四


 三人は脇道から国道に合流し、さらに歩みを進めていった。

 緩やかなカーブの先には、のどかな田園風景が広がっている。

 夏の日差しは三人に容赦なく光と熱を浴びせている。

「そういえば、安藤さん」

 暑さの中、みのりはしおりに声を掛ける。

「ん? どうしたの、みのりさん」

「……朝ご飯は召し上がりましたか?」

「しっかり食べてきたから問題なし!」

 しおりは腹部を軽くさするようなポーズを取った。

「そういえば、二人は何を食べたの?」

 しおりは麦茶入りペットボトルを空にしてから尋ねる。

「僕は電車の中でおにぎり。みのりさんは幕の内弁当」

 蓮は淡々と説明した。

「へぇ、電車の中でって何かいいねー」

 しおりは少しうらやましそうな顔をした。

「良くないよ。揺れるし。安藤さんは朝何食べたの?」

「あたしはバナナ一本と牛乳一杯」

「えっ! 安藤さん、お腹空いてしまいませんか?」

 みのりは少し驚きと心配が混ざったような声で言った。

「平気だよー、朝はいつもそんな感じだから!」

 しおりは特に自身の心配をしてなさそうに言った。

「そういえばさ、立花君って、もしかして帰省中?」

「あぁ、うん、そうだね。ちょっと事情があってね」

「へぇ、そうなんだ。どんな事情?」

「……父親のお見舞い」

 蓮は声のトーンを少し下げた様子で言った。

「あっ、そうなんだ……聞いちゃってごめん」

「あ、いいよ。気にしてないから」

「なら良いんだけど……そ、そういえば! これからどこ行こっか?」

「えっ、決めてないの?」

 蓮は驚いた様子でしおりに確認した。

「うん。ごめん、さっきは勢いで言っちゃったんだよねー、ハハハ」

 安藤さん、何て言うか……母親と似てる面がある。蓮はふと、そう思った。

「じゃあ……美野里中学校とかどうかな?」

 蓮はとりあえず提案してみることにした。

「おぉ、出ました、我が母校。いいかもね」

「あの、どうして……中学校、なんですか?」

「うーんとね……もしかしたら、みのりさんを知ってる人に会えるかもしれないからね」

 みのりは外見上、蓮より一つか二つ年下に蓮には見えていた。

 もし、蓮の二つ下だとしたら、まだ中学生のはずだ。

 夏休み中とはいっても、みのりの同級生がいるかもしれない。

 同級生に会えれば、後は簡単に事が進むかもしれない。

 もちろん、みのりが美野里中学校の生徒ならの話だが……。蓮はそう考えたのだった。

「いいね、それ。みのりさんはどう?」

「じゃあ、行きます!」

 みのりははっきりと言った。

「よし! じゃあ、あっちのほうだね」

 しおりは南向きを指差して言った。

 三人はそのまま、国道を道沿いに歩いていき、次の交差点で南方面を目指す。


 やがて、三人は美野里中学校校門前にやって来た。

 夏休みということもあってか、部活中の生徒以外には人の姿は見られない。

「いやー、どこも変わってないみたいだねぇ」

「へぇ……とにかく大きな建物ですね……」

 みのりは校舎の外観を見て、その大きさに驚嘆しているような様子だ。

「安藤さんって、何部だった?」

 蓮は地味に気になっていたことをしおりに聞いた。

「あたしは運動部に見せかけて、実は帰宅部だった」

 しおりは特に嫌そうな顔はせずに言った。

「あの、安藤さん……帰宅部って、何ですか?」

 みのりは興味津々でしおりに聞く。

