六


 少しして、三人は館内の壁際に貼られた説明書きの前にやってくる。

「これは……『綴祭り』の流れ……ですか?」

 みのりは説明書きをちらりと見てから、しおりに尋ねる。

「そうだね。七月一日に『綴招き』っていう『綴神』様を迎える儀式をして」

「へぇ、そういう儀式をするんだね」

「うん。それで七月三十一日の夜中に『綴送り』っていう『綴神』様を見送る儀式をするんだって」

「つまり、儀式を二回行うんですね」

「そうそう。『綴招き』から『綴送り』までの期間は『綴神』様の力が強くなるんだってね」

 しおりが書かれていないことを補足で説明する。

「力が強くなると……どうなるんでしょうか?」

 みのりは素朴な疑問をしおりにぶつけてみる。

「確かね、その期間中はこの地域に平穏が訪れるって聞いたことがあるね」

 しおりは流暢に回答してみせた。

「へぇ……いかにも守り神って感じだね」

 蓮はしおりの回答に納得した様子だった。

「うん。そういえば、最近荒れた天気が少なかったかもね」

「へぇ……じゃあ『綴神』様のおかげかもしれませんね」

 みのりは外を見るような眼差しで言った。

「うん、そうかもしれないね」

 蓮もそれに特に異論はなかった。

 説明書きの横側には、何やら年季の入った書物がガラスケースに収まったまま安置されている。

 蓮はそのケースにゆっくりと近づいてみる。ケースの札には『これは『綴書き』という、『綴神』を収める本の複製です』と書かれている。

「『綴神』様は、本に収まって美野里町を見守っているんだね」

 蓮はとりあえずそのように解釈した。

「言葉と文字の神様って言うしね」

 しおりが蓮の横から『綴書き』を覗き込んで言った。

 みのりが何も置かれていない左側を見て、目を丸くする。

「あの、安藤さん……この先、何もないですけど、これで終わりですか?」

「うん。終わりだよ」

 しおりは特に躊躇わずにそう言った。

「正直、もうちょっと見る物あるのかなって思ってたよ」

「そこんとこはちょっと勘弁して……ハハハ」

 しおりは乾いた笑い声を出して蓮に言った。

「安藤さん。私は楽しかったです! 何だか、勉強になりました!」

 みのりはしおりをフォローするためなのかはわからないが、元気そうな声を出して言った。

「楽しかったんなら良かったよ。立花君は不満かね?」

 しおりは少々ニヤリとして蓮に聞く。

「いや、別にそんなことないよ。僕も楽しかったよ」

 蓮は無難に言った。

「なら、特に問題なしだね! 次はどこに行こうか?」

「あの、安藤さん、今何時ですか?」

「今ね……ちょっと待っててね。みのりさん」

 しおりはいかにも女子高生らしいピンクの携帯を取り出し、時刻を確認する。

「午後二時ちょっと過ぎ、ってとこだね」

「ってことは、まだ少し時間はありそうだね」

 蓮は目的を忘れていない。一方のしおりは、何だか忘れていそうな雰囲気である。

「とりあえず、もうちょっと涼んでいく? 外暑いだろうし」

「そうですね! そうしましょう!」

 みのりはハキハキとした声で、特に異議はなさそうに言った。

「うん。そうしようか」

 蓮もしおりの考えに特に不満は持たなかった。

 三人は資料館のロビーに備え付けられたソファに腰掛けた。真ん中にみのりが座る。

「そういえばさ、みのりさん」

 しおりがみのりの脇腹あたりをチラリと見ながら言った。

「はい。何でしょうか、安藤さん」

「みのりさんの持ってる青いバッグの中には、何か入ってるの?」

「はい。あの……みかんの形のお守り、空っぽのお財布、白いタオルが数枚、白紙のメモ帳、それにボールペンが……」

「あんまり入ってないんだねー」

 しおりは意外とでも言いたそうな表情で言った。

「はい。おまけに、何のために持っていたのかわからない物ばかりで……」

 みのりは少々顔を俯かせて言った。

「メモ帳とか、何か書かれてるならともかくね。白紙じゃ手がかりになりそうもないね……」

 蓮は言った。

「そうだね……みのりさんは、元々バッグ持ってたの?」

「はい。目を覚ました一ヶ月前から、ずっと持ってます」

「ってことは、みのりさんの私物なのかな?」

「いえ、それはわかりません。近くで拾ったんです」

