七


 白い壁に沿うように、蓮の背丈ほどの本棚が三つほど並んでいる。

 本棚の中には、あらゆるジャンルの書物が詰め込まれている。

 蓮は隼の書斎の光景に口をポカーンと開けながらも、部屋の片隅に倒れていたスティックタイプの掃除機を見つけた。

 そのまま、蓮は掃除機を取ろうとして、ふと動きを止めた。

 床に一冊のノートが、まるで蓮を誘惑するかのように落ちている。タイトルは埃がかぶっていて、そのままでは判別できない。

「……何だろ」

 蓮は独り言を漏らすと、埃にまみれたノートを手に取り、それをパタパタと軽くはたいてみる。すると、判別不能だったタイトルが、やがてはっきりと現れた。

「……一九七五年から一九七九年、下半期……?」

 どうやら、それは日記か何かのようだった。

 蓮は扉がしっかり閉まっていることを念のため確認すると、恐る恐る表紙をめくってみる。

 中のページは日付順に、異なる年数が五年分書ける日記になっている。

 そして、一番上のスペースには、こう書かれていた。

 

『一九七五年七月一日 晴』

『今日は期末テスト二日目だった』

『帰り道、美野里神社に立ち寄ってお参りをしてきた』

『父さんの病気の快復祈願のためだ』

『それから、そのまま神社を出ようとした時、裏手から声が聞こえてきた』

『気になって裏手に来てみると、女の子がみかんの木を見ていた』

『俺はその子に声をかけてみた』

『すると、その子は『みかんを取っていただけませんか?』と俺に頼んできた』

『俺はみかんを三つ取ってあげた』

『その子はみかんをもらって喜んでいた』

『それから、俺はその子に自己紹介した』

『名前は綴さんで、十五歳』

『綴さんは私服姿で、結構緊張している様子だった』

『だから、俺は当たり障りのない雑談を少しだけして帰った』

『綴さんのことが何となく気になる』


「綴……さん……?」

 蓮は誰にも聞こえないように独り言を言った。

 蓮にはその名前に見覚えがあった。今朝、美野里神社近くの並木道で拾った、みかんのバッジ……それから、資料館で見た神様の名前……。

 いや、さすがに無関係だろう。蓮はわずかな可能性を頭の中から追い出そうとする。

 そうして、蓮は日記の続きを読んでいくことにした。


『一九七五年七月二日 晴』

『今日は授業が早く終わった』

『帰り道、何となく美野里神社を訪れてみた』

『すると、偶然だと思うけど綴さんがいた』

『綴さんは、昨日よりは少し落ち着いてた様子だった』

『綴さんは今日も私服だった』

『だから、俺はその理由を聞いてみた』

『でも、綴さんは理由を教えてくれなかった』

『『立花さんに迷惑を掛けたくないから』と言っていた』

『よくわからないけど、俺は綴さんとまた会う約束をした』

『綴さんは毎日神社に来てるみたいだ』


『一九七五年七月三日 晴』

『約束通り、今日も綴さんはいた』

『綴さんに近くの農家でもらったみかんをあげた』

『綴さんは、美味しそうにそれを食べていた』

『その最中『みかんって、傷物が甘いんです』と言っていた』

『俺はそれを知らなかったから、素直に驚いた』

『学校のことを話したりもした』

『綴さんはそれを楽しそうに聞いてくれた』

『でも、時々寂しそうな顔をしていたのは、どうしてだろう』


『一九七五年七月四日 雨』

『今日は朝から雨が降っていた』

『さすがに、雨の日は家でおとなしくしていよう』

『晴れたらまた、綴さんに会いに行ってみよう』


 蓮は隼の日記を夢中になって読みふける。

 それはまるで、隼の記憶を追体験するかのようだった。


『一九七五年七月五日 晴』

『今日は先に神社に着いた』

『後から綴さんがやってきた』

『綴さんは今日も私服だった』

『綴さんから、みかんのお菓子をもらった』

『一昨日のお礼ということだった』

