第8話

(痛ってえ)


「お悠耶、大丈夫か? 早く走れ!」


 こんな格好では走りにくいだろうが、縄を解いてやっている暇はない。


「待って、惣一郎。おいら、小便したい」


「こんな時まで、おめーはっ!」


 かように緊迫した場面で、どうしてそういう台詞が言えるのか、悠耶の真意はいつだって計りかねる。


 厠になんぞ寄ってる余裕はない。肩を掴み、前へ押す。


 小便なぞ、逃げ切れたら存分にすれば良い。


 それでも悠耶はロクに足を動かさないから、いっそのこと、担いで逃げようと惣一郎は一度、屈んで悠耶の腹の下に肩を入れた。


「惣一郎、ちょっと! ヤバイよ!」


 腹に縄が当たって苦しいかもしれないが、ちょっとは堪えてもらおう。今は、そういう部類の時だ。


「惣一郎っ!」


 勢いよく立ち上がり駆け出そうとして、惣一郎は背中に大きな打撃を受けた。


 大きく前方へつんのめる。同時に悠耶も担ぎ手を失って、土の上に放り出された。


「……はっ」


 倒れて腹を強く打ちすぎたせいか、惣一郎は息を吸うこともできない。


 だが、直ぐに因は知れた。背後から蹴られたのだ。


「何だあ、てめえは? 小僧の仲間なんか?」

 

 呼吸もままならない背に追い打ちを懸けるように重みが加わる。


 足で踏まれている。


 辛うじて首だけ持ち上げると、眼界の端に、先ほど当たり飛ばした男が片膝を突く光景が見える。


 だから、室内にもう一人いた別の男にやられたのだろう。


「オイ、小僧を追え!」


 惣一郎から足を離さず太い声が上から降ってくる。


(逃げろ、お悠耶……!)


 ちくしょう、情けない。声が出せない。


 俺は、こんな間抜けな姿になった。


 せめて悠耶だけでも逃げ延びてくれなきゃ、救いがない。


 惣一郎の気持ちが通じたのか、地に伏した惣一郎から見える範囲に悠耶の姿は見当たらなかった。


「へい」と返事をした細身の男の足音も遠ざかり、直ぐに戻っては来ない。


 いつの間にか、蕨乃も姿を消していた。悠耶について行ったのだろうか。

 

 然程の時は経っていないはずなのに、知覚は恐ろしいほど緩慢だった。


 空は茜一色だ。地面は夕陽に晒された草木が、あちこちやたらにべっとりとした黒い染みをつけている。


 朱と黒との色彩差が不気味に、ゆっくりと伸びていく。


 次に自分を待ち受けているだろう展開に思いを巡らし、惣一郎は直ぐに顔を伏せた。


 土が目に入らぬよう目も閉じる。


 湿気った草いきれが鼻に、砂利が頬を圧迫する。


 だが、そんなのは数にも入らないくらい不快な目に遭うだろう。


「何なんだよ、てめえは。小僧が見つからなかったら、ただで済むと思うなよ」


(そんなの、ハナからわかってら)


 悠耶なら、最終的には売り物だ。暴力を振るっても大きな傷は負わせまい。

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