 しおりは思わず目を丸くした。

「そうなの? じゃあみのりさんのじゃない可能性も充分あるね」

「もしかしたら、持ってきてはいけなかったかもしれませんね……」

 みのりはいかにも不安そうな表情になって言った。

「まぁ、過去のことは気にしないようにしよう!」

 しおりはみのりを勇気付けたいのか、そう言った。

「……は、はい。そうします……」

 みのりはそうは言ったものの、どこか浮かない顔のままだ。

「みかんの形のお守りって、どんなの?」

 しおりは興味深そうにみのりの顔を覗き込む。

「はい。あの……これです」

 みのりは白い手で青いバッグのジッパーを開け、お守りを取り出す。

 軽い金属で出来たそれは、蛍光灯の光を反射してキラキラ輝いている。

「へぇ……似たようなのを見たことあるかも!」

 しおりはお守りをみのりから受け取り、しげしげと見つめた末に言った。

「それはどこで?」

 蓮は関心を持った様子でしおりに聞く。

「駅前の商店街のお店とかで。店先に置いてあったりしたかも」

 しおりはうんうん、と一人頷きながら答える。

「そうですか。これもそこで買った物かもしれませんね」

 みのりはお守りをチラリと見てから言った。

「そうかもね。そういえば、これ『綴』って書いてあるね」

 しおりはお守りを銀の金属部で覆われた裏側に裏返し、注意深く見つめて言った。

「はい。確かにそう書いてありますね……」

「みのりさんは、それが誰の名前なのかわからないって」

 蓮がみのりの気持ちを代弁するかのように言った。

「そうなんだね……まぁ、多分名前だろうね」

 しおりはじっと考えるような様子を見せて言った。

「この名前の相手が誰だか分かれば、また一歩前進するかもね」

「はい。そうですね……私、誰だか気になります」

「じゃあ、頑張って探してみよっか!」

 しおりはそう言ってニコリとし、お守りをみのりに返した。

「はい! わかりました! 頑張ります!」

 みのりさんって、本当に素直なんだなぁ……。蓮は内心そう思った。

「よし、じゃあ……ちょっと涼んだから、もう行く?」

 しおりは、みのりのことをじっと見て言った。

「そうですね。あの……立花さんはどうですか?」

「そうだね。僕ももう大丈夫だよ。みのりさん」

「よし。そんじゃ、決まりだね! 行こう!」

 しおりは一人ソファからがばっと立ち上がる。

「あの……行くとしてもどちらへ、ですか?」

 みのりがしおりの腕を取って言った。

「あー、そういえばそうだったね……うーん……」

 しおりは一分弱悩んでから、ピンと閃いたように言った。

「……とりあえず、あたしの家に行ってみる?」

「行ってどうするわけ?」

 蓮は反射的にしおりに尋ねた。

「さっき言ったじゃん。泊まれるって」

「あー、そういうことね。要するに、交渉ってこと?」

「そうそう、そういうこと! みのりさんは、どうかな?」

 しおりは一旦ソファに座り直し、みのりの回答をひたすら待つ。

「いいですよ! 行きましょう!」

 みのりは特に迷いはないようだった。

「じゃあ、決まりだね。早速行こうか!」

 しおりは勢いよく立ち上がり、スタコラ歩き始めた。

 蓮とみのりはその勢いに遅れないよう、慌ててついていく。

「安藤さん、家までどのくらいかかりそうですか?」

「ざっと十五分くらいだよ。そんなもん」

 しおりは振り返って、みのりにニッコリとして答えたのだった。


 三人が十五分ほど歩いたところで、しおりの言った通り、大地主を思わせるかのような立派な塀と門を兼ね備えた屋敷が見えてきた。

「あそこがあたしの家だよー」

 何て言うか……想像以上だなぁ。蓮は内心そう思った。

「……すごい家だね」

 蓮にはシンプルな感想しか浮かんでこない。

「そうですね。大きな家ですね……」

 みのりは感想を言った直後、突然絶句した。

 すぐに、みのりは頭を抱えて苦痛に塗れたような表情になった。

「……うっ……」

 みのりはそのまま、うずくまってしまう。

「みのりさん? どうしたの?」

 予想外のことに、しおりも動揺している様子だった。

 みのりは何も言わない。いや、言えないと言った方が正しいかもしれない。

「……すみません……急に、き、気分が……」

