私が戻ったのを区切りとして、彼女は稽古を終えた。背筋の伸びた正座から、作法に則って行われる刀礼は実に美しい。

 この人は独り稽古のときでも、決して略礼はとらない。思えば姉もそうだった。このあたりで既に、私との意識の違いが浮き彫りになってくる。普段から陽気で、ともすればちゃらけているようにすら感じられた姉も、剣に対しては、私などほとんど問題にならないほど真摯だったのだ。

「考えごと?」

 礼を終え、彼女が振り返る。

「あ、いえ。ちょっとぼうっとしちゃって」

 いいながら、急須に手をかけようとする私を、彼女が制した。

「私がやるよ。こぼして火傷でもされちゃ、困るからさ」

 冗談っぽく口にする彼女に、私も苦笑して、すみません、なんて謝る。

「しかし、さっき入ってきたときもだけど、どうかしたの? なんだか妙に呆けているみたいだけど」

 眠いのかい? 彼女の黒い瞳が、ちらと私を覗き込んだ。何気ない視線に、けれど私の心中が見透かされてしまうのを恐れて、目を逸らす。急須からは湯飲みへと、音を立てて濃い緑茶が注がれている。

「さっき、姉さんのことを思い出して」

 咄嗟に、そんな言葉が口をついた。茶の注がれる音がぴたと止まる。顔を上げると、彼女がこちらをじっと見つめていた。

「環のこと、か。そういえば、もうすぐ五年になるのかな。丁度このくらいの時期だったものね」

 急須を置く、ことりという音と、感慨深げに吐かれた溜息が耳をついた。

 彼女にとって姉の死は、私などが感じるより一層重いものなのだろう。彼女と姉は単なる友人である以上に、良き競争相手でもあったのだから。

 この朝稽古にしたって、もとは私ではなく姉と須賀子さんとで行われていたものだった。

 無論、当時は今ほどの頻度ではなく、休日などで二人の都合がつけば、というくらいだったが、それでもほとんど毎週のように朝稽古は行われていた。週末ともなれば、彼女たちが踏み鳴らす床の音に目覚めを強いられることもしばしばで、朝食の席では、私から姉へ、良くそのことについて小言をぶつけたものだった。とはいっても口の達者な姉相手では、そんなささやかな不満すら聞き入れてもらえなかった。どころか、やれ稽古が不真面目だ、役に立たないやつだと散々なじられた挙句、彼女らの稽古終わりに、茶を淹れて持っていくことまで確約させられてしまった。こうして彼女と茶の席を共にしているのも、本を正せばそれが始まりなのだから、少々情けない。

 彼女の朝稽古が毎日行われるようになったのは、姉が他界してすぐだ。そのころにもまだ私は参加しておらず、道場で独り、彼女は刀を振るっていた。

 もっとも、茶の差し入れは続けていた。彼女からは、悪いから、と断られたものの、やはり習慣になっていたのか、早起きしながら手持ち無沙汰というのも、なんとなく具合が悪く感じられたのだ。

 それに、当時の彼女は異様だった。剣を振るう表情には鬼気が迫り、道場内においてはその眉間から皺が消えることはなく、伸びるに任せて振り乱された髪は幽鬼のようで、さながら物に憑かれたかの如く、一心不乱に稽古へ打ち込んでいたのだ。

 私はそんな彼女を心配して、というところもあったのだろう。差し入れに託けて、彼女の様子を見に足を運んでいたのだった。

 これだけで、姉の死が彼女に与えた衝撃の凄まじさが伺えよう。今では大分心の整理がついているようだけれど、それでもやはり、いろいろと思うところはあるに違いない。

 そういえば、と。先ほどの、彼女の技が思い出された。

 あれが繰り出されたのは、姉が構える陰に良く似た構えからだった。とすると、

「須賀子さん、さっきの技って」

 思わず尋ねていた。

 その質問に、彼女は僅かにうろたえたようですぐ恥ずかしそうに目を逸らした。

「なんだ、やっぱり見られてたんだ」

 頭を掻きながら答える。

「あの技は、環の公案だよ」

 手を膝に下ろし、どこともない中空を、彼女は見つめた。

「そして、私は……」

 膝に置かれた拳が、硬く握られる。何かに耐えるように、言葉に詰まりながら彼女は、

「私は、環に負けたんだ」

 そう、小さく呟いた。

 瞳には物憂げな光が差す。表情からは、懐古と、悲哀と、ほんの少しの諦観が読み取れるようだった。

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