『それから話をして、綴さんが二つほど年上で、竹本商店で働いてることがわかった』

『年上だと知って正直驚いた』

『今度、竹本商店に行ってみようかな』


『一九七五年七月六日 曇』

『今日は竹本商店に行ってきた』

『すると、綴さんが働いているのが見えた』

『綴さんが言っていたことは本当だった』

『声を掛けるのも邪魔になりそうだから、そのまま店を出た』

『綴さんは気付いていなかったような気がした』


『一九七五年七月七日 晴』

『七夕の今日、俺は神社を訪れた』

『今日は綴さんが先に待っていた』

『来て早々、竹本商店に来ていたことを聞かれた』

『綴さんはちゃんと気付いてくれていた』

『俺はちょっとだけ恥ずかしくなった』

『それから、綴さんと雑談を少しした』


『一九七五年七月八日 雨』

『今日は雨だった』

『なので、家でおとなしくしていた』

『そういえば、綴さんの家の電話番号、まだ知らないな』


『一九七五年七月九日 雨』

『今日も雨だった』

『明日は晴れそうだから、綴さんの電話番号を聞いてみようかな』

『多分、聞いて嫌がられたりはしないと思う』


『一九七五年七月十日 晴』

『天気予報が当たって、無事に晴れた』

『美野里神社に行くと、綴さんが居た』

『俺は思い切って自宅の電話番号を聞いてみた』

『ところが、ごめんなさいと言われた』

『しつこいのもまずいから、俺はそのままその話を終わらせた』

『タイミングが早過ぎたかもしれないな』


 父さんって、案外積極的だったんだなぁ。

 蓮は内心そう思いながら、次のページに進んでいく。


『一九七五年七月十一日 晴』

『今日も美野里神社を訪れた』

『綴さんは待ってくれていたけど、少し様子が変だった』

『俺は昨日の件で謝った』

『綴さんは『謝らなくても大丈夫ですよ』と言っていた』

『とりあえず、綴さんの様子は元に戻ったようで良かった』


『一九七五年七月十二日 曇』

『今日はどんよりとしていた』

『綴さんは美野里神社で待ってくれていた』

『どうやら、仕事が休みだったらしい』

『俺は綴さんに『綴祭り』に出るか聞いてみた』

『綴さんは『仕事が忙しいから、出る予定は今のところはないです』と言った』

『綴さんが、なんだか少し遠い存在に感じられた』


『一九七五年七月十三日 雨』

『今日は一日中雨だった』

『雨の中、竹本商店に行こうとしたけど、やめた』

『綴さんに心配をかけさせたくなかったから』


『一九七五年七月十四日 雨』

『今日も丸一日雨が降っていた』

『梅雨時とはいえ、雨の日は少しばかり憂鬱だ』


『一九七五年七月十五日 雨』

『三日連続の雨だった』

『明日は晴れるらしいけど、どうしようか』

『綴さんが待っててくれるだろうか、少し不安だ』


 蓮は一旦読むのをやめ、少しの間ぼうっとした。

 脳内に入ってきた隼の体験を整理していく。

 少し落ち着いてきたところで、蓮は読むことを再開した。


『一九七五年七月十六日 晴』

『七月も半分過ぎてしまった』

『久々の晴れ間だったから、美野里神社を訪れた』

『綴さんは……いなかった』

『多分、竹本商店にいるんだろうと思い、行ってみた』

『でも、竹本商店にもいなかった』

『商店のおばさんは『風邪を引いたみたいだよ』と言っていた』

『それなら、来なくても不自然じゃない』

『また今度、神社や店を訪れてみようかな』


『一九七五年七月十七日 雨』

『晴れ間は昨日だけだった』

『今日は朝から強い雨が降っていた』

『綴さんは体調はどうなんだろう』

『元気になったのかな』

『そうだといいな』


『一九七五年七月十八日 雨』

『今日も強い雨が降っていた』

『明日は終業式だ』

『そして、明後日からは夏休みだ』