 ようやく出たみのりの言葉は、痛々しいほどに途切れ途切れになっている。

「ちょっと休もう?」

「は、はい、お、お気遣い……あ、ありがとうございます。あ、安藤さん……」

 みのりは一言一言発するのも苦しそうな様子だった。

「みのりさん、あそこにベンチがあるよ」

 蓮は前方五十メートルほどの場所にバス停とベンチを発見する。

「ありがとう、ご、ございます……立花……さん……」

 そうして、三人は三人掛けのベンチに腰を下ろした。真ん中にみのりが座った。

 頭上からは、灼熱の光が容赦なく降り注いでいる。座っているだけでも、体力を奪われていきそうなほどに強い。

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

 相変わらず、みのりは苦しそうな息をしていたが、先ほどよりは少し落ち着いてきたように蓮には思える。

「落ち着いたら、何が起こったか少し話せるかな?」

「……はぁ……はい。大丈夫です……わかりました……」

 やがて、みのりの呼吸は少し落ち着いてきたようだった。

「安藤さん、言いづらいんですけど……安藤さんのお家には泊まれません」

「そうなの? それはどうしてかな?」

 しおりとしても理由は気になるようだった。

「はい……何だか、建物に近付けば近付くほど、胸が苦しくなってくるんです」

 みのりは胸に手を当てながら話す。

「そっか。それならしょうがないね。わかったよ」

「すみません……せっかく案内して下さったのに……」

 みのりは本当に申し訳なさそうな表情をしている。

「ううん、気にしなくていいよ。大丈夫」

 しおりはみのりの両肩に手を当てる。

「……すみません……本当に……」

 みのりはしおりに何度も頭を下げている。

 蓮にはそんなみのりがとても哀れに思えた。

「じゃあ……みのりさんの泊まる場所については、白紙ってことだよね」

 蓮は念の為の確認か、しおりに向かって尋ねる。

「うーん……いや……あのさ……立花君の家って……大丈夫?」

 しおりは妙に言いづらそうだ。

「えっ……それは……うーん……許可取らないとね」

 母親の性格なら、もしかしたら何とかなるかもしれないけど、でも……。

 蓮の中で思考が渦を巻く。

「じゃあ、とりあえず聞いてみてくれない?」

「わかった。ちょっとだけ待ってて」

「うん、いいよ」

「はい……すみません立花さんまで……」

 蓮は携帯を開く。既に休憩時間が終わっているかもしれないと内心思いながら。

「……もしもし?」

「もしもし、蓮? どうしたの?」

 陽子の驚いたような声が受話口から聞こえる。

「あ、えっとね……ちょっと頼みがあってね」

「頼み……とりあえず言ってみて」

 蓮は陽子に聞こえない程度の大きさで深呼吸をしてから、続きを話す。

「……今晩だけ、みのりさんを家に泊めてあげられないかな?」

「えっ……みのりさんのご家族の方は何て言ってるの?」

「……好きな所に泊まってきなさい、だって」

 苦しいけど、ここは嘘をつくしかないな。蓮は心の中でそう思った。

「そう……うーん……」

 受話口から、陽子の難色を示すような声が聞こえてくる。

 やっぱり、いくら母親でも厳しかったかな……蓮がそう思いかけた時だった。

「……一晩だけならいいわよ」

「えっ……本当に?」

 蓮は驚きのあまり、少々大きめに声を張り上げた。

「嘘なわけないでしょ。そうそう、くれぐれも変な真似はするんじゃないわよ」

「しないよ。そんなこと」

 蓮は陽子に見えないと知りながら、首を横に振る仕草をした。

「……ありがとね」

「いいわよ。みのりさんもいい子そうだし」

「そうだね」

 みのりが、どこまでも素直で純粋で真っ直ぐに見えていた蓮は、ただそう述べた。

「じゃあ、夕方ごろ帰るからね。それまでは悪いけど、どこかで時間潰してて」

「あぁ、うん、わかった」

「そうそう、熱中症には気をつけなさいよ。それじゃあね」

「うん……じゃあね」

 通話は陽子から切られ、それから蓮は携帯を懐にしまいこんだ。

「立花さん、あの……どうでしたか?」

 みのりが心配そうに蓮に聞いてくる。

「うん。いいってさ」

「えっ、それは本当ですか?」

「うん」

 蓮は短く返事をした。

