一期一会
2022年。
人々はコロナウィルスという未知の脅威に怯え、世界は不安と悲しみに包まれていた。
私、杉浦凛佳、52歳。東京の郊外に夫と、次男、次女、三女の3人の子供たちと暮らしている。
私たちには子供が5人いる。27歳の長男・樹、25歳の長女・楓、23歳の次男・響、16歳の次女・海、15歳の三女・萌と子宝に恵まれた。子供たちは、職についたり進学するなど、それぞれの道を歩みはじめている。もうすぐ全員、私たちのもとを巣立っていくことだろう。
人から見れば、幸せそうなきままな主婦に見えるだろう。たしかに、不幸かと聞かれれば、そうだとはいえない。
夫・司は5歳年下の47歳。彼は自営で空調設備事業を手掛け、事業を成長させている。
私は1993年に一度目の結婚をし、その12年後の2005年に二度目の結婚をした。この28年間の間には、さまざまな事件や悲しい出来事があった。もちろん、楽しいことや嬉しいこと、感動したこともあった。ありとあらゆる感情を経験した。
人にはそれぞれ人生のドラマがあるだろう。誰しも人生で忘れがたい体験はあるはずだ。でも、私の場合、その振れ幅がとてつもなく大きかった。「あんなこともあったよね」と夫婦で笑いあえるようなものではない。私の人生に降り掛かったさまざまな出来事はいまも生々しく、私の心の中でぽっかりと傷口が開いたまま。どれもこれも、一生終わることのない、結末も出口もないまだ進行中のエピソードばかり。
私はサーフィンで大波に乗るかのように、私のまわりで巻き起こる出来事を乗り切ってきたつもりだ。私は意外と人生の波乗りがうまいのかもしれない。いや、きっとそんなに器用じゃないから、いまもまだ、ボードの上でなんとかバランスを取りながら波に乗っているのかもしれない。
特に乗りそこねた波の底で沈んだままの出来事がある。その波に乗りそこねたばかりに、私はずっと海の底に沈んでいる。それは再婚当初まで遡る。
樹、楓、響という3人の子供を連れて、私は司と再婚した。いままで築いたものをすべて捨てて、ゼロからの再出発だった。なんにも持っていない、というか、そのころ司はまだ事業を始めて1年程しかたっていなかったから借金がある状態からのスタートだった。でも私たちは新しい暮らしに希望を膨らませていた。司は再婚当初から私たちを大切にしてくれた。少しずつ暮らしも整い、司は私たちにさまざまなものを与えてくれた。私たちは幸せに暮らしていくはずだった。
再婚2年目、彼を信じられなくなるかげりが生じた。ほんの些細なものだったけれど、司が私に「嘘」をついているという思いがよぎった。でも、それが本当に嘘なのかどうか、いまでも事実は霧の中だ。なぜなら、私が何度尋ねても司にはぐらかされてしまうから。一本気な私の性格からして、はぐらかされるのは納得がいかない。はぐらかすぐらいなら、本当のことを言って、謝られたほうがマシ。
「そんなこと、夫婦ならよくある話よ。許してあげればいいじゃない」と友人たちは笑う。そのとおりだと思う。他人から見れば、他愛もない夫婦のあるある話に見えるのかもしれない。でも、私は違う。司が否定すればするほど、私は彼のことが信じられなくなる。彼が一生、うやむやにし続けるのなら、私の心もずっと曇ったままに違いない。私は考えすぎなんだろうかと思い直して、何度も素直な心で向き合おうとしてきた。でも、夫婦の何気ない会話や笑いのあと、すぐにその不信感が頭をもたげてくる。
「私、あのときの本当のことが知りたいの」
私は何度となくその問いを彼にぶつけてきた。彼が私の望む答えを言うはずもないとわかっているのに。
「おれを疑うのか。それより来週の土曜日、みんなで凛が行きたいと言っていたバーベキュー場に行かないか。ログハウス予約するからさ」
司はいつもそうやって別の話題を持ち出して、私の気持ちをはぐらかそうとする。
私は彼に素直にぶつかっていく。たいがいのことを彼は受け入れてくれる。司はありあまる優しさで返してくれる。私が望むものはもちろん手に入れてくれるし、私が想像した以上のサプライズを用意してくれる。
でも、彼が優しくしてくれればくれるほど、私の不安は広がる一方だった。
こんなに優しい人なのに、どうして私の不安はなくならないのだろう。司は私が望むものすべてをくれた。私が欲しいと願ったもの、もしくは願わなくても私にとって必要だろうと司が思い描いたものが手に入るのだ。私が望んだ環境は、あっという間に形になり、私の暮らしは華やいだものへと塗り替えられる。司は私の希望をすべて現実に変えてくれる。
司ってスーパーマン? もしくは一年中トナカイを引いているサンタクロース?