「帰宅部っていうのは、まぁ……部活に出ない人をからかう言い方のことかなー」

「へぇ。部活というものに出ない人はからかわれてしまうんですか?」

「そうだねー、部活って、中学生の楽しみの一つなんだ」

 しおりは全国の中学生の言葉を代弁するようなことを言った。

「そうですか……どうして、安藤さんは部活に出なかったんですか?」

「だってさ、色々と面倒くさいし。人間関係とかは特にね」

「そうなんですか?」

「そうだよー。何か変なグループとか出来るとさ、もう面倒だよ」

「あれ、安藤さんって……嫌われてたかな?」

 蓮はふと疑問に思って言った。

「いや、ぜーんぜん。そこら辺は上手くやったから。自分で言うのもなんだけどね」

「へぇ……」

 蓮はしおりが少し遠くの存在のように感じた。

 安藤さんのそういった能力は、何か羨ましい。僕もそういう能力を持って生まれたかった。蓮は内心そう思った。

「人付き合いは嫌いじゃないよ。でも、一人の時間も欲しかったんだ。だから帰宅部にしたんだ」

「へぇ……そういうことだったんだ」

 蓮は妙に納得した様子だった。

「立花さんは……部活は何をしてらっしゃいましたか?」

「僕はね……一応、吹奏楽部」

 蓮は少しばかり自信がなさそうな様子で言った。

「一応って何よ、一応って」

 しおりが蓮に突っ込みを入れる。

「あんまりまともに活動してなかったからね」

 蓮は突っ込みに対抗するかのような理由をつけて言った。

「へぇ……音楽をする部活なんですか?」

「そうそう。楽器を演奏するんだ」

「へぇ、楽しそうですね! どんな楽器を演奏するんですか?」

 みのりは蓮の話にも興味津々といった様子だ。

「吹く楽器だね。チューバとか」

 蓮は少々 ドヤ顔になっていることには、自分では気づいていない。

「へぇ……チューバ?」

 みのりはチューバを知らないといった様子を見せる。

「さりげなく、担当してた楽器をアピールしてるね」

 しおりが蓮に向かってニヤリとし、蓮の脇腹を軽くつついた。

「痛いよ安藤さん」

 蓮は静かに抗議の声を上げる。

「ごめんごめん」

 しおりは特別悪びれる様子もなく言った。

「チューバっていうのも、楽器なんですか?」

 みのりは念のためか、蓮に尋ねる。

「そうだよ。ものすごく低い音が出るんだ」

 蓮は少しばかり興奮したような話の調子で言った。

「へぇ……何だか、どんな楽器か見てみたいです!」

 みのりはチューバにすっかり興味を持ったようだった。

「うーん……それは難しいかな」

 蓮は少し言いづらそうな表情をしてからみのりに言った。

「え……それはどうしてでしょうか?」

「普段は音楽室の倉庫に入ってるからね。鍵がないと開けられないんだ」

「そうですか……。チューバ、見たかったです」

 みのりは少しだけ遠くを見るようなまなざしで言った。

「あぁ、でもね……部活中だったら、もしかしたら見れるかも」

「えっ、本当ですか! それは楽しみです!」

「はい、そこまでー!」

 突如、しおりが二人の会話をピシャリと制す。

「おしゃべりはその辺にしといて! 立花君、交渉よろしく!」

 しおりは蓮の背中をドンと押してくる。女性だが、意外と強い力だ。

「えっ、僕が行くの?」

 蓮は突然の流れに少々困惑した様子だ。

「そこは男の度胸を見せてちょーだい!」

