面白くない

 初めての試験の学年1位は、男子たちの予想通りに原田伊織らしかった。加えて、全ての教科の最高点も原田だという。聞けば学級委員もしているらしい。

 バスケ部なら、背も高くて足も速いんでしょう。勉強も運動も出来る陽キャなんだ、どうせ。

 私みたいな根暗を気分でからかったり優しくしたりして、クラスの中心で笑いを取っちゃうような。クラスで居場所を見つけられなくていたたまれない思いもしたことなくて、体育祭が憂鬱になったこともないんだろうな。

 私とはきっと、正反対の人種。


 面白くない


 取り繕わない感想はそれだった。そうして、ふと新入生代表の挨拶をしていた彼を思い出した。原田が学年1位なら、新入生代表の彼は誰なのだろう。寸分の揺らぎなく深い色をした瞳だった。

 入学式の日以来、彼を見かけたことはない。桜久が登下校以外は教室から出ないことが多分に関係しているだろうが。


 彼はどんな顔して笑うんだろう。笑うことはあるのだろうか。宿題をしているふりをしながら考え込む。これは現実逃避である。


 学校は、控えめに言っても楽しくなかった。入学してから3カ月で、名前ペンは5回なくした。教科書はなぜか授業前に紛失し、授業終わりには桜久のロッカーに無造作に突っ込まれていた。

 授業前に、教科書を忘れたはずがないと机の中を探す桜久を遠くから嘲笑する数人に気付いて、寒気がした。

 いつからか、名前ペンは買わなくなった。教科書は取られてもいいように、ノートに全て書き写した。教師に指名されたときには、教科書を持っていないことがバレないようにノートを机の上に置いたまま読み上げた。彼女たちの忌々しそうな顔は見物だったが。

 教科書や資料集は重いためロッカーに置いて帰ってもいいルールになっていたが、盗まれるのが怖くて毎日家に持って帰った。

 

 こうなった原因は、今もはっきり思い出せる。

葉桜になった頃、クラスを牛耳るグループの女子にノートを貸してとせがまれて断ったことだった。

「昨日宿題する時間なくてさあ。ちょっと見せて!お願い」

頼んできたのはグループのリーダーのような女の子。後ろにはその取り巻きが控えていた。

「私たちも忘れちゃった。小野寺さん、私たちもついでにいいよね?」

イエスしか答えを許さない態度で圧をかけてくる。ここで一度承諾すれば、クラス替えまで搾取され続けることは免れない。根暗はその辺の勘だけは鋭いのだ。

 普段一緒に行動している桜久の数人の友人は、当然ノートを渡すものだろうと可哀そうに、という目をして静観している。

 やめなよ、と制するタイプはいないし制してもらえるほど仲良くない。まだ知り合って1か月も経っていないのだから当然だ。

「あ……ごめんね、それはちょっと」

リーダーの目がぐっと上に吊り上がった。

「どうして?うちと小野寺さん友だちじゃーん!」

初めて話しただろうよ、とはもちろん言えないので口をつぐむ。

取り巻きも口々に、

「そうだよ」

「友だちなんだから貸すのは当たり前だよ」

と責め立てる。

もう後には引けなかった。

「うん、ごめんね」

一方的に話を終わらせて席を立つとリーダーの鋭い声が背中に刺さった。

「何あいつ。ブスのくせにつまんな。せっかく声かけてあげたのに」


 その日からのいじめは、過度なエスカレートも収まることもなく続いている。持ち物がなくなり、無視をされ、毎日ブスと言われる。制服を破られたり、水をかけられたりはしなかった。

 少ないけれどいた友人は全員、静かに桜久の元から去って行った。悲しかったけれど、まあそうだよなと諦めの方が強かった。誰だって好き好んでターゲットになりたくない。

 それからの毎日は灰色だった。学校でも家でも、何も感じないように感情を切った。一度辛いと思ってしまったら二度と学校に行けないのは明白だ。通えているのが不思議だった。


