十
十
「ごめんね。待った?」
蓮は椅子に座ってじっとしている綴に声をかけた。
「いえ、大丈夫ですよ」
綴の声は、特に機嫌を悪くしてはいなさそうに蓮には聞こえた。
「隼さん……快方に向かっているようで良かったです」
綴は蓮の顔を見て柔らかな微笑みを浮かべた。
「うん、良かったよ。あと二週間くらいで退院できそうだしね」
蓮は綴のすぐ隣の席に腰を下ろした。
「隼さんは……どんな病気なんですか?」
綴は隣に座った蓮に素朴とも言える疑問を投げかけた。
「遺伝性の病気で、完治がないってことしか聞いてないけど……」
「完治がないんですか……それは大変ですね」
綴はほんの少しだけうつむき加減になった。
「それより、綴さんは今、体調は大丈夫かな?」
蓮は大丈夫だろうとは思いつつも、念のため綴に尋ねてみた。
「大丈夫ですよ。気持ちも落ち着いています」
特に呼吸が荒そうでもないし、どうやら本当に大丈夫なのだろう、と蓮は思った。
「じゃあ、もう一カ所、ちょっと寄りたい所があるんだけど、いいかな?」
「寄りたい所ですか? それは、どこでしょうか?」
綴はきょとんとして蓮に尋ねた。
「竹本商店」
蓮ははっきりとした口調で綴に言った。
「竹本商店さんですか……目的は何ですか?」
「ちょっと、店主さんにあいさつしにね」
蓮はほどけかかった靴紐を結び直しながら言った。
「へぇ……あの、竹本おばさんとお知り合いなんですか?」
「うん。昔、色々とお世話になったから」
蓮は靴紐をしっかり結び直すと、一人立ち上がった。
「じゃあ、綴さん、もう行っても大丈夫かな?」
綴は特に反論せず、ニコリとして言った。
「はい。行きましょう!」
二人が竹本商店の引き戸を開けたのは、病院を出発して三十分ほど経ったころだった。
「こんにちは。立花蓮です」
蓮は店の奥に届きそうな声で挨拶する。
「こ、こんにちは。あ、安藤みのりといいます」
綴も蓮に習うように声を上げるが、店の奥からは誰も出てこない。
「こんにちは。立花蓮です。竹本おばさんいらっしゃいますか」
蓮は一回目よりさらに声量を上げて挨拶する。
「はいー、今行きますねー」
すると、店の奥からのんびりとした雰囲気の声が聞こえてきた。直後、ギシギシ、と床板が軋むような音。
やがて、一分ほど経ち、店の奥から小柄な年配の女性が現れた。女性はわら草履を履いている。
「あらま、ひょっとして、蓮君かい?」
女性は蓮を見上げた末、目を大きく見開いている。
「そうです、立花蓮です。お久しぶりです」
蓮は身内に再会した時見せるような笑顔で、女性に軽く会釈をした。女性は口元に右手を当てた。
「あら、まぁまぁ、本当大きくなったねぇ」
「はい。おかげさまで」
女性は何度も瞬きをすると、蓮の隣で静かにしている綴に顔を向けた。
「隣の女の子は、蓮君のお友達さんかい?」
「あ、はい。あ、あの、安藤みのりといいます」
綴は女性に向かって深々と頭を下げた。
「安藤さんって、あの大きなお屋敷の子かい?」
女性は目を丸くして、綴を真っ直ぐに見つめる。
「えっと、それは……」
蓮には、綴がどう答えたらいいか迷っているように見えた。
「いいえ、無関係です」
蓮は咄嗟にそう言った。
「あぁ、そうかいそうかい。ごめんよぉ」
女性は綴の左肩を軽くポンポンと叩きながら言った。
「あ、いえ……大丈夫です。ところで、お名前は?」
綴はもう知っていますがと言いたそうな顔を隠すような表情で言った。あくまで、話を自然な流れにしようとしているに過ぎないのだろう。
「あぁ、ごめんよ。言い忘れとったね。竹本今日子っていいます」
竹本今日子は綴に向かって軽く頭を下げた。元が小柄なので、蓮には今日子がさらに小さく見えた。
「竹本今日子さんですね。覚えました」