 男の度胸って、一体何だ。蓮は一瞬そう思ったが、その場の勢いに飲み込まれるしかなかった。

「立花さん、頑張ってください!」

「う……わかった。最善を尽くすよ」

 みのりさんにも言われたら、まぁしょうがない。蓮はそう思いながら、近くで作業をしている職員に声をかける。

「あの、すみません。卒業生三人なんですけども……」

 みのりはここの生徒にしなければいけないことくらい、蓮でもわかっていた。

「わかりました。じゃあ、職員室でプレートをもらってください」

 職員は特に怪しむようすもなく、さらりと言って、職員室の場所を三人に教えた。

「ありがとうございます」

 三人はほぼ同時にお礼を言って、そそくさと職員室に向かった。


 プレートを三つ手に入れた三人は、無事美野里中学校の校内に入ることができた。

「案外あっさり入れてもらえたね」

 しおりは関門を突破できて、とりあえずほっとしている様子だ。

「そうだね。とりあえず良かった」

 夏休みってことも幸いしたかもしれないな。蓮はふと、そう思った。

「良かったです! 中学校、中学校」

 みのりは先ほどよりもっと楽しそうだ。

「それで、立花さん……この後どうするおつもりですか?」

「えっ……あ、そうだね……」

 みのりさんの記憶を刺激するには、やっぱりそれなりの刺激が必要だろう。蓮はそう考えていた。

「……とりあえず、校舎の中をぶらぶらしてみようか」

 蓮はとりあえずの提案をしてみる。

「そうだねー。あたしと立花君がいた教室も、みのりさんに見せてあげるよ」

「……入っちゃって大丈夫かな?」

 今は新しい三年生が学んでいるわけだけど。蓮はそう思った。

「別に、入るだけなら大丈夫っしょ」

 しおりは通路を我が物顔とも言わんばかりに歩いている。

 安藤さんのそういうところは、僕もちょっとうらやましいな。蓮は内心そう思った。


 昇降口には三人以外の人気は一切ない。

「あれ、何だかちょっと涼しいですね……」

 ふと、みのりは、ぼそりとつぶやくように言った。

「そうだね! もしかして……エアコン入ったかも!」

 しおりは少しだけ興奮した様子で言った。

「僕たちのころはなかったのにね……」

 蓮は天井のエアコンを確認すると、恨めしそうに言った。

 美野里町が田舎とはいっても、真夏はなかなか暑い日も多い。

 実は、蓮やしおりを初めとする元美野里中学校の生徒たちは、エアコンが入ることを待ち続けていた。

 だが、結局在学中はそれが叶うことはなかった。

「あの……エアコンって……何ですか?」

 みのりは本当にわからなさそうにしおりに聞いた。

「みのりさん、エアコン知らない? 夏の必需品だよ!」

「最近はないと夏を乗り切れないね、正直」

「へぇ……涼しくするための道具なんですか?」

 みのりは素朴な疑問を二人にぶつけた。

「うーんとね、快適な温度にするための道具だね!」

 しおりはとっさに思いついただろうことを言った。

 安藤さん、説明が上手いな。蓮はそう思った。

「冬は暖めることもできるからね」

 しおりが補足をした。

「へぇ……便利なんですね」

 みのりは天井に取り付けられたエアコンを興味深そうに見つめている。

 エアコンを知らないって、現代の日本で暮らしてると、何か考えづらいな。

 いや、みのりさんはエアコンがいらないくらい快適な所で育ったのかな?

 もしそうだったら、美野里町出身じゃないのかな?

