彼女の独白が終わり、狭い道場を静寂が包んだ。外からの、雪の降り積もる音だけが、聞こえてくる。その音がなぜか、余計に静けさを引き立てているような気がした。

「須賀子さんは、」

 沈黙に耐え切れず、口を開く。

「須賀子さんは、なぜ、立ち直れたんですか?」

 控えめに、様子を伺うように、そっと、彼女へ尋ねた。

「燕返しを、打ち破ることは出来たんですか?」

 すると彼女は無言で立ち上がり、木刀を取って、鏡の前に向かった。

 まず、陰の構え。彼女のではなく、姉、矢村環の陰。前傾したそこから、膝を抜き、神速の一刀が閃いた。

 雷鳴にも似た踏み込みの音が、耳を劈く。私は瞬きすら忘れ、彼女の手元を凝視した。

 頬の横を始点に、臍の辺りまで左拳が落ちる。本来ならそこが終点で、払われたのなら勝つこと適わず花を散らすこととなる。しかし、ここからだ。

 右手首を内側にひねりこむ。鍔目が翻り、刀身が上向きになる。

 一瞬にも満たぬ間だった。左拳を支点とし、右腕を引いただけで、刃が跳ね上がる。

 これが、天才、矢村環の公案した、燕返しの全てだった。

 その動きを焼き付けるように、彼女が目を閉じる。

 二、三秒は、そうしていただろうか。

 にわかに彼女が目を見開いて、別の構えをとった。それは陰でも、霞でもなく、むしろそれらと対称を描くような構え。

「逆陰」

 小さく、彼女が呟く。私にも何かの武道書で見た覚えがあった。陰の逆だから、逆陰。しかしその刀身は、むしろ霞のように上を向き、地面と平行に倒れるよう、構えられていた。

 彼女が鏡を睨む。先ほど自分で行なった燕返しの太刀筋を、記憶の中の姉に重ねて再現しようとしているのだろう。その鬼気迫る表情を見ていると、陰に構えた姉の姿が私にすら幻視されるようだった。

 彼女が、さらに前傾する。水月を侵す彼女に釣られ、幻の姉が袈裟懸けに切り下ろす。

 次の瞬間、彼女は左脇を締め、右手を支点とした梃子の原理で、その太刀を弾く。しかし、それだけでは足りない。弾かれても、相手には二の太刀がある。

 と、ここで彼女の足元が、構えたときと違っているのに気付く。左足が、これは踏み込んだのか。右足より半歩ほど前に出ている。

 そのことに驚く間もなく、彼女の手の内には更なる変化が生じていた。

 内に捻りこまれていた右手が、返っている。

 瞬きも、声を上げることすらも間に合わない。視認さえままならぬ速さ。

 そのまま、左肩を入れると同時に右腕が伸びる。

 全ての動きが一体をなし、攻防一致の極北へ至る、一つの技が示現する。

 太刀は、相手の首を刎ね飛ばしていた。

「……勝ったん、ですね」

 恐る恐る彼女に尋ねる。

 振り返って、彼女は答えた。

「さあ、どうだか」

 諦念の色濃い笑みを、彼女は浮かべた。

「結局、今はもう亡き人だ。勝つも負けるもない。私は勝てなかった、という事実があるだけだ」

 いって、木刀を置き、その場に腰を下ろす。

「さっき君は、なぜ立ち直れたのか、と。そう聞いたね。それはとんでもない的外れだよ。私は、気付いただけだ」

 深い溜息、一つ。

「私は、彼女の亡霊にとり憑かれていたようで、その実、自らの妄執に捕われていただけ。そういうことを言葉だけじゃなく、実感として理解できた。それだけなんだ」

 それを聞いて、思う。

 須賀子さんは立ち直っていないとはいうけれど、そんなことはない。それが、過去と決別できることが、畢竟未来を見るということに繋がるのだから。これを立ち直ったといわず、なんというのだろう。

 姉の死に引きずられているのは、彼女ではなく私のほうだった。努力もなく、態度さえ遠く及ばないのにも拘らず、天才と別格化しながら、些細なことにすら、姉の残り香を嗅ぎつけては手前勝手に妬ましく思う。

 姉が死んで、私は、とってつけたように彼女の朝稽古へ付き合いながら、少しでもその劣等感を和らげようとした。しかし稽古に打ち込めば打ち込むほど、余計にそれは肥大していった。姉との決定的な差が、浮き彫りにされていっただけだった。姉がいなくなったからといって、私がそれに成り代われるわけでは、当然のことながらなかったのだ。

 私は、だから今でも間違っている。

 おそらく、私は未だ理解できていないのだろう。彼女のいうようにこれが自縄自縛だとしても、私には言葉面でしか分かっていなくて、実感など、何一つありはしないのだ。

 光陰人を待たず、という言葉がある。それでも人は必死に喰らい付こうと、過去を振り捨てることが出来る。乗り越えることが出来る。過去に打ち克つことが出来る。

 だというのに、私は、今は亡き過去の幻影に憑かれて、前を向けないでいる。

 いつの間にか、私は置いていかれてしまったのだ。

「須賀子さん」

 彼女にかける、声が震えた。

「僕も、須賀子さんみたいに、強く、なれますかね?」

 たどたどしい口調で呟く。

「私は、強くなんかないよ」

 自嘲気味に笑いながら、彼女は俯く。

 それでも私には、彼女が光に向かっているように感じられた。

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