八
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やがて、蓮はゆったりとした夕食を終え、自室に戻り、着替えを準備した。
そのまま、蓮は脱衣所に続く薄暗い廊下をすたすたと進んでいく。
ふと、蓮は足を止めた。来たばかりの時は開いていたふすまが、閉まっていたからである。
ふすまと壁の隙間からは、黄色い光が漏れ出ている。その部屋に陽子かみのりがいることは、自明だ。
「あの、すみません……陽子さん」
いや、二人が同じ部屋にいることは自明だ。
蓮はそのまま凍り付いたかのように動かない。
「どうしたの? みのりさん」
「あの……泊まらせて下さり、本当にありがとうございます」
「いいのよ、そんなにかしこまらなくて」
「そうですか……あの」
「ん? 今度はどうしたの?」
「……陽子さんは……詮索しないんですね」
「しないわよ。そんなこと」
「そうですか?」
「うん。きっと、みのりさんにも、深い事情があるんでしょ?」
「あ……はい」
「うん。もし、私がみのりさんの立場だったらね……やっぱり、詮索されたくないわよ」
「はい。あ、あの、でも……」
「でも?」
「……私のせいで、あの……」
「うん?」
「……立花さんや陽子さんに、ご迷惑をおかけして……ぐずっ……」
「うん」
「……私……すごく、申し訳ない気持ちで……ぐずっ……いっぱいで……ぐずっ……」
「うん」
「……立花さんの前では……ぐずっ……泣かないようにしてましたけど……ぐずっ……」
「うん」
「……でも、本当は……ぐずっ……謝りたくて……ぐずっ……」
「……みのりさん」
「……ぐずっ……はい……?」
「迷惑をかけない人なんて、いないのよ」
「……えっ……?」
「誰でも、何かしら人に迷惑をかけて生きているから」
「……そう……ですか……?」
「うん。だから、そのことを申し訳なく思うことは、決して悪いことじゃないけどね……」
「……はい……」
「……あんまり気負い過ぎちゃうと、今度はみのりさんが辛くなっちゃうから」
「……あっ……そう、ですね……」
「うん。みのりさん、おいで」
「えっ、あの……いいんですか……?」
「もちろん。ほら」
「……はい……ありがとう……ございます」
ふすまの向こうで何が起こっているか、蓮にはわからない。
わからないが……何やら温かいやり取りが行われていることは、蓮にも容易に想像できた。
「陽子さんの身体……温かいです」
「うん。じゃあ、気持ちが晴れるまで、泣いて良いからね」
「……はい……う……うわああああん……」
蓮はふすま越しに、みのりの表情を想像するのだった。
小一時間ほどして、蓮は自室に布団を敷いて仰向けになっていた。
蓮は天井を見ながら、ぼんやりと考えていた。
みのりさんはみのりさんで、色々と抱え込んでいたんだ。
僕はそれにろくに気付かず、大丈夫だろうと思い込んで……。
蓮は横向きになった。そしてさらに考えにふける。
みのりさんのために出来ることって、何があるかな。
蓮は答えにたどり着けないまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
曖昧な意識のもとで、蓮は目を開けた。直後、視界を妙に眩しく感じる。
すでに太陽は昇っているようだった。
蓮が目覚まし時計を確認すると、午前九時三十分ちょっと前。
何だ……まだそんな時間か……しかし、蓮はすぐに思い直した。
蓮は飛び起きるように立ち上がった。
そして、手早く着替えを済ませ、居間に飛び込むようにして入っていった。
「おはようございます! 立花さん!」
みのりは怒るわけでもなく、ただニコニコとして蓮に言った。
「あぁ、おはよう。みのりさん」
蓮は我に返ったように、みのりを見つけて挨拶した。
「蓮。いくらなんでも遅いわよ」
陽子が細い目で蓮を睨んだ。
「あぁ、ごめん。昨日色々あってさ、爆睡してたんだ」
「そうなの。とりあえず、みのりさん、朝ご飯食べないで待っててくれたわよ」
「えっ……あっ……」
蓮がちゃぶ台の上に目を凝らすと、目玉焼きとキャベツの炒め物、それにパンがのった皿が確かに二つ置かれてあった。
「……ごめんね、みのりさん。待たせちゃったね」
「あ、いえ。私は大丈夫ですよー」
みのりは特に不機嫌そうな様子も感じさせず、のんびりとした口調で言った。
「そう? い、いただきます」
「いただきます!」
蓮は控えめに、対してみのりは元気よく挨拶をした。
蓮は冷めた目玉焼きやキャベツの炒め物を、手早く食べ進めていく。
「陽子さん。目玉焼き、美味しいです!」
みのりは半熟の目玉焼きを割いて口に入れてから、朗らかな笑みを浮かべて言った。
それがお世辞なのかどうかは、蓮にはわからなかった。
「あら、それは良かった。どうもありがとね」
陽子もみのりに微笑みを返す形で言った。
蓮はみのりの反応をしげしげと観察しつつ、ひょっとしたら本心なのかもしれないな、と思いながら箸を進めていった。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
少しして、蓮とみのりはほぼ同時に完食した。
「みのりさん。ご飯冷めちゃってなかった?」
「いえ、大丈夫でしたよ。美味しかったです!」
「そう。ならよかったわ」
本心なのかお世辞なのかは、蓮にもよくわからない。
「はい! あの……よろしければ、また今度食べに来たいです!」
