機嫌そうな赤い目がリズを刺したかと思うと、拘束が力を増す。

 やると決めたら、ヨアンはやる。彼が本気になったのなら。癪だけど、もう厄が過ぎるのを待つしか。

「往生際の悪い猫には、躾が必要だな」

 掠れ声と、ちくりと肌に触れるヨアンの歯に身が竦み。リズがぎゅっと目を閉じた、その時。


「なあ腹減ったんだけどこの家の冷蔵庫なんもなさすぎ――、」

 寝室である屋根裏部屋。その階下に繋がる床穴から、半分のぞいた紫色の頭。大粒のアメジストを思わす瞳がリズとヨアンを認め「あー」だのと視線が泳ぐ。


「朝飯はもうちょっと待ってやるよ」

「違うそうじゃない。ルネ、この“重り”どかして!」

「男女の仲は揺れる天秤。男が重い間に手玉に取れって、前マイア姉ちゃんが言ってたぞ」

 いい性格してるな、あんたの探し人あねは!


「だ、そうだ。この俺が構ってやってる間に、せいぜい子猫のように媚びてみろ」

 じゃあ……なんて、仕切りなおすわけないでしょ!

「――いい加減にしなさい!」




 大陸にぽっかり空いた丸い大穴。

 “母の腕ブラ デル メール”と呼ばれる不可侵の巨大湖。その上に浮かぶように築かれた、神秘とともにある奇跡の都。

 聖都リュミラックでは、代償を払えばどんな“願い”も叶うのだという。


「まるで絵本の夢物語ね。まさかルネ、そんな話を信じてはるばる聖都に来たの?」

 昨晩、結局リズの間借りしているアパルトマンまでくっついてきた少年。ルネと名乗った少年にリズは湯気をまとうカップを手渡す。


「んな子どもじゃないって、何度も言ってんだろ。リズは馬鹿だな」

「……口には気を付けなさい。成り行きとはいえ、あなたはうちに保護されている身の上でしょ」

「だから犬のように従えってか。契約だのなんだの、すぐ相手の足元を見る。これだから聖都の人間ってのは偏屈なんだ」


 文句があるなら飲むな。リズは自分用のカフェクレームに口をつける。

 昨夜は夕食のスープを食らいつくしソファで熟睡(一台しかないベッドに手を出さない程度には紳士らしいが)。

 一晩経っても大人顔負けの傍若無人っぷりは健在。その少しばかり弁の立つ減らず口に、腹が立つ。


「箱に詰めて捨てられたくなければ、せいぜい尻尾を振りなさい」

「お前ってやっぱあの精霊の主だな。でもアレに比べれば、こんなちんちくりん怖くもない」

「誰がちんちくりんよ! 言っとくけど、私は十六。れっきとした成人よ」

「げえ、見えねえ!」

 ほんっと失礼! ふつふつ沸く怒りをカフェクレームで胃に押し流す。たっぷり入ったミルクと砂糖。せっかくの甘い風味が台無しだ。


「なあ、ひょっとして朝飯は飲み物だけか?」

 奢られながら注文が多い。リズが空を仰ぐと、陽はすでに高くて遠い。

「もう朝食って時間でもないでしょ。今日は軽くボランティアをしてから、ブランチと行きましょう。ヨアンともそこで落ち合う予定だし」

 先ほど、辛くも布団から押し出したヨアン。彼はリズの命で一足先に出立している。


「ボランティアって……オレは本気で姉ちゃんを探して!」

「分かってるわ」頃合いに、リズは立ち上がる。

 飲み終わったカップをカフェの店員に二つ揃えて返却すると、何か言いたげなルネを呼びつけ歩き出す。


 南の市場へ足を向けると、太く長い道の両端に様々な品を扱う露店がどこまでも立ち並んでいる。

 暇そうな店員を見かけては、リズはルネの姉、マイアの話を持ち掛けるが。

 当然、色よい返答なんてあるわけないか。


 店主に礼を言って店を出る。軒先のカゴに山と積まれたリンゴ。

 リズはまだ不服そうな顔をしているルネを振り返る。

「ルネ。こんな言葉は知っている? “リンゴ一つに領収書”」


 リンゴ一つを買うにも売買という契約が発生し。金銭という代償が必須。

 本当に、リンゴのためだけに領収書を残すことはないが。どんなに些末なことにも、対価を得るためには代償が発生するという例え話。

 ここ聖都では幼子でも心得ていることだ。


「私は希望を聞くと言い、あなたは姉探しを依頼した」

 成り行きで家に転がり込み。なし崩しのていで彼の姉“マイア”をともに探すことになったものの。ルネから得られた情報は「年は十八。オレと同じ紫の髪と目」という身体的特徴だけ。


「聖都のどこにいるとか、何をしてるとか。足がかりがあれば助かるんだけど?」

「ない。五年前、東区域のレストランの給仕として聖都にきたけど。去年、オーナーが夜逃げして店が潰れたって手紙に書いてた」

「……夜逃げね」

 聖都では少なくない話だ。成功するかは“運しだい”だが。


 ルネとマイアの文通はその後も何度か続いたものの、元気にしていること以外分からないというのだから……正直、お手上げだ。

「いいこと、ルネ。たったこれだけの情報に。あなたが寄越した“願い”はあまりに重い。対して、差し出せる代償は?」


「それは……」ルネは罰が悪く口ごもる。

「言っとくけど。私は安い女じゃないの」

 払える金もなく。住居と食までリズの世話になっている状況。つり合いの取れない天秤から、降りないのはリズの善意によるところが大きい。


「仕事で私たちを雇うならルネなんて半年はタダ働き決定。片手間のボランティアで我慢することね」

「おまえ……、ちょっといい奴だな」

「ちょっとは余計よ」

 いつだってルネは余計な一言が減らない。

「もっとも……」リズはルネに微笑む。「昔から言うでしょ、タダより高いものはないって。覚悟しておきなさい」




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