九


 蓮は全身汗だくになりながら、木々が生い茂る公園のベンチにみのりを座らせた。

 みのりは先ほどの混乱でエネルギーを使い果たしたかのように、ぐったりとしている。

「……立花さん……あ……ありがとうございます」

「大丈夫。それより、みのりさんは少し落ち着いた?」

「あっ、はい……先ほどよりは……大分」

 蓮はみのりの隣にストンと落ちるように座った。

「あの……立花さん……私……」

 みのりは何かを言いづらそうにしている。

「ん? どうしたの?」

 蓮はみのりが何を言いたいのかわかっていない様子だ。

「……あの……私……全部、思い出したんです」

「えっ、そうなの?」

「はい……何もかも……全部」

 蓮はゴクリとつばを飲み込んだ。

「これから、話してもらえるかな?」

「はい……大丈夫です」

 みのりは疲れた目をしながらも、しっかりとした声で言った。

「では、話しますね。私に何があったのか、ということを」

「うん。よろしく」

 みのりはこくりと頷いて、口を開いて全容を話し始めた。


「まずは、私が生まれた日から話します。一九六〇年の二月のことです。その日は空っ風が吹く寒い日でした」

「一九六〇年の二月って、今から五十年以上も前?」

 蓮はちらりとみのりを見て、怪訝そうに目を細める。

「そうなりますね」

「ちょっと待って。みのりさんって、五十歳なの?」

 蓮はそうとは思えない表情をして、みのりに向かって尋ねた。

 みのりは首を横に振った。それは、はっきりとした否定の態度だった。

「いいえ、過ぎてませんよ」

「えっ、そんなわけ……」

「そのことにつきましては、後でお話しますね」

 みのりは真顔のまま淡々と答えていく。

「そう……わかった」

 今はとにかく、みのりさんの話を聞こう。蓮はみのりに話の続きを促した。

「私は安藤家で生まれました。そして間もなく、私を生かすか殺すかという議論が起こったんです」

「えっ……」

 蓮は絶句した。突然ショッキングな言葉がみのりの口から飛び出してきたことによってだった。

 蓮はすぐに思い出した。その話は確か、歴史資料館で安藤さんが話してたことじゃないか、と。

 蓮の脳内が、攪拌機で掻き回されたようになっていく。

「私は青い目で生まれてきました。だからそのような議論になりました」

 みのりは蓮の心情に構わず、淡々と言葉を発していく。

「どうして?」

 蓮は聞かずにはいられない。

「当時、安藤家では青い目で生まれた子供を良く思わない人たちが多かったんですよ」

 みのりは少しばかり俯くような仕草を見せながら言った。

「それはどうして?」

「それは……多分、綴神を主軸に、人外の物を連想させてしまうからだと思います」

「なるほどね……そうだったんだ」

 蓮は妙に納得した様子だった。

「はい。それで、私を殺せという人が多かったんです。ですが……」

 みのりはいったん言葉を切った。

「……私の味方になってくれる人もいらっしゃいました」

「そうなんだ。それは誰なの?」

「はい。安藤さんのおじいさんで、私のお父さんにあたる、安藤正一さんと、正一さんの弟の、安藤正二さん、他にもお母さんなどです」

 蓮は目を丸くした。

 安藤正二さんが、みのりさんの味方になってくれたのか。

 だとしたら、昨日みのりさんを怖がっていたのはなぜ……。蓮はますます混乱してくる。

「私の両親や正二叔父さんが、相手を必死に説得してくれたんです」

 みのりは蓮の感情など知る由もなく、ひたすら話を進めていく。

「結果、相手もいくつかの条件で納得したようです」

「それはどんな条件?」

「はい。安藤の苗字を名乗らない、存在を世間に出さない、そして、正二叔父さんの元で暮らし、両親がいる本家と一切関わらせない、以上の三つです」

 それを語っている時のみのりの表情は、蓮にはどこか悲しげに見えた。

「酷いね、それ」

 蓮は内心思った。つまり、親にも会えず、社会にも自分の存在を一切認知されないということか。

「今考えれば、酷い話だと思います」

 みのりには、当時酷いというまでの感覚がなかったようだった。

「そして、私は綴と名付けられ、正二叔父さんに引き取られました」

「綴さん……って……」