 桜久は学校に行く目的をひとつ定めた。高校に進学すること。

 運動は苦手だ。長年習っているピアノも、プロを目指せるような腕前ではない。

 勉強なら多少は出来る。テストもスコアを競うゲームのようで悪くない。


 高校ではあいつらと離れたい。そのためには順位を落とすことだけは避けないと。

 ぼうっとすると辛いことを思い出す。ブスと言われるみじめさ。今日こそノートが捨てられたのではないかという不安。

 そんなものを振り切るように、桜久は勉強にすがった。親に頼んで通信教育も契約した。塾は同じ学校の人がいると思うと怖くて行けなかった。


 桜久の様子がおかしいことには両親も気づいていて、母は

「無理に行かなくてもいいんだからね」

と桜久の手を取った。

「大丈夫だよ、ありがとう」

と答えても、母は心配そうな顔のままだった。

「留学でも高卒認定でも、引っ越しでも環境を変えるとしたらなんでもあるから。今が全てじゃないからね」

「うん」

母は真剣に話した。娘の命を繋ぎ止めるのに必死だったのかもしれない。実際に桜久の生死は紙一重だった。何かの天秤が少しでも傾けば、と思うと今でも怖くなる。

 母の言葉にすっと胸のつかえがとれて、ダメになっても大丈夫だと安心して、桜久は学校に通い続けた。


 生活は良くも悪くもならないまま夏休みを迎えた。夏休み明けに子どもの自殺が多いことを実感しながら、よろよろと登校した。夏休みも結局勉強していた。学校のプールには一度も出席しなかったから、成績は3くらいだろうな。

 登校するのは始業のチャイムが鳴る15分前だ。この時間はまだ生徒の数がまばらで、教室に入っても空気に紛れられるからだ。しかし、この日は夏休み明け。皆いつもより早く登校していた。

 クラスの空気は、桜久を見つけたリーダーによって簡単に歪んだ。

「もう来なきゃいいのに。早く死ねよ」

桜久の隣を通り過ぎながら低い声で囁いた。その後ろを取り巻きが高い声で笑いながら抜けていく。


 この時だ。ぷつりと何かが切れたのは。桜久は感情だけでなく一切の表情もなくした。隣の席の男子は桜久の表情を伺っているようだった。クラスでも目立たない男の子で、いじめの主犯に睨まれないように桜久に関わることを避けていた。そんな彼が、

「大丈夫?」

と声を掛けてきた。気遣われるほどのことだったのだろう。悲しみも怒りも湧かなかった。

「うん」

隣の席の男子を見て簡素に答えた。彼は桜久の無表情な瞳にたじろいで、慌てて読んでいた本に視線を戻した。


 休み時間は図書室にいるようになった。昼休みの人が少ない教室でさえ息が詰まる。

 もともと本は好きだったので、棚の端から読み進めていく。冬服になる頃には、図書室の半ばにあるスポーツ小説が集まっている棚に到達した。そこからは校庭の一角が見える。桜久は目当ての本を抱え、ちらりと校庭に目をやった。クラスの男女はドッヂボールをしているようだった。数センチ開いた窓から笑い声が聞こえた。


 バカみたいだ。唐突に抜け落ちていた感情を拾ってしまう。

 本なんか読んでも何にもならない。友だちはいない。先生もいじめに気付いて見て見ぬふりだ。

 私よりもいじめてる奴の方がよっぽど人生上手くやってる。高校に行ったって、その後だって私より上手く生きていくんだろう。


 私は何をしているんだろう。ふいに視界が滲んだ。

 みじめだった。自分が周りからどう見えているかを気にし始める思春期真っ只中に毎日ブスと言われ続けて、自尊心は地に落ちていた。鏡を直視することもなくなった。自分の顔がどうしようもなく醜く感じて鏡を叩き割りたくなるからだ。

 もう限界だ。勉強なんかして何になる。私は一生こうやって搾取され続ける。


 全部手放してしまいたい。辛い。苦しい。


 視界が完全に濁って、雫が落ちてクリアになった。クリアになった視界に飛び込んできたのは、あまりに美しい衝撃だった。

 数人の男子がバスケットゴールの前でボールを取り合っていた。その中の一人が簡単にボールをさらい、数回ドリブルをして、飛んだ。大きな背中がすらりと伸びて、丁寧に添えられた指先から弧を描いてボールが離れる。

 バシュ、っと大きくない音が桜久の世界に響いた。この瞬間、桜久の世界は音と光を取り戻した。


 世界はちゃんと美しかった。


 入学式以来の彼だった。落ちてきたボールを掬い上げて、彼は友人にパスをした。

「もっかい、原田!」

彼の友人は確かに原田、と言った。彼は笑って頷いて、バスケは続いた。

「原田……」

桜久は小さく呟く。彼が原田伊織だった。意外なほど落胆しなかった。それどころか、何か腑に落ちたような気持ちさえした。

 新入生代表の挨拶を任されるのだから、先生からの信頼も厚いのだろう。考えれば、しっかりしている生徒数人をピックアップして、その中から成績優秀者を代表にするのは当然の流れだ。


