先生さようなら
大枝 岳志
先生さようなら
「先生さようなら、みなさんさようなら!」
号令と共に教室を飛び出して行く児童達の中、その日の「当番」であったコウタはぐったりと疲れ果てた様子で担任の榎本のもとへやって来た。
日頃から面倒見がよく、児童達からは「お兄ちゃん」と呼ばれていた榎本だったが、彼が豹変したのは夏休みを明けてすぐのことだった。
当番を終えたコウタは俯きながら教卓に立つ榎本の前で立ち止まる。
「先生、こんなのいつまで続けるの?」
「いつまでって、名前の順で全員が終わるまでだ」
「じゃあ……渡辺やっちゃんが終わったら、終わり?」
「いーや。先生が最後だ」
「えっ、それって……アリなの?」
「先生だけ「対象」にならないなんてさ、不公平だろ?」
「まぁ……確かに」
六年二組の担任である榎本は、二学期の始業式の日に児童達にこんなルールを課した。
「みんなには、今日から名前の順でいじめ当番になってもらいます」
一斉にざわめき出す教室。児童達は困惑した顔を浮かべていると、榎本が笑顔になって続きを説明する。
「いじめで自殺する子供が増えてるって事でな、決まった事なんだ。名前の順で、その日の「イジメられ役」当番になってもらう。いいか? イジメられ役の子には朝から学校が終わるまで、優しく話しかけたり、言うことを聞いたりしてはならないぞ? 基本、無視をしろ。一緒になって遊ぶことも禁止。いいな?」
終始笑顔でそう話す榎本に児童達は気味悪ささえ抱いたが、いじめが始まると榎本は容赦がなかった。
一番初めに「当番」になった相田テツオであったが、当の本人も、周りの児童達も、何をどう始めていいかも分からないで朝の会を終えると、榎本は真顔になって児童達に告げた。
「どうした? おまえら、普段佐山をイジめる時は「貧乏」とか「ばい菌」とか言ってはしゃぐ癖に、なんで相手が相田だと出来ないんだ? え? 先生な、本当はおまえらがいじめるのがとっても上手って知ってるんだぞ」
六年二組の児童達はそれぞれ顔を見合わせながら、一斉に声を押し殺した。佐山タケヒロという児童を、寄ってたかって影でいじめていることは榎本にバレていないと思っていたのだ。
クラスのムードメーカーである「当番」のテツオが立ち上がり、抗議めいた声をあげた。
「先生、こんなの変だと思う」
「何が変なんだ?」
「なんで、わざといじめられなきゃいけないのか、わからないから……」
「ばーか」
「え?」
「ばーか、ばーか」
「ちょっと、先生……」
「みんなもほら、声を揃えて! ばーか、ばーか」
榎本の掛け声に合わせ、クラス中からテツオに向けられて「ばーか」という声がひとまとまりになって鳴り響くと、テツオは自分の耳を塞いで机に伏せた。
そんな調子でいじめ当番は始まり、初めのうちこそぎこちなかった六年二組の面々だったが、日を追うごとにいじめはエスカレートした。中には当番の仕返しを果たそうと予定を組んで本気になる者まで現れ、大怪我寸前の暴行にまで及ぶこともあった。
それでも児童達はひとしきり当番の順番を終える頃になると、いじめそのものに飽きてしまっていた。皮肉なことに、いじめ疲れが原因で佐山へのいじめは自然となくなっていた。疲弊のため息があちこちから漏れる朝の会で、榎本がこんなことを言い出した。
「今日の当番は先生だ。みんな、今日は先生のことを思う存分にいじめてくれて構わない」
児童達は顔を見合わせながら、恨みよりも寧ろ好意を抱いていた榎本をどういじめるか話し合い始めた。その声は徐々に大きくなって行き、教室のあちこちから忍び笑いが漏れ始める。その声を聞いた榎本は、児童たちを怒鳴りつけた。
「授業は始まってるんだぞ! 静かにしろ!」
一瞬黙り込んだ児童達であったが、クスクスと笑い声が漏れ聞こえて来ると、どこからか「ばか先公」という声も聞こえて来る。
その声を聞きながら、榎本は教卓の下でガッツポーズを決め、聞こえない程度の声で「よしよし……」と呟いている。
児童達は榎本から課せられたルールをしっかりと遵守し、まる一日中榎本を無視し続けた。給食の配膳時にはスープにゴミを入れたり、教卓の上に工作糊を塗りつけたり、出席名簿に卑猥な落書きを加える等、出来うることは全てやった。
その日最後の授業の道徳の時間に、榎本は晴れやかな表情で児童達にこんな課題を与えた。
「今日でいじめ当番は終わりだ。明日先生はどんな行動をするのかみんなに予想してもらいたい。どうするか予想して、プリントに書くように」
プリントには四角い枠があり、その上に
【明日先生がどんな気持ちで、どんな行動をするのか予想をしよう】
と書かれている。
児童達は話し合いながら、それぞれが想像を巡らせて翌日の答え合わせを待った。帰りの会ではいつもの号令が掛かり、児童達が一斉に立ち上がる。
「先生さようなら、みなさんさようなら!」
解放の声を響かせながら、児童は一人、また一人と教室を去って行く。
誰もいなくなった教室で、榎本は答え合わせの準備をし始める。
翌朝。教室へやって来た児童達は黒板を前にして固まったまま、誰一人として声を出せずに困惑の表情を浮かべていた。中には泣き出す者もあったが、怒る者は誰もいなかった。
黒板にはこう書かれていた。
【先生から、みなさんさようなら。先生は先生でいることに疲れたので辞めます。残念ですが、みなさんは義務教育なので学校を辞めることはできません。先生は大人なので、できます。もう一生会うことはないと思いますが、さようなら。机の上に、答えがあります】
机の上に置かれた辞表を囲みながら、児童達は一言も声を発しなかった。
ただただ無言の時間ばかりが過ぎ、朝の会が始まる頃になってようやく校長と教頭が現れ、児童達さえもすっかり忘れていた喧騒がやがて教室を飲み込み始めた。
先生さようなら 大枝 岳志 @ooedatakeshi
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