光陰過ぎ行き、
色葉
起
静かに、冷ややかに、張り詰めた雰囲気を滲ませるようにして彼女は佇んでいた。
ゆらともせずに天を突く切っ先。右頬近くにぴたりと留まっている左拳は、しかし手の内を殺さぬ余裕を持って、柄を握っている。右手も同様、耳の横辺りに添えられて、そこから伸びる白い腕はゆるりと撓んでいた。
目付けは、さほど鋭いわけではないが、それだけに読みにくい。相対する者の身体を透過していくような付け方だ。
胸を張り、腰を引き、臍を下に向けるような重心の置き方。顔は正面を向いているが、胴は僅かに右方向へ、左脚は半歩程前に突き出で、その五指は真っ直ぐこちらを指している。体重は主に後ろの右脚へとかかり、こちらは少し膝を撓ませながら、指は胴と同じ方を向く。
八双、という呼称が馴染み深いかもしれない。当流においては陰と呼び習わされる構えを、美しさすら感じる程に、彼女は完成させていた。
対するこちらの構えは霞。
右手を右耳の脇につけ、得物は地面とほぼ水平に倒す。刃は上向きに、切っ先は相対する彼女へ突き付けるように。
目は真っ向から相手へと付けながら、身体は半身に。丹田への意識は陰と同様だが、体重をやや前方に出でた左脚へ配り、前傾する。爪先は、やはり相手へ向ける。一歩ほどおいた後ろに位置する右脚の爪先は、これも胴と同じく右方向へ。
狭い道場の中は、ある種の緊張で充たされていた。
冬の早朝の凛とした寒さは、厳かさすら感じさせる。そんな空気の下、私と彼女は二人きりで対峙していた。
得物は互いに、白樫の木刀。真剣でないとはいえ、打ち所が悪ければ死に至ることもあり得るだろう。この緊張は、やはりその辺りに起因するものだ。
額に浮いた汗が、こめかみを伝い落ちていくのが分かる。気温は三度を超えないはずだ。となれば、これは冷や汗に違いない。この張り詰めた空気の中においては構えを保つだけで、相当な疲弊を感じてしまう。
そこへ至ると、相対する彼女は別格だった。私は、ともすれば切っ先をぶれさせてしまいそうになるのに対して、彼女は氷像のように静寂を守っている。向かい合う彼女と私の間は畳一畳ほどしか離れていないはずなのに、それだけの距離がやけに遠く思われる。その主観的な距離こそが、彼我の技量の差なのだ。
相対してどのくらい経ったろう。客観的な時間は、さほど過ぎていないのかもしれない。しかし私には、もはや限界が訪れようとしていた。
彼女へと突きつけた切っ先が僅かに下がる。
ほんの一瞬だった。彼女の体と得物が、滑るように落ちてくる。そこまでの情報が視覚に飛び込んで初めて、私は動いた。
左脚を軸に、右肩を押し込むようにして、体を翻す。同時に右の手首を返し、刀身を捻じり、回す。
乾いた音が弾けて響いた。
彼女の刀は逸れ、空を切る。対する私の木刀は、先ほどの霞から対称に位置しながら、彼女へ突きつけられていた。
これが、当流に伝わる打合い稽古の一つ、陰霞勢と呼ばれる、型の一本だった。
彼女が体勢を起こし、一歩下がる。私も剣尖をはずさぬまま、中段へ構えを移し後退、残心を行う。
そうして一息吐いていると、前髪を掻き上げながら近づいてきた彼女が口を開いた。
「大分反応が良くなってきたね。今のは割と手加減しなかったんだけど、上手く太刀筋を捉えていたと思うよ。自分ではどうかな?」
手加減をしなかったというのは、多分タイミングについても、なのだろう。型稽古とはいえ、ある程度実戦向けでお願いしたのは私のほうだが、ああいう隙を見逃さないのはさすがとしかいいようがない。だが、
「やっぱりちょっと、遅い、ですかね」
「そうだね。あそこで集中を切らしたのは、いけなかった」
そう、あの間合いでは、遅かったのだ。
本当の実戦であれば、おそらくは私の刀こそ空を切っていたはずだ。彼女は私の虚をついて動き、私は虚をつかれ咄嗟に対応した。これだけで、両者のどちらにより余裕があるかは、推して知るべしといわざるを得ない。余裕があるということは、視野が広いということ。私の動きが見えてしまえば、反撃するなど彼女にとって容易かったのだ。
例えば少し左腕を引き、太刀筋をこちらの左肢に対する袈裟斬りから突きに変えるだけで、負けていたのは私のほうだった。彼女がそれをしなかったのは、まだ私がその域に達していないからだろう。彼女には、咄嗟に反応できただけ上出来だ、そう思われているのだろう。
「まあそこらへんは練習を積んでいけば、自然となれていくさ。あんまり気負わないことだよ」
やさしげに彼女が笑う。それが少し、私には歯痒かった。
「さて、仕上げに独り稽古でもして上がろうかな」
彼女は一つ伸びをして、私にいった。
「じゃあ僕は、ちょっとお茶でも淹れてきますよ」
立ったまま、略式の刀礼をした後、木刀をしまいながら答える。
「ありがとう。なにか、悪いね」
彼女は頭を掻きながら軽く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。須賀子さんにはいつも朝稽古に付き合ってもらっていますから」
こちらも頭を下げて、道場を出る。
戸を開けると、外では雪が降っていた。
