転
「負けた?」
鸚鵡返しに私はいった。それを受けて彼女は、そう、と肯く。
「私と環が、一緒に朝稽古を行っていたのは知ってるだろう。その一環として、私たちは袋竹刀を用いた実戦形式の打ち合いを取り入れていたんだ」
彼女がいうには、実際に型を用いて打ち合うことで、技が練られ、身体に馴染んでくるのだという。
「といっても、本当のところはじゃれ合いみたいなもので。お互い、いかに相手を出し抜いて勝ちをおさめるか、ということを考えるのが楽しくて、まあ、やっぱり遊びだったのかな、最初は」
滔々と、懐かしむように、彼女は語る。私はといえば、半ば呆気にとられながらも、二人の物語に対する好奇心が勝ったのだろう、一つ一つ肯きながら耳を傾けていた。
「勝率は、やっぱり五分五分くらいだったかな。環の一種破調ともいえる構えからの技は、これもまた常とは違っていて、なかなかどうして勝ち続けることが出来なかった」
知ってる? 環ったら一回負けると凄く悔しがって、次の打ち合いではどうやって勝とうか、むきになって考えるんだよ。
そういって、心底可笑しそうに、彼女は破顔した。
私も姉のそうした姿が、なるほど、わりと容易に思い描くことが出来、釣られて苦笑してしまった。
「でも、あの日からは違った」
ひとしきり笑い終えた彼女が、続ける。
「あれは、そうだな。環が死ぬ一月ほど前だったか。その日も、私と環はこの道場で竹刀を取り、向かい合っていた。
忘れもしない。あの時私たちは双陰にて、二間ほどの間をとって立ち合っていた。まだ間合いは遠い。陰からは、遠間への奇襲技もあって迂闊には近づきかねるから、互いに攻めあぐねているようだった」
そこまで話して、彼女は湯飲みに口をつけた。私も一口、緑茶をすする。
舌を潤す程度で、彼女の湯飲みが置かれた。
「その内に、焦れたのか、はたまた攻め手を掴んだのか、彼女が間合いを詰めてきた。構えは、依然陰のまま。水月の一歩手前というところで、私は霞に構えを変えた」
「……陰霞勢」
「そう。ところで、真雄。君はあの型稽古を行なううえで、違和感を覚えたことはない?」
唐突に話題が転換する。私は何か答えようとはすれども、ぱっと思いつくところがない。
その様子を見て彼女は、諭すようにいった。
「型を覚えたら、それがどういう想定で使われるものかを詳しく突き詰めていったほうが、上達が早まるよ。まあ、これもおいおいやっていけばいいんだけどね。
さて、それで陰霞勢についてだけど、あれには一つ欠陥があるんだ」
「欠陥、ですか?」
「ああ。陰からの袈裟を霞で払った後、攻勢に転じるためにはどうしてももう一挙動必要となる。また、そのまま突けばかなり隙はなくなるけれど、あいにく腹を突いたくらいで、人は即座に絶命するわけではない。
要するに、弾かれたはずの相手がすぐさま攻撃を返して来たら間に合わない、というのがあの型の欠陥なんだよ」
そこまで聞いて、思わずあっ、と声を上げた。姉の公案だというあの技には、ありえない二の太刀が存在したのだ。
「燕返し。彼女はそう名付けていたよ。それ以後環が死ぬまで、私はついぞ、それを破ることが出来なかった」
私は、あいつの好敵手でいることが、出来なかったのだ。
低く、呻くような声で、彼女はそんな言葉を搾り出した。
「だから、あんなに稽古を」
姉が死んですぐの、彼女の様子を思い出して、呟く。
「私は、あいつと対等でいたかった。いなければならないと思った。だってそうだろう? 明るくて、社交的で、そんな環が私と付き合い続けてくれたのは、対等の相手だったからじゃないのか。私は、あいつに離れられるのが怖かったんだ」
吐き捨てるように、彼女はいった。
「ああ確かに。あいつは、そうは思ってなかったのかもしれない。それでも友情を感じてくれていたのかもしれない。でも、私が納得できなかった。ましてそのまま、私を負かしたまま環はいなくなってしまった。あいつの真意は、もう確かめようがなかったんだ。だから、だからせめて、私は、私の中で……」
あいつと対等に戻りたかったんだ。
俯いて語る彼女の表情は、怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。
「私は、剣を振るうしか、なかったんだ」
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