 蓮は脳天をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。

「はい。お守りに書かれてあった名前は、私です」

「そう、だったんだ……」

 蓮はますます置いてきぼりにされている。

「はい。それから、私はここからもう少し山間の民家で暮らすことになりました」

「……うん」

「それから……私が十二歳くらいになるまでは、大きな問題は起こりませんでした」

「そうだったんだ」

「はい。叔父さんは働き者で、仲も悪くはありませんでした」

 綴はそこで一旦言葉を切り、改めて言った。

「……まぁ一つ、行きたかった所はありますけどね」

「それはどこ?」

「……小学校です」

「えっ……小学校、行けなかったの?」

「はい。私は社会との接触を許されていませんでした。戸籍も住民票もありませんでした」

「……そっか……」

 蓮は拳を軽く握りしめ、内心思った。

 存在を認められない……それがものすごく辛いことは、僕にも痛いほどわかる。

「小学校への憧れを抱きつつ、自宅で勉強をする日々が続きました」

「でも、結局行けなかったんだね?」

 蓮の言葉に対し、綴は黙ってうなずいた。

 蓮は眉間にしわを寄せ、内心思う。

 青い目をしているだけで、それだけ不利な扱いを受けなければいけないなんて……腹が立ってくる。

「でも、十二歳を過ぎて、状況が悪くなったんです」

「そうなの?」

「はい。叔父さんが不機嫌な日が、だんだん増えてきたんです。多分、仕事先で嫌なことがあったんだと思います」

 綴は淡々と話し続けているが、徐々に言葉に険がこもっているようにも蓮には聞こえた。

「やがて、暴言と暴力が始まりました。最初は腕をつかまれて、ひっぱたかれたり……そのうちに、押し倒されたり、蹴られたり」

「どうして、そんなことを……」

 あまりの落差に、蓮には理解が追いつかない。

「怪我をしてもすぐ治る特性は生まれつきあったんです。だから、そんな私を気味悪く思っていたのかもしれませんし、仕事先で嫌な思いをしていたのかもしれません」

「だからって……だからって……!」

 蓮は拳を固く握りしめた。炎が燃え上がるように上昇する怒りの感情。

「そんなの、親のすることじゃないよ!」

 蓮は感情を吐き出すかのようにして言った。

「そうです。でも、さらに状況は酷くなっていきます」

 綴は唇を軽く噛むような仕草をした。

「叔父さんが仕事を辞めてしまい、お酒とタバコに浸るようになりました」

「叔父さんの稼ぎがなくなったので、それまでの叔父さんの貯金を切り崩して生活するようになりました」

「酷い奴だね」

 蓮は奥歯をかみしめた。

「ある日、叔父さんは言ったんです。お前が働け、と」

「えっ……そんな、酷すぎる」

「はい。俺が今までお前を養ったのだから、今度はお前が俺を養えって」

 蓮は握り拳を固くした。安藤正二は、とんでもない奴だ。

「それで、綴さんはどうしたの?」

 蓮は苛立ちを必死に隠すようにしながら綴に聞いた。

「はい。私はその通りにしました。そして、竹本商店で働き始めたんです。十四歳の時でした」

「十四歳って……働けないよね?」

 確か、法律上は十五歳にならないとダメだったような……。蓮は内心そう思った。

「えぇ、働けません。なので、十五歳です、高校生以上です、と竹本商店のおばさんに嘘をついたんです」

 綴は影を落としたような表情になった。今でも罪深さを感じているのだろう。

「幸い、おばさんは私のこと詮索することもなく、私を雇って下さいました」

「そうだったんだ……」

「はい。そのまま、一年あまりが経って七月一日……忘れもしません」

「うん?」

 蓮は綴の言葉を待つ。

「私は、立花隼さんと出会いました」

「……そうだったんだ」

 蓮には予想できた答えなので、特に驚きの感情を持つことはなかった。

「はい。それからの隼さんとのひと月は、本当に忘れられない時間でした」

 蓮の父親を『隼さん』と呼ぶ辺り、親密度がうかがえるだろうか。

「三一日の『綴祭り』を回る約束もしましたが、それは叶いませんでした」

「うん……それはどうして?」

 蓮はおおまかだが、理由は想像できていた。

「隼さんが……来なかったんです」

「……そうだったんだね」

 蓮は綴の話を聞くと同時に、先日の日記の内容を思い出していた。

