江戸川探偵事務所
@tachikomari
第1話 群青の空
マフラーを巻いた学生たちが、寒いと寒いと口々に言いながら横を通りすぎて行く。その白い息はどこか楽しそうだ。
「寒いから走ろう!」
一人が呼びかけると一斉に皆が走り出し、わーっという歓声と共に全てが過ぎ去ってしまった。田中は空を見上げる。雲一つない、青い、空。しかし、彼の足取りは重い。また手掛かりが見つからなかった。捜索依頼をした探偵社はこれで3件目だ。依頼まで進まなかったところを合わせると、10件は優に超えている。いよいよ八方塞がりかと途方に暮れた時、最後の探偵社が、紹介できるところがあると言った。
「田中さん、……江戸川という探偵がおりまして、とても腕の立つ探偵ですが、ちょっと厄介なところも……あ、いえ、でも調査力は恐らく都内、いや、日本でも一番かと。実はこのような案件は大手は難しく、彼のようなところの方が、かえって。ね。しかしー、えー、なんというか、彼はきまぐれで。」
「どういうことでしょうか。」
「依頼を受けるかは気分次第、と言いますか、案件次第、と言いますか。」
「金額の問題ですか?だったら……」
「ちがいます、彼が興味を持つかどうかです。でも、この案件ならきっと。」
江戸川探偵事務所。中央線沿いにあるその事務所は、古びたビルの二階にある。昭和か、平成初期に建てられたようなその建物は、電車が通るたびに揺れを感じる。
二階までの階段はとても暗く、その短いストロークすら嫌に感じた。ここでダメならどうしたら。こんなビルにあるとは、期待から一転、不安が大きくなる。
押す部分にベルの絵がある、四角い旧式のボタンを押す。ピンポーンと、懐かしい音が鳴る。今時都心部に、こんな設えが残っていたのか。田中は一層緊張した。ドア越しに声が聞こえる。
「どちらさまですか?」
渋い男性の声だ。
「お、お電話した、田中です。」
田中はおずおずと答える。
「ふむ、どうぞ。」
ガチャリと解錠音がする。扉は開かない。旧式の、回すタイプのドアノブを半回転し、重くすべりの悪い戸を開く。
狭い玄関で靴を脱ぎ、中へ入る。老朽化した外観とは打って変わり、欧州風のインテリアに彩られたその部屋は、豪勢で華やかだ。探偵事務所には似つかわしいくない内装に田中は面を食らった。
「江戸川です。こちらへ。」
ピシッとした白シャツにサスペンダー、蝶ネクタイ、ジャケットを着用したその姿は、さながら正装である。40半ばであろうその男性は、整った顔立ちでスマートな印象だ。彼に促され、手提げ鞄を床に置き、深い朱色の高級感ある椅子へ座る。江戸川は奥からティーポッドとカップを持ってきた。美しい白磁器だ。
「キレイな白ですね。」
田中が思わず口にした。
「ふむ。」
と江戸川はうなずく。
「高橋くんからの紹介でしたね。紹介状を。」
田中は鞄から紹介状を出し渡す。中身にざっとめを通し、江戸川は座った。
「要件をお聞かせいただけますか?」
江戸川が淡々と言う。
ぎゅっと拳を握り、顔に力が入る。田中の全身に緊張の仕草が現れる。一つ、息をついて話始めた。
「……僕の、母を捜してほしいのです。」
声が震えている。
「行方不明、ですか。」
「全てが、わからないのです。」
田中の声から、憤りのようなものを感じた。
「詳しく、聞かせていただけますか?」
田中はじわりと汗をかいているようだ。目が泳ぎ始めた。
「しゅ、守秘義務などについて、ちゃんと、その、大丈夫でしょうか。」
江戸川は眉をあげ、首をかしげて席を立つ。田中はポケットのハンカチを取り出し、額を拭った。紅茶を持つ手が震えている。カタカタと音を鳴らしながら口に運ぶも、むせてしまった。ハンカチで口もとを拭く。
「これを、どうぞ。」
江戸川は、A4用紙3枚ほどの契約書を渡した。そこには守秘義務や契約に関する様々な取り決めが難しい言葉で連ねてある。
「確認しました。ありがとうございます。」
田中はうつむき、重苦しい空気をまとっている。
江戸川は静かに紅茶を口に運ぶ。意を決し、田中は再び話始める。
「私の母は……殺人鬼です。」
「ほう。」
江戸川は半身を乗り出し目を鋭くする。
「母は、僕が小さい頃、近くの大きな病院で働いていました。父はそこの医師で、とても良い父でした。……そこの病院では度々不審死が起こっていました。年々件数が増え、次第に問題になり……すみません。」
田中の息が荒くなり、言葉に詰まる。江戸川は茶器を置いて声をかける。
「ゆっくり、どうぞ。」
落ち着いた深い声。緊張で上がっていた田中の肩が、するりと下がっていく。
「ありがとうございます。警察の調査が入り、母が、殺人幇助で。どうやら患者に依頼をされて、そういうことをやっていたようで。」
「そういうこと、とは?」
江戸川はあえて聞いた。
「人殺し、です。」
田中の眼が険しくなる。ぎゅっと全身に緊張が走るのがわかった。
「それで?」
江戸川の声色は変わらない。
「彼女は、おそらく、20人近い人たちのことに関わっているとのことでしたが、訴えを起こしたのは2組だけだったとか。僕は、子どもだったので、後から調べたことです。それで、刑務所に。」