「そっか! 良かったね、みのりさん」

 みのりより先に、しおりが嬉しそうな声を上げた。

「はい、良かったです! 立花さん、ありがとうございます!」

「僕も良かったよ。夕方ごろ案内するね」

「わかりました! 本当に、ありがとうございます!」

 みのりは蓮に何度も頭を下げた。

「そうそう! もしも、みのりさんに変なことしたら、あたしが許さないからね?」

 しおりが蓮を半ばにらみつけるように見る。

「しないよ、そんなことは」

 蓮はしおりに向かってはっきりと言った。

「それなら良し! そんじゃあ、あたしはここで失礼するね。じゃあね」

 そう言うと、しおりは靴紐が解けていないか確認のためにチラリと足元を見た。

「えっ、あの……安藤さん、何か用事があるの?」

「明日の『綴祭り』の準備を手伝えって、親がうるさくてねぇ……」

「そうなんだ。わかった。今日は色々とありがとね」

「うん、こっちこそありがとね! 色々楽しかったよ!」

「私もです! 色々とありがとうございました!」

「それじゃあ、またねー」

 しおりは駆け出し、一旦後ろを振り返って二人に手を振り、そのまま姿を消した。

「じゃあ、僕たちも行こうか」

「はい、行きましょう! 立花さんのお家、楽しみです!」

「ハハハ、そっか。まぁ楽しみにしてて」

 蓮とみのりは軽く笑い合いながら、その場を後にした。


 その後、蓮とみのりは涼しい場所を見つけては休み、見つけては休みを繰返し、時間をつぶした。

 やがて、陽が少しずつ傾き始めたころ、二人はひたすら歩き、蓮の実家に到着した。

 赤い屋根以外に特に大きな特徴もない、ごく普通の一軒家だ。

「ここが僕の実家だよ」

 蓮は家の外観に顔を向けるようにして言った。

「へぇ……お家も、お庭も広いですね」

 みのりは外観をまるで舐め回すかのように見ている。

「確かに広く見えるかもね。でも、この辺りだと、これでも狭いほうなんだよ」

 しおりの家を見てすぐだからか、蓮は謙遜したように言った。

「へぇ……そうなんですね……」

 みのりは辺り一面をキョロキョロと見回している。

「家に入る前に、ちょっと裏庭に行ってもいいかな?」

 蓮は靴紐が解けていないか確認しながら言った。

「裏庭ですか? それは、どうしてですか?」

 みのりは理由を尋ねる。当然と言えば当然だろう。

「そこに、シロのお墓があるんだ」

 蓮は服に着いたホコリを軽く払いながら言った。

「そうでしたか。わかりました」

 そうして、二人は蓮を先頭に裏庭にやって来た。

 裏庭には特にプランターなどは置かれておらず、伸び放題の雑草に半分隠れるようにシロの木の墓標が立っている。

 墓標は雨などで腐り始めており、所々木が剥がれてきている。

 まぁ、あのころから五年は経ってるからな。蓮は心の中でそう思った。

 蓮は黒文字でシロと書かれた墓標の正面に立ち、手を合わせ目を閉じる。

 それに習うように、隣ではみのりも目を閉じて合掌する。

「あの……私も、お祈りさせていただきました」

 合掌を終えた蓮に対し、みのりは言った。

「そっか。わざわざありがとね」

「いえ。立花さんは、シロさんが大好きだったんですね」

「うん。家族と同じだけ大切な存在だったからね」

「そうですか。きっと、シロさんの一生は、キラキラと輝いていたと思います」

「うん。出来る限りのことはしたつもりだけど……そうだといいな」

 蓮は夕空を見上げるようにして言った。

「それなら、きっとシロさんは幸せだったと思いますよ?」

「そうだね。そうだといいな」

 それから、蓮はみのりに少しだけシロとの思い出を語ってから、再び玄関に戻ってきた。

「じゃあ……入ろうか」

「は……はい」

 みのりは少し身体を硬直させた様子だった。

 蓮はチャイムのボタンを軽く一押しする。

「はい、どちら様でしょうか?」

 蓮の耳に電話越しに聞く声とはまた少し違う陽子の声が入ってくる。

「蓮だよ。みのりさんも一緒」

「あぁ、わかったわ。今開けるね」

 ドタバタとした足音が奥から聞こえてすぐに、施錠された引き戸の鍵が開けられ、戸がガラガラと開く。

「お帰り。色々とお疲れ様」

「ただいま。ありがとう。大丈夫だよ」

「あの……お邪魔します!」