『それから……『綴祭り』はあと十日ほどだ』


『一九七五年七月十九日 晴』

『今日は終業式だったから、早めに美野里神社に来た』

『すると、綴さんは待っていた』

『いつものように会話をしてから、ふと、俺は閃いた』

『神社の奥の森に綺麗な川があるから、そこに行ってみないか、と』

『綴さんは少し考えるようにしてから、了承してくれた』

『それから、俺と綴さんは川で遊んだ』

『綴さんは川に手足を浸して、気持ちよさそうにしていた』

『また、遊んでみたいな』


『一九七五年七月二十日 晴』

『夏休みが始まった』

『今日は竹本商店を訪れてみた』

『綴さんは働いていた』

『特別忙しそうじゃなかったから、声をかけてみた』

『すると、笑顔でこっちを見てくれた』

『綴さんの笑顔はなんだか可愛いと思った』


『一九七五年七月二一日 晴』 

『今日は美野里神社に向かった』

『綴さんは待っていてくれた』

『そのまま、奥の川に移動し、綴さんと水を掛け合って遊んだ』

『何だか……小さいころに戻ったような気分だった』

『綴さんも楽しそうにしてたから、良かった』

『こんな楽しい日々が、続けば良いのに』


『一九七五年七月二二日 雨』

『今日は雨が降っていた』

『そういえば、綴さんに電話番号聞くの、もう一度チャレンジしてみようかな』

『明日は晴れるみたいだし』


『一九七五年七月二三日 晴』

『今日はしっかりと晴れた』

『だから、美野里神社に行って綴さんに会ってきた』

『綴さんに電話番号を聞いたら、また断られた』

『なんか色々事情があるみたいだから、これ以上は聞かないことにしよう』

『綴さんに悪いことしちゃったな』


『一九七五年七月二四日 晴』

『夏休みももうすぐ一週間経ちそうだ』

『今日も綴さんに会ったけど、なんだかぎこちなかった』

『昨日の件を引きずっているんだろうな』

『だから、今日は簡単に会話して帰ってきた』

『そういえば、一週間後は『綴祭り』だ』

『どうすればいいんだろう、俺は』


 蓮はもはや夢中になって、隼の日記を読み耽っていた。


『一九七五年七月二五日 晴』

『今日は竹本商店に行ってきた』

『綴さんはいつものように働いていた』

『それもあって、話しかけられなかった』

『綴さん、ひょっとして俺のこと嫌いになってたりしないだろうか?』

『正直、少し不安が残る』


『一九七五年七月二六日 晴』

『今日は美野里神社で綴さんと会った』

『綴さんはいつものように話してくれたから、多分大丈夫だろう』

『俺は『綴祭り』に綴さんを誘った』

『綴さんは、正直複雑そうな顔をしていた』

『やっぱり、まずかったかな』

『明日、しっかりと今までのことも含めて謝ろうかな』


『一九七五年七月二七日 晴』

『今日も美野里神社で綴さんに会った』

『すると、綴さんは『綴祭り』に行くことにしたと言った』

『俺は正直、ホッとした』

『それから、具体的な待ち合わせ場所と時間を決めた』

『『綴祭り』の日が楽しみだ』


『一九七五年七月二八日 雨』

『今日は数日ぶりの雨だった』

『朝から胸が少し痛かった』

『だから、家でおとなしくしていた』


『一九七五年七月二九日 晴』

『今日は晴れていたけど、体調が少し悪くて、家にいた』

『綴さんと『綴祭り』を回るのは、明後日だ』

『それまでに、体調をしっかりと整えておきたい』


『一九七五年七月三十日 晴』

『明日はいよいよ『綴祭り』だ』

『体調は大分落ち着いたけど、明日のことを考えて、今日はおとなしくしていることにした』

『もし、明日休んでしまったら、綴さんをがっかりさせてしまうだろうから』

『今日は早めに寝よう』


 蓮は右側のページを読み終えて、ふーっと息を吐いた。

 この次の日に、父さんは綴さんと『綴祭り』を回れたのだろうか?

