第14話 月夜の愁い

 緋出ひいでらが中央区ちゅうおうくへと赴いた夜のこと。牛王坊ごおうぼうは書斎の中で、佐野から奪い取った反魂はんごんほつを手に取り眺めていた。もう整理されてしまったとはいえ、この部屋にはまだまだ多くのモノが残っている。どうせ高値では売れないのだからと、緋出がとっておいたものだという。だから牛王坊は、この払子ほっすを使って妖怪を呼び出してみようと、様々なモノを撫でてみた。だが反応は何一つなかった。妖怪である自分には扱えないのだろうか。ツルギミサキによって破壊された窓から、弦月げんげつの光が直接に侵入してくる。それが払子に反射して、つるつるとした木質の光沢を露わにしていた。牛王坊はかつて人間であった時のことを思い出していた。

 

 寺稚児てらちごとして過ごした数年間―それが私の少年期についての、ほとんど唯一と言っていい思い出である。それ以前のことはよく分からない。家業をいとうて出奔しゅっぽんしたのは覚えている。気まぐれだったのかもしれない。あるいは本当に嫌気が差したのかもしれない。けれども天狗となった今では、そんな瑣末さまつなことはどうでもいい。かつて仏道をこころざしていたこと―必要な情報はそれだけである。払子とは、法会ほうえの際に導師が用いる威儀具のことである。僧侶に威厳をもたらし、「それらしく」見せるためにあるというのなら、これは虚飾に過ぎないことになる。だが払子は本来、虫を殺さで追い払う、「はらい」の具である。殺生せっしょうに伴う死のけがれをはらい、煩悩の蠱惑こわくはらいのけるという、実直な精神が込められている。きょの中にじつがある。師僧しそうからはそう教わった。今の私は、どうだろうか。

 天狗とは、慢心に手足が生えたような化け物のことである。自分の実力を過信して、相手を見下し虚仮こけにする。ただの人間なら即座に足をすくわれるところだろう。だが、今の私は強い。もはや生前のように、嘘を吐くことで自分を守る必要などないのだ。無数の法術ほうじゅつと無双の剣技を兼ね備えた今となっては、大抵の化け物に負けることは無いだろう。それがますます慢心を膨張させる。いつかは殿のことすらあなどるようになるのだろうか。それが恐ろしくてならない。虚の中に、確かに実がある。だが虚の部分があまりにも大き過ぎて、実の部分は目に見えないほど小さいのではなかろうか。三千さんぜん世界せかいに浮遊するただ一片の塵芥ちりあくた―それが私の実なのだろう。

 現代に転生する直前、私は光明こうみょうの中で、妖魔ようまを打ち払うという使命を授けられた。そうすれば罪障ざいしょうを消滅させて、成仏できるという。妖魔とは敵の化け物のことなのだ、と今の今まで思っていた。果たして本当にそうなのだろうか。払うべき妖魔とは、おのが慢心―つまり化け物としての自分自身を指しているのではないか。殿にお仕えする日々そのものが、ある種の修行なのかもしれない。殿は、ご無事だろうか。



モノクローム。緋出は意識を取り戻した。

天井。自分は今どこにいるのだろう?

ひんやりとしていて堅い。寝台の上だ。

己の顔を若い男が覗き込んでいる。彼にここまで運び込まれたのだろうか。

「お目覚めかな。杖の法師」

自分のことを知っている。緋出は身の危険を感じて飛び起きようとするも、体に力が入らず、どうしようもなかった。

「自己紹介しとこうか。俺は岸丸きしまる理央りお琵琶びわの法師だ。一応言っとくけど平家物語じゃないぜ」

岸丸はそう言って部屋の隅を指差した。そこには一面の琵琶が立てかけられていた。

「こいつで呼べるのは音の妖怪。お前とツレの妖怪がピンチみたいだったから、虚空こくう太鼓だいこでスキを作り、お前らを救出したってわけ。琵琶といってもシンセサイザーだからな。大抵の音域はカバーしてるのさ」

佐野の話によれば、法師は自分を除いて五人いるはずである。この男は緋出にとって味方にあたるらしい。

「痛むか?」

「いえ、ちょっとしびれてるだけで、あとはなんともないです」

緋出は自分の首を精一杯動かして、周囲を見回した。茜はどこにもいない。

「ちょっと胸の辺りをやられてたな。山荒やまあらしに引っかかれたんだろ。応急処置はしといたから大丈夫」

「どうもありがとうございます。あかね……いや、ツルギミサキはどこですか?」

「お前の懐の中で眠ってるよ。心配だから付き添ってるつもりなんだろな」

緋出は自分の胸元を探り、鞘に納められた小刀があるのに気づいた。冷たいはずの刀身が、どこか暖かい。

「残念だがお前の杖は取られちまった。回収する気はあるか?実は、俺は逢魔座おうまざに潜り込んでた政府系の透破スパイなんでね。もうあちらにはバレちまったが、できる限りサポートするぜ」

緋出は愕然とした。しかし諦めと安堵をも覚えていた。これ以上はどうせ、一学生たる自分の出る幕ではない。杖は取られてしまったのだから、もう狙われることはない。逢魔座を追及することはやめにして、後は官憲かんけんに委ねるが賢明。むしろ自分と茜の命が助かったことをこそ喜ぶべきである、そう感じていた。

「もう、これで十分です。警察に情報提供して逢魔座が摘発されるのを待ちますので。僕はこれで妖怪事件から手を引きます」

「それはできない相談だな」

「え?」

「お前はDE・M・I・SEディマイズシステム―妖怪を召喚する技術を最初に体験した民間人の一人なんだ。偶然だろうがとばっちりだろうが、関わっちまったもんはしょうがねえ。俺と一緒に働いてもらう。問答無用だからな。杖の奪還―それが最初の仕事になる」

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