とあるオーディションの話

愛内那由多

本番直前のこと

 男は手が震えていた。今から、とても変ったオーディションを受ける。それは彼の人生を、大きく変えてしまうことすら―あり得る。

 今日のために、色々と準備してきたのだ。男は軽くそう考えて、緊張を押さえ込もうとする。

 しかし、押さえ込もうとすればするほど、逆に、神経質になっていく。

 さっき出ていた人物のパフォーマンスに―恐れおののいた。その人は―20年も前から世界的なミュージシャンであった。彼の音楽を聴いたことがない人間は―きっといない。そんな人間ですら、このオーディションに出るのだ。

 自分はあの人と―戦えるのだろうか…。それがさらに、彼の不安を大きく増長させた。

 まもなく―自分の番なのだ。そう思うと、井戸から湧き出る水のように、さらに不安が増してくるのだ。

 このまま失敗したら―どうしよう。

 そういう、消極的な脳内の意見に飲まれつつあった。体中がガクガクと震え、自身でも抑えられず、喉が渇いていく。

「緊張してるの?」

 女が話しかけてきた。彼女は男と共にこのオーディションに向けて、準備を共にしてきた、いわば同志である。

「緊張しています…。しないわけ…ないじゃないですか?」

「するよね~。私も」

 男と同様に女も気が気でなかったのだ。

「貴女も…そんなことあるのですね…」

「私は本来―緊張しいなのよ?」

 女はわずかに微笑んだ。そう、彼女も彼も、本来は裏方の人間なのだ。

 男はそれをみて、少し落ち着きを取り戻した。頼もしい味方が自分には―いる。それは彼に勇気を与えた。

 女は男の隣に座った。そして話を続ける。

「このオーディション番組に出たら、きっと人生変っちゃうわね。でも、いいの。そんなことよりも、まず、目の前のことに注目しなさい」

 そんなこと―男は分かっているつもりだった。が、頭で理解していても、実行できた訳ではない。

「自信持ちなさい。貴方は…これまで血の滲むような努力をしてきたでしょう?」

 彼は―今までの真剣に努力を思い出す。

 まず、自分の長所と短所をより分けることから始めた。そして、長所を伸ばし、短所をなくしていった。彼のいいところは見つけ、悪いところは修正する。美点は磨き、欠点は潰すのだ。これには頭を相当に絞る必要があった。原石を磨くのは簡単だが、石ころを綺麗にするのは難しい。欠点を一つ一つ、文字通りになくしていくのは、骨がいる。実際に苦労した。

 次に、パフォーマンスを向上させていったのだ。これは、自分自身が驚くほど苦労した。声の出し方から始まり、姿勢、自信があるように振る舞うこと、質問にはすぐにレスポンスをすることetc…。それらを積み重ね、自分のものにしていき、徐々に上手くなってゆくのは、彼自身の喜びであり、モチベーションにもなった。これが、厳しい訓練にも耐えられた要因だろう。

 あぁ…。自分はこの日のためにちゃんと―努力していたのだ。今度は不安ではなく自信が、火山の溶岩の様に溢れ、煮えたぎる。

「今までの努力がちゃんと身を結ぶようにしなさい」

「はい」

 もう、緊張で全身を揺すっていた彼とは違う。自分には努力した過去があり、仲間もいる。彼は今、自信に自信に身に溢れた―男だった。

 前の人のパフォーマンスが終了し、下手に姿を消す。

 男は上手で自身の準備を済ませ、舞台に向かって歩いてゆく。

「頑張って」

 女は両手を握りしめて、彼を応援した。

「行ってきます」

 と彼は答えた。

 こうして、彼はするテレビ番組の舞台へと向かった行った。

 彼女はソファーに座って考えた。

 ―このオーディションで、彼の人生が変るなら、他の人もそうなのだろう。

 一人の人生が好転するのに、その何百倍、何千倍の人生が破壊される。

 それは―果たして正しいのか…。

 そして、残された女は呟いた。

「オーディション番組はこんなに必要?」

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