 ……わからない。蓮の中で思考がぐるぐる回っていた。


「おっじゃましまーす」

 しおりは何のためらいもなく、教室のドアを開けて中に入った。

 しおりに続くように、蓮とみのりも。

「ここが……教室、ですか?」

 みのりは教室後ろのロッカーを物珍しそうに眺めながらしおりに聞く。

「そうだよー。みんなでご飯食べたり、遊ぶ場所」

 しおりは何の迷いもなさそうな表情でそう言った。

「あと……勉強する場所も」

 蓮がぼそりと付け加える。

「それは三番目辺りかな」

 しおりは少々苦笑いのような表情になった。

「へぇ……色々なことをするんですね!」

「そうそう! 楽しかったよ、本当に」

 しおりは内心本当に楽しそうな表情だ。

「僕もまぁ……楽しかったかな」

 蓮もやや遅れてそう言った。

 思い出してみれば、全部が全部良くない思い出ってわけじゃなかったしな。

 蓮は過去を回顧した上にそう思った。

「へぇ……あの、安藤さん!」

 みのりは黒板を指差して大きな声を上げた。

「はいはい、何かな?」

「この緑色の板は……何ですか?」

 そっか、みのりさんは、黒板を知らないんだ。蓮は内心そう思った。

「これは黒板って言って、黒い板って書くんだ」

 蓮はしおりより先にみのりに説明してのけた。

「ええっ、緑色なのに、黒板っていうんですか?」

 みのりが目を大きく見開いて、驚いたような表情になる。

「確か……元々は黒かったんじゃなかったかな」

「へぇ……さっすが立花君、頭の良さは相変わらずだねー」

 しおりが口を挟んでくる。

「テレビで見ただけだよ」

「あ、あの……テレビで思い出したんですけど……」

 みのりがテレビという言葉になぜか反応する。

「うん? 何かな?」

「この世界のテレビは……手の平よりも小さな画面なんですか?」

 みのりは不思議そうにそう言った。

「えっ……そんなことないよ?」

 しおりは少々困ったような顔をしながら言う。

「えっ、でも……立花さんの携帯? 電話のテレビは……」

 みのりは話すほど語尾が弱々しくなる。

「あー……ワンセグテレビとかはそうかもね」

 しおりは合点がいった様子でみのりに言った。

「ワンセグ……テレビ?」

 みのりはきょとんとしている。

「ざっくりいうと、テレビの一種だよ」

「うん……そうだね」

 蓮も詳しくないのでフォローはできなかった。

「へぇ……本当に、便利な世界なんですね! あれ……」

 ふと、みのりが次の要素に反応を見せる。

「ん、どうしたの? みのりさん」

 しおりは不思議そうにみのりのことを見る。

「……何か聞こえませんか?」

 みのりは耳を澄ませている様子だ。

「うん? あー、何か楽器の音するね……」

 しおりの耳には、やけに低い音が入ってくる。

「はい……外から聞こえるような……」

 蓮もみのりの情報につられて、耳を澄ませてみる。そしてこう思った。

 この音って、チューバ混じってないか。

「みのりさん、ちょっと窓の下のぞいてごらん」

 蓮は少しだけ興奮した様子でみのりに言った。

「えっ? はい……」

 みのりは意味がわからないと言いたげながらも、蓮の言った通りにする。

 みのりに続くように、蓮としおりも窓の近くへ向かう。

「大きい楽器が見えないかな?」

 蓮はそう言いつつ、チューバの存在を探す。

「えっと……あー! 見えました!」

 みのりはそれを見つけた瞬間、驚きの声を上げた。

「あれがチューバって楽器なんだ」

 蓮は説明を念のため加えた。

「へぇ……本当に大きいですね!」

「うん。へぇー、夏休みも練習するようになったんだ……」

 思わず、蓮から独り言が漏れる。

「立花君、前は練習してなかったの?」

「夏休みは全然だったね」

 練習時間が増えたっていうことは、本格的にコンクールとか見据えるようになったんだろうな。蓮は内心少し誇らしくなった。

「何か……たった一年ちょっとでも、色々変わるんだなぁ……」

 蓮はまた独り言のようなことをつぶやいた。

「そう言われてみると……そんな気がしてくるね」

 少しして、みのりが蓮としおりのほうに向き直って言った。

「本当に大きいですね! チューバって」

 どうやら、かなり興奮しているようだ。

「うん。あれを持ち運ぶのは、結構大変なんだ」

 蓮はあえて、聞かれてもいないことを口にした。

「ちょっと、男なら軽々持てないの?」

 しおりは少しだけ険のある声になる。

「そんな簡単に言わないでほしいなぁ」

 金属の塊を持っているようなものなんだから。

 まぁ、持った人にしかわからないだろうけど。蓮は心の中でそう言った。

「立花さんって、力持ちなんですね! かっこいいです!」

