第10話

「撲るってのは、こうやるんだぜ」


 拳が左顎にもろに入り、膝が折れた。口の中に鋭い痛みと生温かい心地が、みるみる広まっていく。


 目がちかちかして、惣一郎は何を、どうすることも、できなかった。思考だって飛んでしまう。


「手前、上等な着物着てやがるな。いいところのお坊ちゃんか。供のもんはどうしたよ」


 このまま地に伏していたいのに、銀八は惣一郎の胸ぐらを掴んで持ち上げた。


 五尺半はあるだろう大男は力も相当なものだった。


 膝で立つような高さまで惣一郎の体を引き上げた。


 空いているほうの手で脇腹へもう一撃を打ち込む。


「俺は手前のような半端もんを見ると虫唾が走るんだ。小僧がいようがいまいが、手前はここで嬲り殺しにしてやる」


 なんだと、俺は天下の三河屋の若旦那で、看板息子だ。


 古着屋は俺の生涯の仕事で、店に出る時はもとより、目が開いている間は、いつだって真剣に商売と向き合って生きている。


 町に出る時、井戸端のご婦人と挨拶をする時、いつだって頭は勝手に商いと結びつけようとする。


 例えばお前のような大男なら、状態の良い古着は滅多に回ってこない。


 ならば古裂れを勧め、冀望があれば、本所一腕の良い格安の仕立て屋を紹介してやる。


 柄の好みを聞いておいて、次の市で良品を仕入れて来てやると言う。


 ヒョーロク玉かもしれないし、ここのところ悠耶にうつつを抜かしていたのも事実だが、半端者とは聞き捨てならない。


 お前のような破落戸如きに、半端者など言わせてなるものか――


 全ては声にならず、惣一郎はされるがままだった。


 気を失うこともできず、俎板の上の肉塊に成り下がった自分が呪わしい。


「惣一郎ぉー」


 痛みをごまかすための体の仕組みのせいなのか、頭の奥が痺れてきた。


 ぼんやり白濁した眼界には銀八の姿も映らない。


 なのに、声が聞こえてくる。


 何だ、この声は。


「惣一郎ー! おいっ、惣一郎に何するんだ。やめろっ!!」


 頭の中がはっきりしない。


 だが、とても悠耶っぽい声がする気がする。


 やられすぎて幻聴が聞こえるのだろうか。


 だが偶然か、銀八からの打撃が止んだ。体の震動が止まったのを感じる。

 

 それともいよいよ体が痛覚を失ったのか。


「お前、戻って来たんか?」


「当たり前だろう! 蕨乃から聞いたぞ。惣一郎はおいらを助けに来たんだって!」


「ああ!? なんだ? そんなの、当たり前だろう……」


 堂々と宣言した悠耶の勢いに、銀八がやや動揺した様子が、目に入らずとも伝わってくる。


 惣一郎が悠耶を助けに来たなんて、状況だけで明らかなのに。


 他人から聞いたと、誇らしげにのたまった講釈がごく当然の事実なので銀八は昏惑したようだ。


 それに蕨乃の名を出すのも上手くない。


(だから、お悠耶は馬鹿なんだって……)


 こんなにボロボロで、もう指の一本も自分の意思で動かす仕草もままならない。


 なのに、不思議と笑いが込み上げる。


 そう、こんな時にまで悠耶は馬鹿だ。どこまでも素直で、防備をせず、他人を攻撃しない。


 なのに、そんなところがたまらなく愛らしい。


 どうにかして、無傷で帰してやりたいのに。

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