 美しいと感じたのも久方ぶりだった。何も感じないようにしてきたからだ。嬉しいことを享受するよりも、悲しみに気付かないことの方が大切だ。

 それに、美しいものを見ると自分のみじめさが際立つから。


 それなのに、彼はなぎ倒してやってきた。桜久が本当は欲しかったものを全部抱えて。

 嫉妬はしなかった。ひたすらに美しいだけだった。そこに自分は入り込む余地なく感動していた。

 美しくてたまらなくて、桜久はようやく涙を流した。図書室の隅にうずくまって泣いた。幸運なことに図書室には数人の図書委員と司書の先生しかいない日だった。


 先生に発見され、抱え起こされて保健室に連れていかれた。保健室の先生は優しそうで小柄な、年配の先生だった。嗚咽する桜久の背中を力強くさすってベッドに誘導した。

 具合が悪いわけではないんです、と嗚咽を挟みながら訴える。

「じゃあ、どうして泣いているの?」

答えが分かっている問い方だった。

「……しんどくて。いじめられてて。苦しいです」

しんどくて、と言った途端に自分の涙に溺れたように息苦しくなった。いじめられて半年以上。桜久は初めて泣いたのだった。これまで溜め込んできたものが爆発した。嗚咽が追い付かなくて過呼吸になる。

「大丈夫。息を吐いて」

先生の手が肩に乗って、何度も何度もさする。

「大丈夫よ、私はあなたの味方だから。一人でこんなに我慢して……なんて強い子」

 桜久にティッシュを箱ごと握らせて、先生は机の上の電話でどこかにかけた。30分くらいして保健室を訪れたのは若い女性だった。

「はじめまして、小野寺さん」

彼女は微笑みながら桜久のベッドの隣に椅子を持ってきて腰を下ろした。

「カウンセラーの吉岡さんよ。秘密は絶対に守るし、気持ちを吐き出すだけでも楽になると思うから。その後で解決方法を考えましょう」

 この日、桜久は教室に戻らずに吉岡さんにひたすら気持ちをぶちまけた。吉岡さんは何度も頷き、時に眉を顰めて桜久の話を聴いた。あらかた話し終わった頃には、とっくに部活の始まっている時間だった。


 桜久は定期的に吉岡さんとのカウンセリングの時間を持つようになる。カウンセリングといっても、治療をするわけではない。桜久が辛かったことを話し、吉岡さんがそれを傾聴する。そんな風に日々を過ごす中で、桜久は落ち着きを取り戻しつつあった。

 吉岡さんは桜久の許可を取って担任に働きかけ、席替えでいじめの主犯やその取り巻きが桜久の近くにならないように取り計らってくれた。桜久にわざと名前ペンを再び持っていかせ、案の定なくなった時には学年主任がクラス中に厳しく指導を行い、全校集会でもこの話題を取り上げた。教師が本格的に目を光らせていることを察した主犯や取り巻きは、年度末にはすっかり勢いが衰えていた。

 桜久の成績は、1年間下がらなかった。学年5位以下に落ちたことはなく、クラス内では常に1位を保ち続けていた。この頃になると桜久の成績を認める者もちらほら出てきていた。噂好きな中学生の特性上、成績優秀者の名前は学年でゆっくりと広がっていく。

 1年も経てば、授業内の様子で優秀な者は大体見当がつくようになる。テスト終わりに、おずおずと勉強を教えてほしいと声をかけてくる生徒も出てきた。

 真面目で品行方正な優等生。これが桜久の印象になった。


 そして、原田伊織は1年間1位を誰にも譲らず、「絶対エース」と呼ばれるようになっていた。成績はオール5。体育祭では選抜リレーを走り、部活でも県大会に出ていたはずだ。

 しかし、原田は決して口を割らなかった。自分の口から1位だったと言うことはなく、教師の口から漏れていた。リレーでも他のメンバーが目立とうと騒ぎ立てる中、初めて会った日のあの静かな目で立っていた。彼から優越感や自慢げな様子を感じ取ることはなかった。


 不思議な人。桜久は再びそう思う。

 中学生なら、そんなに何でもできたら天狗になって当たり前なのに。


 事あるごとに原田伊織の名前を耳にするとき、桜久はあの日を思い出す。桜久の世界に色が戻った日。

 桜久の世界を蘇らせたのは伊織だった。勝手に救われて、勝手に憧れた。

このまま私のことは知らないままでいい。学年1位にしてみれば、2位以下は大差ない。部活も運動部と文化部で接点もない。クラスが同じにならなければ、3年間他人のままだ。

 話したいことは思いつかない。隣に並びたいなんて思わない。

 それでも、背中を追うことだけ許されたかった。

 


 

 

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黎明の瞳 月山律 @tukiyama-rithu

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