綴はリラックスしたような表情と同時に、どこか懐かしさを感じたような表情で言った。
「そうかいそうかい。よろしくねぇ」
綴と今日子の自己紹介が無事に終わったところで、今日子は改めて口を開いた。
「ところで、みのりちゃん……あの子にそっくりだねぇ」
「あの子……誰ですか?」
綴は落ち着いて今日子に尋ねる。
「あぁ、ごめんね。知らないと思うけど……綴ちゃんって子でねぇ」
「綴……ですか……」
綴は今日子が発した名前をオウム返しした。特に戸惑っている様子はない。想定の範囲内なのだろう。
蓮も内心、日記に書かれていたことは本当だったんだ、と思った。。
今日子は綴の態度に特に動じることもなく語る。
「綴ちゃん。髪の毛は長くてサラッとしててねぇ、目は青々と輝いててね……ほんと、可愛らしい子だったよぉ。おまけに、みのりちゃんみたいに礼儀正しくてねぇ」
間違いない。目の前の綴さんと同一人物だろう。蓮は確信を持った。
「ところで、今日は何を買いに来たんだい?」
今日子は思い出した様子で、蓮と綴を交互に見つめる。
「い、いえ、実は今日はあいさつのつもりで……」
蓮は少し慌てたような様子で言った。
「おぉ、そうかい? じゃあ、ちょっと待ってな」
二人の返事を待たずに、今日子はくるりと後ろを向き、店の奥へと消えていく。
「竹本おばさん、どうしたんでしょうか?」
綴が二人以外誰もいない店内を見回しながら、蓮に尋ねる。
「何か取りにいってると思うよ」
蓮は経験上、この後の展開は大体予測がついていた。
数分後、今日子が店の奥から再び姿を現した。
両手に、水滴がたっぷりついたペットボトルラムネを二本持ってきて。
「ほら、これ持っていきな」
今日子は店のカウンターに置かれたタオルでペットボトルについた水滴を拭うと、二人にラムネを一本ずつ差し出した。
「えっ、あの……いいんですか?」
綴は今日子に確認を取ろうとする。
「いいよいいよ。日頃のお礼だからねぇ」
今日子は手をヒラヒラさせながら言った。
「ありがとうございます。ありがたくいただきます」
蓮は今日子に軽く頭を下げ、ラムネを受け取った。
「そんな、ありがてぇのはあたしも同じだよ」
今日子は綴に差し出したラムネを引っ込めようとはしない。
「あの……私ももらってしまっていいのでしょうか」
「こまけぇこたぁ気にしないで。ほら」
綴は少しの間ためらっていたが、やがて今日子から残りのラムネを受け取った。
「ありがとう……ございます」
「ところで、二人とも、綴祭りには行くのかい?」
今日子は思い出したと言いたげな様子で言った。
「はい、みのりさんと一緒に行きます」
蓮はラムネをリュックサックに入れながら言った。
「そうかいそうかい。そりゃあ、楽しんできな」
今日子は手を精一杯伸ばして、蓮の右肩をポンポンと叩いた。
「そうします。ありがとうございます」
「私も、ありがとうございます」
綴は今日子に向かって丁寧に頭を下げた。
「うん。それじゃあ、あたしゃそろそろ戻るよ」
今日子は蓮と綴を交互に見つめながら、にこりと笑みを浮かべた。
「どうも。元気な姿を見れて嬉しいです。ありがとうございました」
「蓮君こそ、元気で良かったよ。みのりちゃんもね。じゃあねぇ」
「私も、ありがとうございました」
綴も今日子に向かってまた丁寧にお辞儀をした。
今日子が店の奥に消えてから、まず綴が、続いて蓮が引き戸を開け、竹本商店を後にした。
蝉がいよいよ本格的にけたたましく鳴いている。
蓮と綴は、緩やかにカーブする国道上を歩き進める。二人の身体からは、米粒ほどの大きさの汗が多数にじみ出ている。
「本当に蒸し暑いですね……」
綴は今日子にもらったラムネをぐびぐび飲みながら、暑さに参ったような表情をしている。
