第3話 霧中の怪①

「事件からもう一週間が経っているようだが、テロリストの身元は判明したかね」

執務室のソファに一人、黒髪みどりがみの老人がいかめしい顔をして座っていた。そばで立っている男は彼の秘書である。

「ええ。鑑識かんしきによりますと、発見された遺体の多くに未知の大型イヌ科動物による咬傷こうしょうがみられたとのことです。笠岡かさおか研究所の性格を考慮しますに―」

「分かった。もういい」

老人は右手を軽く振り、続く秘書の言葉を制止した。

DE・M・I・SEディマイズシステムによる妖怪の実体化―奴らにしてみれば、のどから手が出るほど欲しい技術であったろうからな。報道規制はやむをえまい」



 ああ忙しい。体内時計の設定に逆らって、緋出は珍しく寝坊した。昨夜の疲労のせいか、脳が起床することを拒んだのである。あの杖がいかなる原理で烏天狗からすてんぐを出現させているのか、結局分からずじまいだった。当初は精巧せいこうなホログラムだと思ったのだが、手を伸ばしてみると、その予測は裏切られた。隆々りゅうりゅうたる腕の筋肉。確かな実体を持った、作り物にあるまじき質感。

呼び出しておいてこのまま放っておくわけにもいかないから、タクシーで家に連れ帰ることにした。そもそも、何が「あなたを守ってくれるでしょう」だ。僕は何かに狙われているとでもいうのか。母にバレないように書斎まで連れてゆき、もし彼女が入ってきたら人形のフリをしろと言いつけた。あの部屋なら等身大フィギュアが一体増えたところで気付くまい。遺品整理は整理士の鑑定かんていを待つことにしたらしい。

母、「そんなにガツガツ食べたら喉に詰まるわよ。」

急いで朝飯をかきこむ。食事など錠剤タブレットで十分なのだろうが、我が家の食卓は妙に保守的なのである。少々手間がかかるものの、適度に水を吸ってふっくらとしたお米の食感は、現代技術でも再現できない。造化ぞうかみょうとはまさにこのことである。

「だいじょ……ゲホゲホッ。うううん、ふぅ。今日はフィジカルデーなんだから、登校時間に間に合わなくなるじゃん」

緋出の通う吉備都きびと天蚕糸てぐす高校のみならず、現代日本の学校はほとんど全て、バーチャル空間内での教育を基本としている。普段なら寝袋型のVRコフィンに入って網膜もうまくディスプレイを起動すればいいのだが、この日には早めに起きて、物理フィジカル空間にある学校に登校しなければならないのだ。


「天狗 ペット 飼い方」

検索ワードを念じると、ディスプレイに検索結果が表示された。「もしかして:テングザル」。この役立たずめ。学校からの帰り道、タクシーの中で無聊ぶりょうかこっていた緋出は、烏天狗の居候いそうろうの処遇について、考えあぐねていたのだった。

「どうも簡単には飼えなさそうだな、カラスは。そもそもペットは18歳になってから、だものなあ……いやいや前提として、烏天狗の食べ物ってカラスと一緒なのかなあ。お?」

人通りの絶えた住宅街の一角で、突然タクシーが止まった。と同時に、瞳に映っていたディスプレイの画面も消失し、応答しなくなった。前方に障害物らしきものは見当たらず、目的地の設定を間違えたわけでもないようだった。緋出は下車して外の様子をうかがった。

 日中だというのに外は一面の霧に覆われており、視界は極めて悪い。緋出は戸惑いながらもゆっくりと歩きだした。

左手に木造の門扉もんぴが見えた。近所のはずなのに、見覚えのない古さびた寺である。

「すみませーん。誰かいませんか―?」

楼門ろうもんの二階から、白布しろぬのに身を包んだ人間らしきものがのぞいていた。

おそるおそる声をかける。

「タクシーと体内端末が同時に故障しちゃったみたいで、道を教えていただけますか?」

「がぁごぁ……」

白布がめくれると、全身を朱色に染めて、牙をいた男の顔があらわになった。手すりに手をかけて身を乗り出そうとしているのは、二階から飛び降りてきて自分を捕まえんとするからか。緋出は異相いそうの男から逃げ出して、路地の突き当りを右に曲がった。曲がり角で緋出の足は何かに絡まり、転倒した。

「兄ちゃんや。たすけ……」

しわがれた声だった。お年寄りを蹴飛ばしてしまったか。緋出は男に追われる恐怖のあまり、構わず駆け出した。

曲がり角の先は―

また寺だ。

「うううぅ……」

異相の男は軒下にうずくまり、恨み言とも、うめき声ともつかぬ声を上げる。

やはり飛び降りたのだ。さっきよりこちら側に進んでいる。

今度は角を左に折れた。

「兄ちゃんや。助けて……」

「うわあ!」

緋出はまた転げた。そして一瞬振り向いて、老爺ろうやの恨めしそうな顔をはっきりと見た。

そして角の先には―「ぜぇぇぇ……」

またもや同じ寺があり、その前で男がっていた。ループしているんだ。そいつはもう沿道えんどうからはみ出て、目の前を駆け抜けようとする緋出の目前に迫っていた。緋出は何とか振り切って、嫌な予感を覚えつつ、右の角を曲がった。

もう観念して、緋出は立ち止まる。予想通り、そこには老爺の横顔があった。地べたに腰かけて白髪しらがを振り乱し、両足を前に投げ出している。老爺は緋出の方を向いて、

「兄ちゃんや。助けてほしくば杖をくれ」

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