「あら。じゃあ、また是非遊びに来てね」
「えっ……いいんですか?」
「もちろんいいわよ。歓迎するわよ」
「あ、ありがとうございます! 嬉しいです!」
「僕も、みのりさんなら歓迎するよ」
「蓮ー、変なこと考えてないでしょうねー?」
陽子はどこか詰め寄るような調子で蓮に向かって言った。
「考えてないよ!」
蓮は反射的に言った。
「変なこと。あの、すみません、それは……」
みのりは困惑したような表情になった。
「と、とりあえず、そろそろ行くね!」
蓮は二人の反応も見ずに、無理矢理話を中断させた。
「立花さん、あの!」
急いで準備を進める蓮に、みのりが声を掛ける。
「ん、何?」
「私も……ついて行って構いませんか?」
「そうだね……別にいいと思うけど……」
「……はい?」
みのりは蓮が何を言いたいかわからない様子だ。
「……みのりさんは、僕の父さんと面識がないよね?」
「……はい。ありません」
「それだと、病室に入れるかわからないよ?」
「……そうですか?」
「うん。悪いけど、待合室で一人待たなきゃいけないかも。それでも大丈夫?」
蓮は先日のみのりの体調悪化を懸念していた。
「それは、大丈夫です。私が責任を取ります」
みのりは蓮にはっきりと言った。
一体、どうやって責任を取るのか。蓮には不明だったが、とりあえずは何とかなるか、と判断した蓮は、続けて言った。
「わかった。じゃあ行こうか」
「はい。行きましょう!」
みのりの瞳は真っ直ぐに前を向いていた。みのりなりに決心をしているのかもしれない。「二人とも気をつけて行ってきてね」
陽子は一人サラダを食べ進めながら、二人を順に見て言った。
「うん。じゃあ、行ってきます」
「行ってきます」
蓮、みのりの順で陽子に挨拶し、二人はそそくさと蓮の実家を出た。
少しして、二人は太陽がさんさんと降りしきる農道を、すたすたと歩いていた。
道幅は三メートルほどと狭く、ガードレールもない。
「立花さん……暑いです……」
蓮の後ろを歩くみのりは、足をペタペタと地面にくっつけるようにして歩いている。
「暑いね。もう少ししたら、日陰があるから」
蓮はみのりの様子に気を遣いながらも、数キロ先に見える病院に向かって、堅実に歩を進めていく。
「わかりました。頑張ります」
みのりはそうは言うものの、今にも足が止まりそうなほどゆっくりとした足取りだ。
やっぱり、留守番してもらってたほうが良かったかな。蓮はふとそう思い始めていた。
ふと、蓮は数十メートル先の交差点に、親子二人の姿を確認した。親は年齢が四、五十代ほどの男性で、派手なアロハシャツを身にまとっている。子供は十代前半といった出で立ちで、ブルーのTシャツに短パン、それに麦わら帽子といった、涼しそうな格好をしている。
田舎とはいっても、人に会うことは充分考えられるよな。蓮は特に気にしないことにした。みのりも、特に気にも留めていない様子だった。
蓮とみのり、そして親子……お互いが歩を進めるうちに、やがて顔同士を確認できる距離まで近づいた。その時、子供が言った。
「あのお姉さんの目、化け物みたい」
それが誰を指すのかは、蓮は言われなくてもわかった。みのりである。
「ほんとだな。青い目なんて、気持ち悪いよな」
親が子供を叱ることもなく、同調したことが、蓮には信じられなかった。
ふと、みのりの足音が聞こえなくなることに、蓮は気付いた。
発言した親子は何食わぬ顔で離れていく。
「みのりさん?」
蓮は振り返り、みのりに声を掛けた。みのりは答えない。
「……化け物……」
みのりはうつむいていると同時に、かすかに震えているように蓮には見える。
「みのりさん? 聞こえる?」
蓮は改めて声を掛けるが、みのりはそれに気付いていない様子だ。
「……化け物……化け物……」
「みのりさん! みのりさん!」
蓮は声を張り上げ、みのりの肩に手を掛けた。みのりは手を振り払うわけでもなく、かといって、声に反応することもなく、ただ……独り言を呟き続ける。
「……化け物……化け物……化け物……」
「みのりさん! 僕だよ! 立花蓮だよ!」
「……化け物……化け物……あっ……!」
ふと、みのりが顔を上げた。しかし、その瞳には、先ほどまでの輝きや光は一切ない。
それは死人のような瞳だった。
「どうしたの? みのりさん」
「……あっ……ああっ……あああああっ……」
みのりは悶えるような声を上げ、頭を抱えてその場に座り込んだ。
これはまずい……蓮の脳内でそんな言葉が浮かんできた。
「みのりさん! みのりさん!」
蓮はみのりの身体を揺するようにするが、みのりは蓮の言葉を無視している。
「……ああああああああああっ!」
直後、みのりが激しく絶叫した。全身から大量の汗が火山噴火のように噴き出している。
「みのりさん! 落ち着いて!」
蓮は言葉を選んでいる暇も無く、倒れかけたみのりの身体を支える。
「……た……立花……さん……」
ようやく、みのりは蓮を認識した。ただし、その声は余りにも苦痛に満ちていた。
「みのりさん。ここだと危ないから。動ける?」
蓮の言葉に対し、みのりは首をぶんぶん横に振った。
蓮は車が来ていないことを確認すると、みのりを渾身の力で抱きかかえた。
「……えっ……あの……立花……さん……」
「いいから」
蓮はみのりをお姫様だっこしたまま、炎天下の農道を早足で歩いていった。
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