「暑いね。もう少ししたら神社だから、頑張ろう」
蓮もラムネを勢いよく飲み、白いフェイスタオルで顔を拭って歩き続けている。
「はい……頑張りますね」
あれから、二人は『綴祭り』を回ることに正式に決めた。蓮が隼の代わりというわけではないが、綴が回りたいと言い出したためだった。
国道なのにろくに車の通らない道を、二人はひたすら歩いた。
「わぁ……すごい人ですね……!」
綴祭り会場に来た直後、綴が感嘆したような声を上げる。
「この辺じゃ、数少ないお祭りだからね。みんな楽しみにしてるんだよ」
蓮は額の汗を何度も拭いながら言った。
「へぇ、とっても賑やかですね!」
「うん。賑やかだね。あれ」
その時、二人の前方から見慣れた人物がやってきた。
「あーっ! 立花君にみのりさん! こんにちは!」
「あぁ、安藤さん、こんにちは」
「しおりさん、こんにちは! 私の名前はみのりではありません!」
「えっ、じゃあ、みのるさんとか?」
しおりはジョークを言いながらも、困惑している様子だ。
「いいえ、私の名前は綴といいます!」
しおりは口をおの字に開けて少しの間固まる。
「えっ、もしかして……記憶、思い出したの?」
「はい、そうです!」
「何もかも、残らず思い出したんだって」
蓮が補足で説明をする。
「へぇ、そうだったんだ。とりあえず良かったねー」
「はい。何だか、私が私に戻れたような、そんな安心感があって」
「そっかそっか。親御さんには会えた?」
「いえ、それが……」
「色々と事情があってね」
蓮が助け船を渡す形になる。
「そっか……わかった! 大丈夫、無理には聞かないから!」
「あ、ありがとうございます」
「それより、綴さんに名前で呼ばれるの、初めてじゃない?」
「そうですね……あの……名前でお呼びするの、失礼かなって今まで思ってて……」
「そんなことないから、大丈夫!」
安藤さんは、相変わらずテンションが高いな。蓮はそう思った。
「そういえば、安藤さんは祭りの手伝いしてたの?」
「そうだよー。くじ引きのね」
「くじ引き、やってみたいです!」
「あぁ、ごめんねー。もう売り切れちゃったんだ」
「そうですか……ちょっと、残念です」
「でも大丈夫! まだ色々お店やってるし!」
「あのさ……安藤さんも一緒に回らない?」
「そうです。お忙しくなければ、いかがでしょうか?」
「んー……いや、それはノーで!」
しおりは笑いながら首を横に振った。
「えっ、それはどうしてですか?」
「んーとねー、何かさ、二人の邪魔をしたくないからね!」
「えっ、そんな……邪魔じゃありませんよ?」
「いや、二人ともいいムードみたいだしねぇ」
「ええっ!」
蓮は素っ頓狂な声を上げた。
「だから、あたしは静かに退場するよ!」
そう言う割には、全然静かじゃないけど。蓮は内心突っ込みを入れた。
「安藤さん。そんな気を遣わなくてもいいよ」
「遣ってないよ。まだちょっとやることもあるからね!」
「そうですか。いずれにしても、残念です」
「ごめんね、綴さん。立花君と思いっきり楽しんできてね!」
「は、はい……」
「立花君となら、きっと楽しめると思うから!」
あまりハードルを高くしないで欲しい。蓮はそう思った。
「じゃあさ、後で詳しいこと聞く?」
「いや、それもいいかな」
「えっ、どうしてですか?」
「綴さんが記憶を思い出せたんなら、それでもういいじゃん!」
「あぁ、はい……」
綴は腑に落ちない様子だ。
「あっ、ごめん。それじゃあ、もうそろそろ行くねー」
「あっ、はい……あの!」
「ん? 何かな、綴さん?」
「本当に、ありがとうございました! とっても楽しかったです!」
「ううん、あたしこそ楽しかったよ! ありがとう!」
「では……あの、またいつかお会いしましょう!」
