第10話 払子の法師③

「もうお手上げよ。響太きょうた君はこの石棺の中でぐっすり眠ってるわ」

谷本たにもと響太はほぼ無傷だった。石棺に収容される時にでもついたのか、顔や腕にいくつかり傷がついていることを除けば、ただ気を失っているだけであるらしかった。

「おぬしの武器はどこにある。それも渡してもらおうか」

「これよ」

黒髪の女―佐野さのは腰のベルトに括り付けてある払子ほっすを外し、牛王坊ごおうぼうに手渡した。

「出家でもないのに払子とは奇妙な取り合わせと思っていたが、こんなものがお主の虎の子であったとはな」

見れば小さなものである。滑らかな木質の柄の先端に、ふさふさとした白い毛の束がついている。柄の中央辺りには百鬼杖ひゃっきじょうと同じく黒石がはめられている。

「これをどう使ったのだ?」

「器物妖怪のモデルとなった道具をこの払子で撫でるの。例えば鳴釜なりがまなら釜、ヤカンヅルなら薬缶。後は杖と同じね。石が発光して妖怪が召喚される」

「なるほどな。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心をたぶらかす。これを付喪神つくもがみと号すといへり。是によりて世俗、毎年立春に先立ちて人家の古具足ふるぐそくを払いだして、路次に捨つることはべり。これ煤払すすはらいといふ……」

牛王坊は求聞持法ぐもんじほうを修めているため、高い記憶力を発揮できる。

「『付喪神絵巻』ね。おそらくそれがモチーフだわ。捨てられた古道具は化け物となり、人間に仕返ししようとする。でも彼らは復讐心だけで動いているわけじゃない。本当の願いは―」

得道とくどう、成仏だな」

「その通りね。仏具である払子に触れることが、彼らにとっては結縁けちえんとなる。だから私は彼らを従えることができた、のかもしれない」

牛王坊は両手にいただいた払子を見つめ、しばし沈黙していた。

「あなたもそうなのかしら?天狗は六道ろくどうのいずれからも見放されたあぶれ者。成仏できず、驕慢きょうまんという煩悩の炎に苦しむその様は、西洋の愚者火イグニス・ファトゥスそのもの」

「知ったような口をきくな。人の身で化け物へと堕落してしまった者の心中など、お主にははかれまい。ひっ捕らえて尋問してやろうと思っていたが、その気も失せたわ」

牛王坊は佐野を残したまま、響太を抱えて石室を後にした。



 襟立衣えりたてごろもの覆いを破って外に出た時にはもう、陽は暮れかかっていた。いきなり視界が開けたものだから、緋出は陽光に目をられるような感じを受けた。しばしの間の明順応。そして最初に彼の目を捉えた物は、ツルギミサキの、白無垢しろむくの後ろ姿であった。見る見るうちに、夕陽が着物を明るく染め上げ、着物の皺が微妙な陰影を形作り、あかね色と黄金こがね色の混じり合ったたまさかの文様は、華やかな振袖を思わせた。そうして彼女は振り返り、緋出の顔を不思議そうに覗き込むのであった。


「どーしたの?」

「突然」の問いに、緋出は慌てた。いや、それは彼にとってそう感じられたに過ぎない。なぜならば石室の中でついた土埃つちぼこりを、彼女が払い落としきるまでには、しばしの時間を必要としたからである。汚れを落とさずして、純白の着物が鮮やかに見えるはずがあるまい。それまでの間、緋出は彼女のことを呆然と見つめていたことになる。一方の緋出はと言うと、ズボンの裾から肘にかけて、うっすらと土埃を被っていて、くすんだ黄土おうど色の膜のように見えた。頬にも土がついていたかもしれない。緋出は気恥ずかしさからか少し目をそらし、

「ありがとう。君のおかげで助かった」

と、ぼつりと言った。

 

 石室で彼女を呼び出した時、玉響たまゆらに垣間見たその顔は「抜けば玉散る」の形容の如く、氷のように青白く透き通っていたと思う。それが今光彩を受けてかすかなあけの色に染まって、やわらかな印象を緋出に与えた。彼は父から、知床しれとこの流氷は美しいものだと聞いたことがある。とりわけ夕陽が流氷を照らし出す時、夕陽の赤と氷の青とが調和して、別天地を見る思いがしたという。吹く風の音も身を突き刺す寒さも口に含んだキャンディの味も香りもすべて忘れて、彼の五感は視覚だけとなったという。今の緋出にはその気持ちが分かるような気がしたのだった。

「殿、ご友人を救出いたしましたぞ」

響太を肩に担ぎながら牛王坊が石室から出てきて、緋出は忘我から引き戻された。

「佐野はまだ中におりますゆえ、速やかにここを立ち去るべきです。響太殿をお救いできたからには、これ以上の深入りは禁物かと」

「うん。本当に良かった……。僕は牛王坊に助けられてばっかりだな」

「そんなことはありませんぞ。そこの小娘を私が退治してしまったら、我らは閉じ込められたままになっておったのですからな。それをいさめたは殿でござる」

「小娘とは何ですか!私は霊剣の精ですよ。天狗なんて一刀両断ですっ」

「何を!付喪神風情ふぜいが」

「付喪神なんかと一緒にしないでください。器物の精と付喪神は別物!」

「二人とも落ち着いて。それよりも響太を家に届けなきゃ」

「お任せください。緋出殿と響太殿、お二人を運んで飛ぶなど私には造作もないことです」

牛王坊の頼もしい言葉。

「じゃ、ばいばーい。殿と……天狗ヤロー」

「天っ狗野っ郎!?」


 そう言ってツルギミサキは古墳の手前の坂を駆け下りて、どこかに消えていった。牛王坊と同じように、彼女にも自分だけの名前があるのだろう。それを聞いておくべきだったと、緋出は思った。傍らに目を遣ると響太は大あくびをして、辺りを見回している。牛王坊が手刀しゅとうを打ち込んで、響太を再び気絶させたのは何だか不憫ふびんであったが、やむをえまい。夕陽が地平線に沈み切る前に、彼らは無事帰りおおせたのであった。

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