履物を突っかけて中庭へ出る。この道場は、あまり広くないものの自宅敷地内に在しているため、すぐ帰れるのがいいところだ。
中庭はほのかに白んでいる。降り始めてまださほど時を経ていないのか、隅の芝生や綻びかけた梅の蕾に薄らと積もっているほかは、あまり常と変わるところがない。しかしそれでも、柔らかなしじまに包まれた雪の朝は、世界を別物のように感じさせる。考えてみれば、今季はこれが初雪だろう。
勝手口から台所へ上がりこみ、薬缶に水を張って火にかける。湯が湧くまでの間に戸棚から茶葉と急須、それに私と彼女の湯飲みを出して、盆へ乗せた。
思えば、こうして毎日、彼女と朝の稽古を共にするようになって、どれほどの年月が経つだろう。揺らめく炎を眺めながら、ふと回想に耽る。あの人がこれほど熱心に通うようになったのは、丁度姉が他界したころだった。とすると、もう五年か。
ふる歳月にしてはそれが過去のことと感じられないのは、今より昔へ、多く心がさかれているからだろう。私たちにとって、姉の死はそれほどの大きさを持っていた。
刀というものが、蔵の奥深くへ美術品として死蔵されるようになったのと同様に、現代における剣術という言葉にもまた、拭いきれない黴臭さが付きまとう。私と姉は、そんな時代がかった技能を今へ伝える家柄に生を受けた。
生来勘の悪い私などは、実力が伴わないのでますます稽古に身が入らぬといった悪循環に陥りがちで、さほど身についているわけではなかったが、姉は違った。
一言でいうなら天才。それが姉に与えられた評価だった。
小兵で、体格が優れているわけでもなく、また型が綺麗だというわけでもなかったが、打ち合いになると滅法強い。それは姉が振るう剣がまさに天性のものだったからだろう。
姉は、型を自らの体格や癖に合わせて運用しながらも、その効果を損なわせないという、いわばアレンジ能力とでもいうべき才能に秀でていたのだと思う。私とは真逆なのだ。これは、自らの身体、その動きに対する勘が鋭いが故に会得しえた才能といえよう。だから姉の真似をしようが、誰一人同じように刀を振るえる者はおらず、いよいよ天才という名が高まっていくのだった。
そんな姉と、唯一同世代で対抗しうる人物だったのが、彼女、窪田須賀子だった。
彼女の振るう剣は姉のものと対照的で、美しさすら感じさせるほどに型を再現することで、それが持つ性能を最大限引き出していた。最も、それは彼女が女性にしては長身で、型を再現するに足る身体を持ち合わせていたからだろう。こちらも、一つの天性には違いない。
そんな、剣筋一つとっても対照的な二人は、またその性格も面白いように違っていた。
姉は快活で、身体を動かすほうが得意な気質だったが、須賀子さんはどちらかといえば、じっくりと物思いに耽ったり、読書をしている姿が様になるような人物だった。
二人は、それでも妙に馬が合っていたというか、凸凹が上手くかみ合うようで、すこぶる仲が良かった。抜きつ抜かれつ、互いに技を競い合い、切磋琢磨する二人の姿は非常に快く、父などは、自分の代にこのような逸材が出たことを、心底喜んでいるようだった。
しゅん、と。水蒸気の吹き立つ音で、現実に引き戻される。
あわててガスを切り、急須に熱湯を注ぐ。今日は寒いから、温かい緑茶が一層美味く感じるだろう。となると茶請けもほしいところだと、薬缶をコンロに戻してもう一度戸棚を漁る。あちこち引っ繰り返してようやく見つけた煎餅を二つ、一緒に盆の上へ並べて勝手口を出た。
相変わらず雪は、しんしんと降り積もっている。
その静けさを割るようにして、道場から雷鳴が響いた。力強い踏み込みが当流の特徴だ。
例えば先ほどの、陰からの袈裟斬り。あれは突き出した左足の膝を抜き、落ちる体重をそのまま物打ちに載せて叩きつけることで威力を出す。つまり踏み込みが強ければ強いほど、それが直接斬撃の強さに結びつくのだ。
彼女の邪魔にならないよう、そっと、道場の戸を引く。彼女は鏡の前で、陰の構えをとっていた。
ふと、その構えに違和感を覚える。いつもの彼女は、型どおりに右足へ体重を置いて構えるのだが、これは少し前傾している。
その、少し崩れた構えに、見覚えがあった。
これは姉、矢村環の陰だった。
そっと、息を殺して彼女を見つめ続ける。
滑るように、彼女が動いた。稲妻の袈裟懸け。本来一太刀で仕留めるために編み出された太刀筋は、しかしこの場においてはその意味を忘れていた。
鍔目が、翻る。
神速の初太刀に、ありえない二の太刀が付随していた。
あの技は、なんだ。
知りえない技に思わず息を呑む。閉め忘れた戸から、強い風が吹き込んできた。
寒さを感じたのだろう。彼女がこちらに振り向いた。
「おかえり、といいたいところだけど、ちゃんと扉は閉めてくれよ。寒くて敵わないから」
そう微笑む彼女に私は、すみません、と謝りながら、後ろ手に戸を閉めることしかできなかった。何か、見てはいけない秘密を目の当たりにしてしまったようなばつの悪さが、私の胸に広がっていた。
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