「うん、是非。それじゃあ、またね!」
「うん、色々とありがとう」
「立花君も、またね!」
そう言い残して、しおりは人混みの中に消えていった。
「しおりさん、行ってしまいましたね」
「うん。きっと、安藤さんなりの思いやりだと思うよ」
「はい。きっと、そうですね」
「じゃあ、安藤さんの分まで、僕たちで思いっきり楽しもうか!」
「はい、楽しみましょう!」
そうして、二人は射的の店の前にやってくる。
「やぁお嬢ちゃん。射的やってみないかい?」
「射的ですか? やります! やらせてください!」
「おぉ、元気なお嬢ちゃんだ」
「射的かぁ。いいねぇ」
「私、あのみかんの置物、取ります!」
綴が指さしたのは、実物大のみかんにニコニコ顔が描かれた置物だ。
いかにも女の子が好きそうな感じのデザインだな。蓮はそう思った。
「頑張れ、綴さん!」
「はい! それでは、行きます!」
軽い音と共に、弾は置物に見事に当たる。
しかし、そう簡単には落ちない。
「うぅー。あと二発残ってます!」
今度は当たったものの、先ほどよりも横に外れてしまう。
「これで決めます!」
向きが変わっていた置物が、元の向きに戻った。
そうして、綴の戦いは終わった。
「うぅー、駄目でした」
綴はがっくりとしている。
「よし……それなら、綴さんの雪辱は、僕が晴らそう!」
「はい、お願いします!」
「取れるもんなら取ってみ! 坊ちゃん!」
「よぅしっ!」
三発目で、置物は見事に仕留められた。
「おぅ……おめでとう! すげぇな……」
「はいこれ。綴さんにあげる」
蓮は綴さんの小さな手にみかんの置物をそっと置く。
「わぁ……ありがとうございます!」
綴さんはそれを落とさないようにそうっと、青いバッグの中へ。
「坊ちゃん、才能あんじゃないか? 是非俺たちの」
「そこは遠慮しておきます」
「即答か! まぁ……坊ちゃん、彼女を幸せにしてやれよ!」
「か、彼女……」
綴は顔を赤らめる。
「わかりました。必ず幸せにします!」
「れ、蓮さん……?」
「綴さん、今はそういうことにしておこう」
「え……あ、あの……」
「ダメ?」
「……わかりました! つ……次、い、行きましょう!」
綴は照れ隠しなのか、ドスドスとした足取りで歩き出した。
「ちょっと涼しくなってきましたね」
「そうだね。これくらいだと、ちょうどいいね」
「はい……あっ! 蓮さん!」
綴が焼きそば屋台の前で立ち止まった。
「ん、あっ……」
蓮の目の前では、白い煙を上げながら熱々の焼きそばが調理中だ。
「あの、焼きそば食べたいです!」
「おぉ、いいねぇ。焼きそば」
しかし、値段は一個四百円、しかも量も少なそうだ。
「蓮さん、あの……お願いします!」
「いいよ、もちろん。二個でいい?」
「えっ、あの……」
「ん?」
「……一個でいいです」
「えっ、一個?」
「はい、一個を……蓮さんと分けて……」
「えっ……それって……」
何だか恥ずかしいような。蓮はそう思った。
「あ、あの、嫌でしたら、二個で……」
「いや……一個にしようか」
「えっ、いいんですか?」」
「うん、だって……」
「はい?」
「……今、僕と綴さんは……」
「はい」
「……ごめん、恥ずかしくて言えないや」
「……お気持ちだけでも、嬉しいですよ?」
「そ、そう?」
「はい。嬉しいです!」
「な、なら良かった」
そうして、蓮は店のおじさんに声をかけた。
「へいらっしゃい」
「焼きそば一つ下さい」
「え……一個でいいのかい? 箸は?」
「えっと……どうする、綴さん?」
「箸は……うーん……二つでお願いします!」
「ほうほう。じゃあ、ちょっと待ってな」
おじさんは慣れた手つきで焼きそばを仕上げていく。
「おじさん、すごい器用ですね」