「はい。内心、とても楽しみにしていたんですけど……なぜか、来ませんでした」

「……そうなんだ……」

「……そして、当時の私は、青い目を理由に色々な人から差別されていました。なので、私は隼さんにも嫌われたと思って……自ら死を選んだんです」

「そうだったんだ……」

 無論、蓮にとっては初耳のことだった。

「はい。私は……美野里神社奥の川に自ら身を投げ込み……死んだんです」

 蓮は驚きのあまり、言葉が出てこなかった。

「でも、私の旅はそれで終わりではありませんでした」

「そうなの?」

「はい。私は今、二〇一〇年に生き返らせられたんです。私自身が抱いている誤解を解くために、らしいです」

「誤解?」

「隼さんが『綴祭り』に来なかった理由について、お前は誤解していると、私は言われたんです……私より偉い神様に」

「そうなの?」

「はい。真相はどうなのかまでは、その神様は教えてくれませんでしたが……」

「……そうだったんだ」

 人間の常識では説明できないことを何度も経験して、蓮はもう、受け入れるしか選択肢がなくなっていた。

「そして、私は、自殺した川の近くで目を覚ましました。近くに当時持っていた青いバッグもありました」

「なるほどね」

 全ての点がつながったような気が、蓮にはした。

「私は……隼さんに会わなければいけないんです。そのために二〇一〇年に蘇ったんです」

「うん」

「ですから、立花さん……突然ですが、隼さんに顔を見せてもいいでしょうか?」

 蓮は少しの間口を引き締めたままで、やがてゆっくりと開いた。

「それはね……良くないと思うんだ」

「そんな、どうしてですか?」

「父さんからすれば、歳をとっていない綴さんを見るのは違和感しかないと思うんだ。いや、そもそも、綴さんだとも思わないかも。だから、反対だよ。悪いけど」

「でも、そうしたら、私は何のためにこの世界に生き返ったんですか?」

 蓮は少し俯き加減になり、考えを巡らせる。何かいい方法はないだろうか、と。

「……わかった。じゃあ、綴さんの娘さんってことでどうだろう?」

 ごくわずかな希望の光に照らされたかのように、綴は目をパチパチさせた。

「わかりました。それで構いません。わがままを言ってしまいすみませんでした」

 綴は深々と蓮に向かって頭を下げるのだった。


 二人は公園で少しの間休んだのち移動を開始し、やがて美野里病院のエントランスにやって来た。

 病院は美野里地域では最も高い建物らしかった。まるで要塞のように、二人の前にそびえ立っている。

 蓮の額からは、大粒の汗がひっきりなしに出てきている。

「……立花さん……暑いです……」

 綴からも、それは同様だった。

「暑いね。昨日のほうが良かったかな」

 蓮は半分独り言をつぶやいた。

「早く……暑さから離れたいです」

 綴はバッグから白いフェイスタオルを取り出し、顔の汗を一通り拭った。

「じゃあ、早く入ろう。中、エアコン効いてるから」

「はい。あの……効いてるって表現をするんですね」

 綴はまた一つ勉強になったような表情を見せた。

 まず蓮が自動ドアを開け、それに習う形で綴が続いた。

 ドアの先には、ソファやカウンターが置かれた、だだっ広いロビー。床は白を基調としたリノリウムで、壁には木目調の壁紙が隙間なく貼られている。

「綺麗な病院ですね」

 綴は咄嗟に正直な感想を口にした。

「そうだね。この辺では新しい病院だからね」

 蓮は綴の感想に応えつつ、受付でせわしなく業務に勤しんでいる女性に声をかける。

「すみません、立花隼との面会を予約した、息子の立花蓮と言います」

「立花蓮さんですね。少々お待ち下さい」

 女性は二人の顔をちらりと見て、カウンター下にしゃがみ込み、書類を一枚カウンターの上に置いた。

「こちらにご記入をお願いいたします」

「あっ、はい、わかりました」

 蓮は書類をすらすらと記入していく。途中、綴の『面会理由』の欄には『課外活動でお世話になったため』と適当に嘘を書いておく。

 綴も必要な嘘とわかっているためか、蓮には何も言わなかった。

「はい、結構です。では、二階の二〇六号室にどうぞ。エレベーターはあちらとなります」

 女性の事務的な言葉に従って、蓮を先頭に二人は歩く。