田中は膝に肘を置き、手をもみながらうつむいている。江戸川はじっと様子を見つめている。
「その後、刑期を終え出てきたんですが、そのまま行方がわかっていません。僕と父は……父はとても、とても不幸でした。あの女のせいで病院を追われ、僕を育てるために肉体労働までして、医師としてとても優秀だったと聞いています。それなのに、あんな苦労をして。僕は、許せない。」
憎悪に満ちた目を見開き、拳を握りしめている。
「お父様は?」
「先月、亡くなりました。あの女のせいで。」
「それで、お母様を捜してほしいと。」
「はい。」
「ふむ。」
江戸川は背もたれに背中をつき、足を組み紅茶を飲む。
「受けて、いただけますか?」
瞳孔の開いた目で江戸川に迫る。
「んん~、紅茶をもう一杯いかがです?」
「結構です。先生、お金ならあります。なんとか捜していただけませんか。何件も回ったんです。相談する気にもならないようなところや、全く手がかりもつかめないところも。依頼後、面倒な案件だからと向こうから調査中止を言い渡されたりもしました。ここでだめならもう、ないんです。なんとか」
「ふむ、案件としては興味深い。着手金として100万円、成功報酬として500万円、その他交通費や宿泊費等々発生しますが、用意できますか?」
「はい、必ず見つけてもらえるなら。では、」
田中の言葉を手で制し、江戸川は続ける。
「一つ伺いますが、君は、お母様を見つけてどうするんです?」
「え?」
「お母様を見つけて、殺して、自分も死ぬ。」
「……!」
田中は驚き立ち上がった。江戸川はリラックスしたまま紅茶を飲んでいる。
「なぜ、そう思われたのですか?」
「んん、まず、お金です。いくらかかっても良いと、先ほど仰ってましたね。高橋くんの紹介状にもその旨書いてありました。しかし、話から想像するに裕福ではなかったようだし、働いて探偵費用を捻出するのは苦労したはずです。例え亡くなったお父様の保険金があったとしても、君はまだ若いから将来のことを考えて調査費にどの程度使えるか計算し、大まかの予算は設定するでしょう。君の年齢からお父様の年齢を予測し恐らく50代として、平均の生命保険受取額は1500万~2000万弱、そのあたりを受け取ったと仮定しても、私の提示した600万円は、心理的に即答できる金額ではない。しかしその様子はなく、君は考えもせず了承した。最も、多額の保険金、もしくは別の理由で大金を手にしている可能性はゼロではないですが、身なりを見るにその仮説は捨てて良い。量産型の安価なスーツと、変色し、底や角が擦れている鞄。革靴も、全く手入れされていない安物です。何年か履いているんでしょう、靴底が減っているし、皺も付いている。このことからも普段お金を潤沢に使っているとは考えづらい。それならなおさらお金に敏感になって然るべきだが、執着が全く感じられない。」
江戸川は、田中の手提げかばんの中にある皺のよった銀行封筒を指さした。
「そのー、そこに雑に入れてあるのが、手付用のお金でしょう。厚みから察するにおよそ100万程かな?扱いが乱暴ですね。通常、この金額を持ち歩くのであれば中身の見えない鞄にするか、もっと奥の方にしまいますよ。銀行の封筒のままというのも無防備すぎる。封筒のヨレ方を見ても、鞄に入れたままにしていますね。」
田中は慌ててかばんを抱えた。
「あとは、そうですね、覚悟かな。お母様の話をする時の目、瞳孔の開き具合、瞼のわずかな痙攣、拳を握りしめた決意。一般的な行方不明者捜索依頼の場合、心配したり、悲しみが出たり、相手に対する思いが優先されるのですが、君の場合はそれがない。むしろ、自分の気持ちのみが蠢いている。」
田中は立ったまま顔をゆがめている。江戸川は表情を変えず、続ける。
「どうしますか?」
「どう、とは?」
田中は強張った顔で鞄を強く抱きかかえ、江戸川を凝視する。
「調査、ですよ。」
「捜して、もらえるんですか?」
張りつめた、声。
「君次第です。」
田中はつばを飲み込んだ。
「君が、早まったことをしないと約束できるのであれば。」
「すぐには……お答えできません。」
下を向き、鞄を持つ手にさらに力が入る。足が震えているようにも見える。
「ふむ、まあ、いいでしょう。」
しばしの沈黙。江戸川が田中を見る。
「それじゃ、君、今日からここで働きなさい。急に秘書がやめてしまってねえ。困ってるんですよ。平日の昼間から探偵事務所をあちこち回ってるくらいなんだから、どうせ仕事はやってないんでしょう?」
明るい口調に変わり、まくし立てるように言う。
「その間に考えたら良いでしょう。私は、探し出せますよ。」
鋭い音。田中は緊張が解けたように息をつきながら椅子に座る。
「お願いします。」
江戸川のペースに巻き込まれ、本人の意識とは別のところで言葉になっていた。
「では今日からよろしく、田中くん。」
握手の手を出す。ためらいながら田中はその手を取った。
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