綴が感心したような様子で見ている。
「おぉそうかい? これだけが取り柄だからな。ハッハッハ」
数分して、湯気をもうもうと立てた焼きそばがプラスチック容器に盛られる。
「はいよ。焼きそば一つ。まいど」
「ありがとうございます。早速食べましょう!」
「うん、食べよう! いただきます」
「いただきます!」
蓮が左手に焼きそばを持つ形になる。
「うーん、ほかほかで……とっても美味しいです!」
「できたてだからね、本当美味しいね」
「何だか、私と蓮さんって……」
「うん?」
「本当に……恋人同士みたいですね」
「……そ……そうだね!」
「本当は、生きてる内にこんなことをしたかったですけど……」
「あ……うん……」
蓮は思った。綴さんは既に死んでしまっている。現代で綴さんを知っている人はごくわずかしかいないんだ。
「……でも、色々あったからこそ、隼さんや蓮さんに出会えたんだと思います……」
「……そう、かもしれないね……」
蓮は綴の意見を食べながら聞いていた。
それから、二人は夜店をいくつか回って、その度に笑い合った。
金魚すくいは見事に完敗してしまったけど、それも笑いに変わった。
二人は本当に、何度も何度も笑い合った。
「いやぁ、色々回ったねー」
「はい! 何だか、ちょっとだけですけど、眠くなってきました」
「そっか。どう? 楽しかった?」
「はい……とっても。それと」
「うん?」
「とっても……幸せな時間でした」
「……良かった」
「はい。穏やかな気持ちで、最期を迎えられそうです」
「本当に、良かったよ」
「蓮さん。本当に、ありがとうございました!」
「うん。役に立てたなら、本当に嬉しいよ……」
突然、蓮の懐の携帯が震えだした。
「携帯が鳴ってるから、出るね」
「あっ……はい……」
番号は蓮の母親からだった。
「もしもし? 何?」
「蓮なの? 急いで来て! お父さんが!」
「父さんがどうしたの?」
「大変なの! 急いで!」
「えっ……あ、うん、わかった! すぐ行くよ!」
「蓮さん? どうしましたか?」
「父親の容態が急変したみたい」
綴は言葉を失った様子だった。
「蓮さん……これから、どうされますか?」
「病院に行くよ。綴さんは?」
綴は蓮の瞳をじっと見つめて、言った。
「私も行きます! 行かせてください!」
「わかった。じゃあ急いで」
そうして、蓮は綴の返事を待たずに、走り始めた。
蓮にとって、病院までの道のりは大変長く感じられた。
弱々しい明かりが灯るエントランスをくぐると、蓮は受付の女性に畳み掛けるように話しかける。
「あの! 立花隼の息子で、立花蓮といいます! 父親の容態は」
「落ち着いて下さい。現在治療中です」
「あ、はい……すみません……」
「すみません! 私も関係者です!」
少しして、綴が蓮に追いつく。肩を上下させて、苦しそうに息をしている。
「わかりました。廊下の椅子でお待ち下さい」
二人は女性にお礼を言うと、スタスタと先ほどの椅子まで歩く。
「母さん、母さん!」
廊下の椅子には、陽子が待っていた。
「……蓮……みのりさんも……」
朝とは大違いに、陽子は疲れ切った顔をしていた。
「父さんは? 父さんはどうなの?」
蓮は陽子に畳み掛けるように尋ねる。
「……命の危険がある状態だって……」
「そんな……どうして?」
朝見舞いに行った時は大丈夫そうだったのに。
何が、父親の容態をおかしくしてしまったのだろう。
蓮はそう思った。
「わからないけど……あぁ、神様……」
横でただひたすら両手を握るように、陽子は祈る。
「みのりさんは……どうして来たの?」
陽子は力なく、けれど不思議そうな顔をして、綴に尋ねた。
綴は深呼吸をしてから、こう言った。
「立花隼さんを助けるために来ました」