 二階の廊下は全面真っ白で、清潔感に溢れていた。外窓も大きく、十分すぎるほどの夏の日差しが屋内に入ってくる。

「病院って、広いんですね」

 綴が長く続く廊下を見つめて歩きながら蓮に聞いた。

「まぁ、ここはこの辺では大きな病院だからね。あっ、着いたよ」

 蓮の視線の先には、無機質な白いドア。綴の目の高さの辺りに『二〇六』のプレートが貼られてある。

「じゃあ、ドアをノックするよ」

「は、はい」

 綴は一回深く深呼吸をした。

 蓮は綴の準備が整っていることを確認してから、無味乾燥とした白いドアをノックした。

「どうぞ」

 すると中からは、蓮がどこか懐かしさを感じる声が聞こえてきた。

「入るよ」

「失礼します」

 蓮は念のため一言断ってから、ドアを開けて中に入った。綴も蓮に続いて入った。

 ドアを開けた先には、六畳程度の広さの部屋が広がっていた。小型の机にテレビ。最も広い面積を占有しているベッドの上では、隼が週刊誌をパラパラとめくっている。

「父さん。久しぶり」

 蓮は隼に普段と変わらない声をかけた。隼は蓮のほうを向くと、口をおの形にしてから言った。

「おぉ、蓮か。こりゃ久しぶりだな」

「酷くなさそうで良かった」

「あぁ、おかげさまで大分元気になってきた。蓮は元気か?」

「まぁまぁ元気だよ。でさ、今日はちょっと紹介したい人がいるから、連れてきたんだけど……」

 蓮は後ろに隠れるようにしていた綴の体に触れ、前に出るように諭した。

「あ、あの……安藤みのりといいます。立花さんのお友達で、安藤綴の娘です。よろしくお願いします」

 綴は隼に丁寧にお辞儀をした。隼は綴を見つめたまま、返事をしようとしない。

「父さん?」

「……あ、あぁ悪い。安藤みのりさんって言うんだね。よろしく」

 隼は少しの間の後、少々慌てた様子で返事をした。

 蓮は推測を巡らせた。ひょっとしたら、みのりさんと綴さんを重ねているのかもしれない、と。

「綴……みのりさんは、どうしてお見舞いに来てくれたのか、聞きたいんだけど、いいかな?」

 隼は半ば愛想笑いのような表情をして綴に尋ねた。

「はい。あの……母が、三十五年前、立花さんが、どうして『綴祭り』に来なかったのか、隼……立花さんに真相を聞きたがっていたものですから、そのために」

 隼の表情が一瞬真顔になった。

「……えっと……それは、みのりさんのお母さんが直接来ればいい話じゃないかな?」

「えと……母には来れない事情があって……」

 綴は若干うつむき加減になった。

「あぁ……そう、なんだね……うーん……」

 隼は渋い顔をして、少しの間腕を組んで考える仕草をした末、言った。

「……今も罹っている病気で緊急入院した、って伝えておいてくれれば」

「……わかりました。そう伝えておきます。お答えいただき、ありがとうございます」

 綴は深々とお辞儀をした。冷静さを保とうと必死になっているようにも、蓮には見えた。

「い、いえいえ。そっか……綴さんは生きてたのか……良かった」

 隼は半ば独り言を交えながら言った。

 蓮は心苦しくなった。隼が考えている綴さんはおらず、いるのはまるで『幻』と化した綴さんだけだという事実に。

「みのりさんの要件はそれだけかな?」

 隼は綴を穏和な瞳で見つめながら、綴に尋ねる。

「は、はい……それだけです。すみません……」

 綴は少しばかりうつむき加減の体勢になった。

「いや、いいんだけど……家族同士の話もしたいから、一旦退席してもらっても大丈夫かな?」

「あ、はい。わかりました。そうします」

 綴ははっきりとした口調で隼に言った。そのまま、後ろを向いて数歩進みドアノブに手を掛ける。蓮は特に止めなかった。

「失礼しました」

 綴がドアを完全に閉めて少し経って、隼は口を開いた。

「ところで蓮、何か差し入れはあるのか?」

「あ……うん。みかんが何個かね」

 蓮はリュックからみかんが入った紙袋を取り出し、机の上に置いた。

「おぉ、ありがとな」

 隼は早速、紙袋に手を突っ込んでみかんを一つ取り出し、ベッドの上で皮を剥き始めた。その手には、幾らかのしわが現れている。

 隼は皮を剥ききったみかんをさらに一口大に分け、口に放り込んだ。

「どう、味は?」

「……うん、こりゃうまい。当たりだ」

 隼は顔を綻ばせながら蓮に言った。