でも、スーパーマンもサンタクロースも、愛する人を不安にさせることはないんじゃないかな……。そんなスーパーマンなんて、誰もスーパーマンとは思ってくれないよね。
「ねえ、どうしてそんなに私のために尽くしてくれるの?」
ある日、私は司に聞いてみた。
「凛のうれしそうな顔がみたいから……」
と司は答える。
「もう充分いろんな物もらったから、そんなに私のこと、気にかけなくていいのよ?」
「おれが勝手にやってることだから、自由にさせてくれよ。単なる自己満足だ!」
そう言って司は、私を驚かせること、喜ばせることにあいかわらず情熱を注いでくる。
司って本当は何を考えているのだろう……。自己満足で私の喜ぶことに全力で情熱を燃やす男。他人から見たら、うらやましがられる旦那さん。でも、本当に私が喜ぶことには目を向けてくれない。
私の人生は彼の大きな宇宙の中のちっぽけな惑星のようなもの。軌道を外れて、宇宙から飛び出すことなど決してない。
そんな小さな惑星も、大きな宇宙に向かって疑念を抱くこともある。宇宙にたてついてでも、晴らしたい思いはある。
何事もなかったかのように私に優しいまなざしを向けるけれど、本当はあのとき何があったのだろう。不安の渦は十数年経った私の中で広がったままなのに。司がはぐらかそうとすればするほど、私の心は司への不信感でいっぱいになる。水面に落ちたブルーのインクのように、一度広がってしまったインクは決してもとには戻らない。そのうち私がケロッと忘れてしまうとでも思っているのだろうか。
こんな思いを抱きながら、子育てや仕事に追われて毎日を過ごしている。いろいろな感情が押し寄せては複雑に絡まりほぐれたりの繰り返し。それでもやっぱり不信感は否めない。小さな嘘が問題なんじゃない。それに真剣に向き合ってくれない司の愛のあり方に不安を感じる。それでもこの人を無条件に信じて、一生を終わらせられるのか、自分で自分の気持ちを持て余していた。
心の中にはいつもくすぶった感情が居座って、好きだという気持ちや一緒にいたいと思える気持ちがだんだん薄れていって、もう離婚するしか道はないのではないかと思っていた5年前のある日。
私はあの奇跡の生き物に初めて出会った。
「この子、すごい!!!」
テレビの中に愛らしい魚の映像が映っていた。
アマミホシゾラフグ。漢字では、奄美星空ふぐと書く。条鰭綱フグ目フグ科シッポウフグ属に分類されるこの生き物は2011年に発見された。体長は5センチほどで白い水玉模様がある。水深10メートルから30メートルの浅いところに棲息する。
このあたりには20年以上前から、海底に広がる直径2メートルもの「ミステリーサークル」が知られていた。誰が何のために海底に円の紋様を作ったのかは長らく不明だったが、その後、メスが産卵する産卵床だったことがわかった。オスはメスの産卵のために、その小さな体で自分の40倍ものサイズの大きな円形の巣を作り上げる。そしてひたすらそれをメスが気に入るように砂を隆起させ、幾重にも模様を施していくのだ。その模様は非常に美しく神秘的で、貝殻やサンゴのかけらを小さな口でひとつずつくわえて飾り付けもする。そしてメスがやってくるのを待つ。
はじめてテレビでこの映像を見た時、私はこのフグの奇妙で健気な巣作りに魅せられた。いつかこのフグが作るミステリーサークルを見に行きたいと思っていたが、忙しさの中でしばらく忘れていた。しかし今年の春、偶然、またこのフグを紹介する番組が目に入った。
「私、このミステリーサークルを見に行きたい!」
今回はなぜか思い立ったら、すぐに行動に移した。フグの産卵時期を調べ、奄美大島のインストラクターに連絡を取った。すると、ちょうど翌月から始まることを知った。電話を切ると、私の心はすでに奄美の海に飛んでいた。そう、5年越しの思いが実現する。私の脳裏にはすでにあの青くて神秘的な海底が広がっていた。フグは5年の時を経て、私の心をノックしている。私の心は沸き立った。