一瞬、蓮は何もかもが静止したかのような感覚を覚えた。
「みのりさん……何を言っているの?」
陽子は綴の瞳をじっと見つめて、困惑のまなざしを向けている。
「私が、これから……立花隼さんを助けます」
「みのりさん、どうやって?」
蓮も綴の発言には疑問を持たずにはいられない。
「私の命を……隼さんに差し上げます!」
綴ははっきりとした声で言った。
「みのりさん。あなた、本当に何を言っているの」
陽子はまるで綴を非難するかのような声を上げる。
「私が私の力を使えば、私は消えます。その代わり、隼さんは助かりますから!」
「みのりさん。馬鹿なことを言わないで!」
陽子は語気が荒くなった。ふざけていると思っているのだろう。そう思うのは無理もないが。
綴は陽子の非難にも動じず、冷淡な声で言った。
「馬鹿なことではないことを、これから証明しますね」
そうして、綴はまるで占い師が水晶玉にパワーを送りこむときのような姿勢を取り、目をつむった。
「みのりさん……」
「みのりさん! ふざけないで!」
蓮の絶句と陽子の怒り……それにも綴はもう動じなかった。
すると、綴の周囲を取り囲むかのように、徐々に青白い光が表れ始めた。
「えっ……何……」
怒りに震えていた陽子も、それを見て目をぱちくりさせている。
青白い光は徐々に濃度を増していき、やがて綴を完全に取り囲み、見えなくさせた。
「……みのり……さん……?」
陽子の問いかけにも、綴はもう返事はない。
直後、目が眩むレベルの閃光が、綴の位置を中心に、放射線状に放たれる。
蓮も陽子も目をつむらざるを得なくなり……さらに二人は……あまりにも強烈な光に、意識を失ったのだった。
蓮は目を開いた。目の前には弱々しい光の電灯に映し出された白い無機質な扉。
そして、隣には母親の陽子が、何も話すことなく呆然と前を見つめている。
「蓮……何だか、不思議な感覚がしない?」
「不思議な感覚?」
「そう。誰かがいたような、そんな気が……」
「……そういえば……そうかもしれないね」
蓮は記憶を手繰り寄せようとする。しかし、具体的な姿が誰なのかは、わからない。
「そう言えば、父さん……」
「……きっと大丈夫よ。そんな気がするわ」
「なんか、同じ。そう思う」
少しして、病室のドアが開き、医師が驚いたような顔をして出てきた。
「立花さん。旦那さんが、窮地を脱しましたよ!」
「それは本当ですか?」
「本当ですよ。容態も回復しています」
陽子はそれを聞いて、ほっと胸をなでおろす。
「私の夫だから、頑張ってくれたんです。きっと」
医師は陽子の発言を聞いて少々困惑しているような様子だった。
「父さんは、あとどのくらいで退院できそうですか?」
蓮は少々早まった様子で医師に尋ねる。
「すぐというわけにはいきません。しかし、このまま容態が安定すれば、近いうちに退院できると思います」
「先生。ありがとうございます」
陽子は医師に深々と頭を下げた。
「いえ。当たり前のことをしたまでですし、まだ油断はできませんから、最後まで責任を持って治療します」
医師は陽子を直視して言った。
「ありがとうございます」
蓮も陽子に倣って頭を下げるのだった。
翌日、蓮は美野里神社に参拝をしに行った。
今日のうちに東京へ帰らなければならない蓮は、最後に『綴神』に感謝しようという考えだった。
手水場で手を清め、参拝を終えた蓮は、ふと気配を感じた。
それは裏手の森の奥からだった。
しかし、直後アラームが鳴り、蓮ははっと我に返った。
蓮が裏手の森を再び見ることは、なかった。
ツヅリマツリ【小説版】 カミーネ @Kamine9856
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