「良かった。これ、すごい甘いよね」

「あぁ甘い。最近食べた中で一番だ」

 隼は一欠片のみかんを飲み込んでから、少し低めの声で再び口を開く。

「高校生活はどうだ?」

「まぁ、うまくいってると思うよ」

 蓮は隼を真っ直ぐに見つめながら言った。隼はうんうん、と頷く。

「なら良かった。東京の雰囲気にも、もう慣れたか?」

「うん、もうすっかりね」

「そうか……本当、成長したんだな」

 隼はちらりと窓の外を見てから、蓮に向き直って言った。

「初めて、進学を決意した時の言葉、憶えてるか?」

「うん、憶えてるよ。何があっても合格する、ってね」

「そうだったな。父さん、実はな……まさか、本気だとは思ってなかったんだ」

「えっ、そうだったの?」

 蓮は目を見開いた。隼はゆっくりと頷いた上で話を続ける。

「あぁ、前みたいに、すぐに諦めるって思ってた。正直」

 前がいつのことかは、蓮には容易に想像が付いた。

「……そうだったんだ」

「あぁ。でも、蓮がいつも勉強してるの見てな……これは本気なんだなって思えるようになったんだ」

 隼は二個目のみかんを取ろうと、紙袋の裾を持って引き寄せる。

「合格した時何て言ってたか、憶えてるか?」

 隼は二個目のみかんの皮剥きをしながら、蓮に尋ねた。

「……自分との約束を守れたから、今最高の気分だよ……みたいな感じだった」

「あぁ、そうだ。そしてそれから、もう一年半近く経つんだから、時の流れは早いもんだ」

 隼はあぐらをかきながら、二個目のみかんを口に入れた。

「早いね。本当に」

 蓮もそう思わざるを得なかった。

「まぁ……うまくやってるんなら安心だよ」

 隼はみかんの欠片を一つ飲み込むと、穏やかに微笑んで言った。

「自分の力で手にしたからね。そう簡単には手放さないよ」

 蓮は隼を真っ直ぐに視界に捕らえて言った。

「本当に、変わったんだな……」

 隼は再び窓の外を見つめた。外からは『綴祭り』の太鼓だろうか、ドコドコという重低音が時折入ってくる。

「そういえば、蓮は『綴祭り』は行くのか?」

 隼はゴホゴホと軽い咳をしながら、蓮に問いかけた。

「折角だからね。行くつもり」

「相手は、みのりさんか?」

 蓮には、その時の隼の瞳が少し哀しげに見えた。

「そのつもりだよ」

「そうか……楽しんでこいよ」

「うん。そうするよ」

 隼は蓮の言葉を聞き終えると、壁に掛けられたグレーの電波時計を一瞥した。

「十一時二十分……まだ始まってないだろうな」

「そうだね。まだだね」

 祭りは午後一時からだということを、蓮はすでに把握していた。

「そういえば、入院生活はどう?」

 隼は二個目のみかんをすでに半分食べ終えていた。

「うーん、正直言うとな……ちょっと退屈だな」

「あぁ、そうだよね……昼間は何してるの?」

「そうだなー……検査以外は、ひたすら読書したり、テレビを見たり、って感じだな」

 隼は首を斜めに傾けてから言った。

「普段、看護師さんとは話さないの?」

 蓮は素朴な疑問を隼にぶつけてみることにした。

「相手も仕事中だしな。まぁ、少しならな」

 隼は残りのみかんの欠片をパクリと口に入れた。

「そうなんだね。看護師さんは親切?」

「親切だよ。ありがたいもんだ」

 隼はみかんの皮を丁寧にたたみ、紙袋の中へと落とし込んだ。

「あとどのくらいで退院出来るかは言われた?」

「あぁ。確か、ざっと二週間くらいだった」

「そっか……もう少しだね」

「あぁ、せっかくだから、入院生活も無理のない範囲で楽しんでみるよ」

「あぁ、うん……そうだね……」

 蓮は廊下で待っている綴のことが少し気がかりになってきて、何度もドアをチラチラと見た。

「もうそろそろ、行くか?」

 隼は蓮のそんな行動を見逃さない。

「うん、そうだね……待ってると思うから」

「わかった。じゃあ、祭り、思いっきり楽しんでこいよ」

「うん。そうするよ。ありがとね」

「こっちこそ、みかんごちそうさま。旨かったぞ」

「良かった。それじゃあ、またね」

「あぁ、またな。ほどほどに頑張れよ」

 蓮は隼に右手を軽く振り、無機質なドアのノブに手を掛け、病室を後にした。

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