 蓮の疑問は大きくなっていった。

 少しして、蓮はページを勢いよくめくった。


『一九七五年七月三一日』


 しかし、そのページは日付だけを残して白紙だった。


『一九七五年八月一日』


 翌日以降も、しばらく白紙が続いた。

 蓮は意外に思いながらも、ページをめくっていく。

 やがて、中断されていた日記は、突然再開された。


『一九七五年八月十五日 晴』

『ようやく、退院できた』

『先生は『この病気は遺伝性で、完治しない』らしい』

『理不尽だけど、それに負けずに生きていくしかないんだ』

『約束を破ってしまったことは申し訳ないし、本当に謝りたい』

『今日、美野里神社に行っても、綴さんはいなかった』

『怒ったのかは、わからないけど』

『青い瞳が綺麗で、笑顔が可愛かったな』


 蓮はさらにページをめくったが、その後の日記に『綴』の名前は一切出てこなかった。

 父さんは、『綴』さんのことを忘れたかったのだろうか……蓮の脳内に推測が浮かぶ。

 ふと、扉をノックする音が蓮の耳に入ってきた。

「蓮、なんで閉めてるの? 夕飯出来たわよ」

 陽子が少々怪訝そうな声を出している。

「あっ、ちょっとね……わかった。すぐ行くよ」

 掃除してないけど、まぁいっか。

 蓮は自分にそう言い聞かせて、埃にまみれた隼の書斎を後にした。


 居間にやってきた蓮は、ちゃぶ台の上にカレーとサラダが並べられているのを確認した。

 カレーということは、つまり……。蓮は一種の不安感を持った。

 陽子は辛い味付けが好きだった。なので、このカレーも辛いんじゃないか……すると、みのりさんは無事食べられるだろうか。そんな不安感だった。

「わぁ、美味しそうですね。いただきます!」

 みのりはそんな蓮の不安など知るよしもなく、カレーをスプーンで口に入れる。

「いただきます。ほら、蓮も座りなさいよ」

 陽子はそんなみのりの姿を微笑んで見てから、蓮のほうを向き直って言った。

「あっ……うん……いただきます」

 かくして、三人での夕食が幕を開けた。

「カレー、美味しいです……?」

 みのりはカレーの感想を述べた直後、みるみるうちに顔を紅潮させていく。

「……美味しいですけど……舌がヒリヒリします……」

「あぁ、ごめんね。辛口しかなかったのよ」

 陽子はみのりに対してそう言いながらも、自身は平気な顔をして食べている。

「かっ、辛口ですか。うぅ……か、か、辛い!」

 みのりは舌が回らないほどの辛さにこたえているようだ。

「みのりさん、水」

 蓮は特に頼まれたわけでもないが、みのりに水を差し出した。

「あ、あ、ありがとうございます。た、立花さん」

 みのりは差し出された水を一気に飲み干す。

「はぁ、はぁ……少し、収まってきました……」

「家は基本的に辛口なの。本当にごめんね」

 そういう陽子だが、本人は至って涼しそうな顔をしている。

「あ、いえ、大丈夫です。美味しいです」

 みのりは動揺が隠しきれない様子で言った。

「サラダもあるから、良かったら食べてね」

 陽子は辛さをみじんも感じさせない表情をしてカレーを食べながら言った。

「はい、ありがとうございます」

 みのりは軽く頭を下げてから、皿山盛りのサラダに箸を伸ばす。

「そう言えば、あの……」

 レタスを口に運ぶ前に、みのりは陽子を向いて言った。

「どうしたの?」

「あの、陽子さんの旦那さんの、お名前が気になって」

 みのりは聞いちゃまずかったかな、とでも言いたそうな、不安そうな顔をしている。

「あー、そういえば言ってなかったね。隼っていうの。立花隼」

 陽子は特に気を悪くした様子もなく、みのりを見て言った。

「立花隼さん……ですか……立花……隼さん……」

「どうかしたの?」

 蓮が箸を置いてみのりに尋ねる。

「……あ、いえ……何でもないです」

「……そう。そういえば、みのりさんのご両親さんのお名前は?」

「えっ、それは……あの……」

 案の定、みのりは黙り込んでしまった。

「……父親が太郎さんで、母親が花子さんだって言ってたよ」

 蓮が助け船を出す形になる。

「……そ、そうです!」

 みのりも蓮の言ったことを特に否定せず、同調する。

「へぇ、太郎さんに花子さんねぇ……」

 陽子はみのりの話を疑う様子が全くない。

 蓮は思った。将来特殊詐欺とかに遭わないだろうか……。

「何か、みのりさんのご両親さん、いい人そうね」

 陽子はカレーを完食し、サラダに箸を伸ばしながら言った。

「あっ、はい……いい人だと……思います」

 みのりは嘘を膨らませるのに必死のようだった。

「何があったのかはわからないけど、今日はゆっくりしてっていいからね」

 陽子はみのりを見て、いかにも親らしい微笑みを浮かべて言った。

「は、はい。お、お言葉に甘えさせていただきます」

 みのりはペコリと軽く頭を下げて言った。

「はい。そういえば蓮、食べ終わったら、お風呂入れるから」

「あぁ……みのりさん、先入ってもいいよ」

 蓮は陽子のほうをちらりと見てから、複雑そうな表情で言った。

「私は……大丈夫です。後で」

「そう? みのりさん、遠慮しなくていいのよ」

「あの……少し、休みたいんです」

「そう。じゃ、蓮、さっさと入っちゃいなさいよ」

「ん、わかったよ」

 蓮は短く頷いて、残りのサラダを食べ始めた。

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