どうしてそんなにフグの「ミステリーサークル」が私の心を捉えて離さないのか、その理由はわからない。でも、私は今回こそこの目で見に行きたかった。見に行かなくてはならないという思いに取り憑かれていた。
「わざわざ、奄美までフグを見に行くの? まあ俺もこのミステリーサークルは見てみたいかな……」
2019年に事故に遭い、片足の不自由な司にとって、飛行機の旅はそれ自体、負担になるはずだ。でも、もともと私の願いは叶えたい司。今回も驚きながらも私に付き合ってくれることになるだろう。
このフグと私の出会いは何かの縁なのか。それとも神さまからのお告げなのか……。自分ではよくわからないが、人には直感派だと言われる。そしてその直感はたいてい当たっているし正しい。私の心に響いたものは、きっと私にとって大切なものに違いない。
司と私は、アマミホシゾラフグの巣作りと産卵に立ち会うため、奄美大島を訪ねることになった。私たちは世界の至るところに旅をしてきた。でも、今回の旅の目的は、観光でも休暇でもない。私たちは仕事やら家庭やらの段取りを手際よく終え、出発の日を迎えた。自宅から羽田空港まで車で向かう。この小さなフグが築く砂の城が私を呼び寄せていることは間違いない。それを見たら自分がどんな思いをするのか、自分がどう変わるのか……。私はいつも感覚で動くし、心に正直な行動は必ず私に何かをもたらしてくれてきた。
「凛が見たいフグの産卵、タイミングがあうといいな」
私の思いを叶えることが楽しみの司は満足そうに笑っていた。司は私の喜ぶ顔が本当に好きらしい。
「きっと凛はそれをみられるさ」
現地ではミステリーサークルへと案内してくれるインストラクターと合流して、数人のダイバーとともに船に乗船した。5年前から、ずっと私の心の中に住んでいたアマミホシゾラフグ。そのフグにこれから対面することになる。
胸の鼓動が高まる。
ドゥボーンという音を立てて海に入ると、海の底へとゆっくりと降りていく。白い海底に向かってフィンで水を蹴っていく。もうすぐ彼らと会える。
何度潜っても海の中は神秘だ。現実とは隔離されたこの不思議な感覚を味わいたくて、私は数々の海を潜った。幾度となく繰り返してきたこの体験。もうベテランのはずなのに、毎回、初めて潜ったかのようなときめきと微かな不安がある。海の中に入っていくと、地上へ戻る理由が見つからなくなる。それが私を不安にさせる。
海の青が次第に濃くなっていく。
なぜフグに魅せられるのかな。可愛いから? それもそうだけど、世の中には可愛いものなんかいっぱいある。フグは可愛いを越えて、私の心に入り込んだ。理由はわからない。でも、このフグを見ることで、私の人生が変わる予感がしている。
それが当たってるかどうかはわからないけど、そうとしか思えないぐらい強い気持ちが私をときめかせる。私はこの出会いでなにを求めているのか、私はこれからどう変わっていきたいのか……。
とうとう私は来た。
私の物語はこのアマミホシゾラフグとの出会いにはじまり、アマミホシゾラフグでひとつの終止符が打たれるはず。
人生は気が遠くなるほど長いけれど、人生の決断をするのに、そんなに時間はいらないと思う。
そしてそれはきっと正しい。
奇跡の軌跡 凛佳 @mitsuki13
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miracle/凛佳
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 1話
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