第二章 丑満時

第16話 蘇りしは吉備の鬼

 なんと昔があったげな。ここは古代の吉備きびの国。たかーいたかい山の城。大けな鬼が住んどった。どんぶらどぶらこ海原うなばら越えて、百済くだらの鬼が住みついた。時々山から下りて来て、村人食って帰ってく。退治なんぞ出来はせぬよーできん。これからどうすりゃよかろうかえーじゃろか。困った村人使いを出して、天皇すめらみことに訴え申す。天皇てんのうこれをあわれんで、寄越すは益荒男ますらお吉備津彦きびつひこ。百済の鬼と益荒男は、各々おのおの山に陣取って、谷を挟んで向かい合う。いつまで続くかにらめっこ。夜になっても決着つかん。気付いた時にはさるこく。あっというまにとりの刻。眠うてかなわぬおえんわいぬの刻。しびれを切らした吉備津彦、天照大神おてんとさまに願かけて、夜中を昼間に替えてもらう。ぐーすか寝とった鬼のむれ、奇襲にうて滅茶わやになる。目玉を射られた百済の鬼は、お城を捨てて逃げまくる。逃げる鬼と追う人間。知恵を絞った化け合戦。討ち取られたのは鬼の方。鬼の怨霊死んでも消えず、甚だぼっけー恐ろしきょーてー大叫喚。首を御宮おみやの地中に埋めて、ようやく回心したんじゃと。それから鬼の占いは、村人たちの暮らしを助け、大変でーれー感謝されたんじゃ。めでたしめでたし、昔こっぷり。


「婆さん、それはちがわー。子供の前で巫山戯ちばけたらあかんで。鬼は百済から来たんとちゃう。吉備に昔から居った鬼なんじゃって」

「爺さん、昔話なんじゃけぇ、土地によりちごうてあたりまえじゃろーが」

「じゃ・け・ど、婆さんのは創作アドリブなんじゃろ?」

「ふふふふ。そんなに言うんなら、爺さんが自分で話してみられー」

「語り部なんぞわしにはよーできん」

「あらすじでええ。聞いちゃる」

「鬼はええやつなんじゃ。本当は吉備の王じゃ。名君じゃったんじゃ」

「ほほう」

大和やまとの国が攻めて来て、勇敢に戦ったけども負けたんじゃ。被害者なんじゃ」

「はあ。胡散臭い歴史雑誌にでも影響されたんかのう。ひかるや、お前はどう思う」

「そうじゃな。ここは我らがひ孫の意見を聞くとしよう」

「……」

「え?鬼の名前?それはのう、温羅うらじゃ」

「そこはわしも一緒じゃな、婆さん。光、温羅はなぁ、吉備一番の鬼なんじゃ!」



 水月みなつきの土砂降りの中、人気ひとけのない坂道を、一人の男が登っている。滑る路面を杖を頼りに、一歩一歩地を踏みしめながら進んでゆく。その足音は誰にも聞こえぬ。彼自身にすら聞こえはせぬ。芒種ぼうしゅを受け入れはらんだ雲が、車軸しゃじくを流すがごとくして、雨滴うてきを際限なく漏出ろうしゅつし続けているからである。雨滴とはすなわち精液なのだと、どこかで読んだ覚えがある。それはギリシャの神話だったか、はたまたナイジェリアの抒情詩じょじょうしであったか、もはや定かでない。久方ぶりに娑婆しゃばを出たものだから、欲求不満がこうじたために、こんな愚にもつかぬことを思い出したのかもしれぬ。

 退屈極まりない牢獄生活の中から、男を救い出したのは一人の少年だった。しかし男を陥れ、逮捕される原因を作ったものもその少年である、そう考えてもいる。少年は、大槻おおつき紫蘭しらんと名乗っていた。逮捕される前、大槻は彼に座敷童ざしきわらしの少女を紹介してくれた。妖怪と人間同士の、友好修善の架け橋になってもらいたいと彼は言った。迷信の最たるものの一つである妖怪の存在など、当初は信じられなかった。彼は迷信否定論者である。そういうなら現代人のほとんどをこの属性でくくれるだろう。だが、妖怪になどそもそも興味のない人、妖怪を迷信として嫌悪する化の一斑いっぱんとみなして暖かい眼差しを向ける人、嘘だと分かっていても実在して欲しいと願う人……そうした様々なバリアントがいるに違いない。彼は、四番目の人間だった。

 しかしその願いは、サンタクロースの実在を信じて疑わぬような、純真な子供のそれではない。いわずもがな、妖怪は人とは異なる。それでいていくつかの創作物コンテンツけみした限りにおいて、多くの場合それは人格を備えている。人に非ずして人格を有するというただ一点が、彼の心を強くとらえて離さなかった。それはつまり、人間社会の在りとあらゆるルールから外れた存在だということである。法令による規制も保護も受けない、不羈ふきにして無告むこくのものどもである。故に妖怪に対してなら、不純なるおのが欲望を素直にぶつけることも不可能ではなかろうと、彼は考えていた。もちろんそうした願いは、ながらくただの夢想に過ぎなかったのだ―大槻に会うまでは。

 男はもはや、大槻から逃れることはできない。彼から二人目の妖怪おもちゃを紹介されてからというものの、ひどく「飢え」を覚えるようになったからである。人間を、食いたい。男の願いは既に変質していた。それも妖怪の仕業なのかどうか、男には見当もつかない。だが、そんなことはどうでもいのだ。大槻から渡されたこの杖で強力な妖怪を呼び出し、「合法的に」獲物を捕らえるための猟犬とするのだ。


 男は丘を登り終え、眼下を見渡した。田舎町の平板な風景がどこまでも続いている。中央区ちゅうおうくを除けば、吉備都きびとはまだまだ田舎なのだ。そんなものに興味などない。彼が欲しているのは、その蟻のように小さく見える個々の家の中でうごめいている、人間どもだ。さらに言えば、彼らの血と肉だ。ここは倉敷くらしきにある王墓山おうぼさんの頂上、楯築たてつき遺跡である。吉備津彦が温羅と戦った時、守りのために置いたという、ストーンサークルが巡っている。そしてここにはその名の通り、名も無き古代の王が眠っているという。

 この杖―百鬼杖ひゃっきじょうは妖怪伝承の残る場所でないと使えないという。ならばここは格好の場所だ。男は杖を振りかざし、それの名を呼ぶ。

反魂はんごん、温羅!」

雨足あまあしが男の声をかき消した。だが男の声を聞き入れた者が、目の前に一人立っていた。

「ああ」

その者の発した一言に、男は内心驚喜した。

新たなる杖の法師。男の名を、松岡まつおか蒼路そうじという。

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