 みのりは蓮に続いて堅い足取りで立花家に入る。

「いらっしゃい、みのりさん。靴脱いで上がってね」

「あ、はい。わかりました」

「緊張しなくても大丈夫よ。リラックスして」

 みのりは言われたとおり靴を脱いで裸足になり、蓮と共に廊下を突っ切り居間へと移動する。

 畳敷きの居間には、現代ではちょっと珍しいかもしれない、円形のちゃぶ台が一卓置かれている。ちゃぶ台の真ん中には、何やらオレンジ色の物体が収まったカゴが佇んでいる。

 その物体は、明らかにみかんだ。小ぶりなサイズだが、少なくとも十個は入っている。

 蓮が視線を横に凝らすと、ちゃぶ台の柱にくっつく形でゴミ箱が寄せられている。その中には、大量のみかんの皮が収まっている。

 さらには、居間の片隅には未開封だろう、みかんの箱が三箱も積み上げられている。

 陽子が買ったのかはわからないが、とにかく大量のみかんが存在していることは事実だった。

「……みかんすごい買ったんだね」

「美味しそうだったから、ついね」

「はぁ……そうなんだね」

 いくら美味しそうでも、この量は極端じゃないか。蓮は内心そう言った。

「とりあえず、みかん食べるよ」

「どうぞー。好きなだけ食べて。みのりさんもねー」

 台所から、陽子ののんびりとした声が聞こえてくる。

「ありがとうございます。ありがたくいただきます」

 まず、みのりが一番サイズが小さそうなみかんを、すべすべした白い手で取った。そのまま、皮を剥き欠片をかじるようにして食べる。

「……とっても甘くて美味しいです!」

 みのりは南国に来たかのようなリラックスした表情で言った。

「へぇ、そんなに甘いんだ」

 蓮もみのりに続き、適当なサイズのみかんを一個手に取って口に入れた。

「本当だ。すごい甘いね」

 ゴミ箱にこれだけ皮があるのも、わかるような気がする。蓮は内心そう思った。

「母さんさ、いくつくらい食べたの?」

 蓮はふと疑問に思い、台所で夕食の準備をしている陽子に尋ねた。

「今日で十個は食べたわよ」

「え……ちょっと食べ過ぎじゃない?」

「えー、だってこれ、手が止まらなくなるわよ。ほんとに」

「だからって、十個は多すぎるんじゃない?」

「今度から気をつけるわよ。そうそう、無くなったら箱開けていいから。どんどん食べてね」

 その前に飽きが来そうだけど……。蓮は内心そう思った。

 直後、蓮の目に、飾り気のない新聞屋のカレンダーが入ってくる。

 明日の日付にグルグルと黒丸が書かれている。

「そういえば……明日『綴祭り』なんだね」

「そうよ。蓮は行くつもりなの?」

 陽子はジャガイモを一口大に切りながら言った。

「うーん、どうしようかな……」

 小学生のころは毎年楽しみにしてたけど、今は……。蓮は悩む。

「……余裕があったら、見てこようかな」

「あら、そう? お祭りなんて、久しぶりでしょ?」

「うん、まぁそうなんだけど……」

 会いたくないクラスメイトだって何人かいる。蓮は内心そう言った。

 ふと、蓮はみのりが右手を挙げていることに気付いた。

「どうしたの? みのりさん」

「はい。あの、私……行きたいんですけど……」

「あら。じゃあ……蓮と回ってくるといいわ」

「えっ、母さん……そんな勝手に」

「みのりさんの面倒見るって決めたのなら、最後まで見なさいよ」

 蓮は何も言えなかった。全く、その通りだったからである。

「……わかった。じゃあ、みのりさん。一緒に行こう」

「はい。明日もどうぞよろしくお願いします!」

「うん。あっ……そういえば、母さんはもうお見舞い行ったの?」

 蓮は思い切って話題を変えることにした。

「おととい行ったわよ。体調はまぁまぁだって言ってたわ」

「あぁ、それなら良かったよ」

「まぁ、蓮が来てくれたら、お父さんも本当に嬉しいと思うわよ」

「あの、立花さんのお父さん……入院中なんですか?」

 みのりは慎重そうな態度で話に入ってくる。

「うん、病気でね。母さん、父さんって何の病気なの?」

「そうね。何か難しい病名だったわね……で、遺伝性だってお医者さんは言ってたわ」

「えっ……遺伝性? 本当に?」

 蓮は思わず陽子に聞き返していた。

「本当よ。嘘をつくメリットがないでしょ」

「ってことは……もしかして、僕もなる可能性がある?」

「そうね。可能性はあるんじゃない?」

 陽子は包丁を持つ手を忙しそうに動かしながら言った。

「そっか……」

 蓮は妙な気分を感じていた。自分が父親と同じ病気にかかったら、いや……すでにかかっていたら、どうだろうか、と考えを巡らせる。

「立花さんのお父さん、早く良くなることをお祈りしますね」

 そう言って、みのりは両手を組んで祈りのポーズを取った。

「ありがとう。みのりさんまで心配してくれて」

「いえ、こちらこそ。泊まらせて下さり、本当にありがとうございます」

「いいのよ。ゆっくりくつろいでってね」

 陽子はみかんをちょぼちょぼ食べるみのりに向かって、母親らしい微笑みを浮かべて言った。

「それと、蓮、くれぐれもやましいことはしないようにね」

 続いて、陽子は棘のありそうな声で蓮を諭すように言った。

「わかってるよ! しないよ!」

 蓮の言葉に対し、みのりが気恥ずかしそうに顔を少し赤らめる。そんな顔を見て、蓮は何だか申し訳なく思えてきた。

「ちょっと、自分の部屋に入るから。何かあったら、遠慮無く声かけてね。みのりさん」

「あっ、はい、わかりました。お疲れ様です」

 蓮は頭を下げたみのりに軽く微笑むと、そそくさと居間を離れた。


 自室に入ると、水垢一つない、ピカピカに磨かれた窓と埃一つ落ちていない床が蓮を迎えた。

 上京前は電池切れだったはずの置き時計は、なぜかきっちり正確な時を刻んでいる。

 どうやら、蓮が上京してからも度々部屋の掃除をしてくれていたらしい。

 素直な感謝の気持ちと反抗心……二つの感情が蓮の頭に浮かんでは消えていった。

 蓮は部屋の隅っこに置かれた布団に倒れるように沈み込んだ。

「……ふぅ」

 蓮は布団に倒れた直後、大きく息を吐いた。肌に触れる感触はスポンジケーキのように柔らかく、蓮は久々の布団のありがたみをひしひしと感じた。

「……ふわぁ……」

 思わず、蓮の口からあくびが出る。布団に入ると眠くなるのは、人間として自然なことなのかもしれない。

「……あっ」

 突如、蓮は現実世界に引き戻り、布団から身を起こした。

 確かやることがあったような……そうだ……面会予約。

 蓮は時刻を確認した。午後五時過ぎ。まだ大丈夫だろう。

 そうして、蓮は病院に電話をかけ、明日の午前十一時に無事予約を済ませた。

 蓮が携帯を折りたたんだ直後、今度は着信が来る。見ると、しおりからだった。

「もしもし、安藤さん?」

「あっ、立花君? さっきのことなんだけどさ……わかったことがあったから連絡したんだけど」

 あのおじいさん……『安藤正二』のことか。それにしても、ずいぶんと早いな。蓮はしおりの情報収集能力の高さに内心感心した。

「あ、ありがとう。どんなことがわかったの?」

「うん。あたしの家の家系図をちょっと見てみたらね、名前があったんだよ、安藤正二さんって」

「へぇ、そうだったんだ。関係性は?」

「うん。あたしのおじいちゃんの弟に当たる人なんだって。でも、みのりさんとの関係性は、ちょっとわからなかった」

 何らかの繋がりがあったとわかれば、十分だ。蓮はそう思った。

「そっか。でも、わざわざ情報、ありがとね」

「なぁに、このくらいならお安いご用さ!」

 電話越しに、しおりのはつらつとした声が聞こえてくる。

「いやいや、ありがとね。助かるよ」

「どうもどうも。でさ……明日なんだけどさ」

「うん? どうしたの?」

「悪いけど『綴祭り』の手伝い頼まれちゃってさ。残りよろしくね」

「あぁ、そうなんだね。わかったよ」

「よろしくー。それじゃ」

「うん。今日はありがとね。助かったよ。じゃあね」

 そうして、蓮は携帯を折りたたみ、しまい込んだ。そのまま、再び布団に寝っ転がる。

 夕暮れ時だが、蝉はまだまだ鳴き声をとどろかせている。

 突然、ドアをノックする音が蓮の耳に飛び込んでくる。

「どうしたの?」

「悪いけど、お父さんの部屋、掃除機かけておいてくれない?」

「うん……わかった」

「よろしくね」

 陽子の派手な大きさの足音はあっという間に消えた。

「よっこらせ」

 蓮は身体を起き上がらせ、トボトボとした足取りで部屋を出た。

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