 みのりは蓮に向かって拍手をした。

「あ、ありがとう」

 蓮は少々照れ臭そうに頭をポリポリ掻いた。

「可愛い女の子に褒められたからって、いい気になるなよ! おい」

 しおりは蓮の脇腹をまた軽く突く。ニヤニヤしている点から察するに、悪意はないようだ。

「あの、私……可愛い女の子なんですか?」

 みのりはしおりの目を猫のような目で見つめて言う。

「あたしなんかより何倍も可愛いよ! だから自信持って!」

「ありがとうございます! フンフフーン……」

 みのりは途端に即興だろうか、鼻歌を歌い出した。

「そういえばさ、みのりさんは何か思い出した?」

 しおりがみのりに向き直って尋ねる。

「いえ、まだ思い出せないんですけど……この部屋、いるだけで楽しいです!」

 みのりは満面の笑みを二人に見せている。

「楽しいのはいいことだよ」

 しおりはハッハッハと豪快な笑い声を上げる。

「そういえば、もう昼前なんだね」

 ふと、蓮が黒板の上に取り付けられた時計をちらりと見て言った。

「えっ……もうそんな時間ですか?」

 みのりは時計を確認して、目を丸くした。

「お昼の時間だね。どこで食べよっか?」

 しおりは軽く伸びをして言った。

「そうだね。この辺にレストランってあったかな……」

 蓮は携帯を取り出し、検索を始めようとする。

「あるある。美野里町歴史資料館のレストランがね」

 しおりは謎の施設名をあっさりと言ってのけた。

「美野里町歴史資料館、って何ですか?」

 みのりは初耳だと言わんばかりの顔をした。

「あたしのおじいちゃんが運営してる資料館のことだよ。近くにあるんだ」

「へぇ、そうなんですか」

 みのりはしおりの説明に興味を持った様子だった。

「なんて言うか……安藤さんちって、お金あるんだね」

 蓮は少々うらやましそうな声で言った。

「まぁ、あるほうみたいだね。ちなみに、メニューは冷やし中華とかそばとかあるよー」

 しおりはお金の話はほどほどにしたい様子だった。

「冷やし中華いいね」

 今は真夏だし、冷やし中華、ちょうど食べたかったんだよなー。蓮の脳内にそんな言葉がよぎった。

「私、そのレストランがいいです!」

 みのりは右手を挙げながら嬉しそうに言った。

「そうだね。じゃあ僕も、そこで」

 蓮はみのりに同調するような形で言った。

「あたしも! じゃあ、決まりだね!」

 かくして、しおりを含む三人が賛成し、提案は可決された。

「おそばに冷やし中華、楽しみです!」

 みのりは目をトローンとさせている。昼食が楽しみなのだろう。

「うんうん。この辺りの名産品とか結構使ってるから、食べてみる価値はあると思うよー」

 しおりはまるで宣伝するかのような口調で言った。

「へぇ……何だか、またお腹が空いてきました」

「……そうなんだね……」

 蓮はみのりの食欲旺盛さに度肝を抜かれた。

「アハハ。もう開店してる時間だから、行っても大丈夫だよ」

「そうなんだ。もう行く? みのりさん」

「はい! 行きましょう! ご飯、ご飯」

 みのりさんは相当、昼食が楽しみなんだな。蓮は内心そう思った。

「わかった。じゃ、行こっか」

 まずしおりが歩き出し、彼女についていく形で二人も歩き出した。


「お邪魔しましたー」

 三人はほぼ同時に挨拶し、何事もなく校門を出た。

 運動部員の掛け声が、校庭からひっきりなしに聞こえてくる。

「中学校、楽しかったです!」

 みのりはまるで美味しい料理を食べた時のような笑みを浮かべて言った。

「あたしも楽しかった! 何か、中学生に戻った気分だったよ」

「僕もそれなりに楽しかったよ」

「来て良かったじゃん! 立花君」

 しおりは蓮に向かって親指を立てるポーズを取る。

「うん。楽しかったこともそれなりに思い出せたよ」

 蓮は顔の口角を少しだけ上げる。

「良かったですね! 立花さん」

「そういえば、立花君は、みのりさんにお弁当おごったんだよね?」

 しおりは唐突に話題を変える。

「正確にはおごってないんだけど……それがどうしたの?」

「いや、えっとね……みのりさんって、お金は持ってるの?」

 しおりはみのりが身につけている青いバッグに目を凝らす。

「いえ、持ってません」

「ほうほう、わかった。じゃあ、みのりさんの昼食代は、私が出してあげるよ」

「あ、ありがとうございます!」

 みのりはしおりを見てニコリとした。

「どういたしましてー」

 しおりはみのりに向かってニヤリとした。

 少しして、三人は脇道に入り、古びた家屋が立ち並ぶ住宅街に入った。

 真夏の午前中というだけあってか、人気はまるでない。

「そういえばさ……立花君って、今どこに住んでるの?」

 しおりはおそらくは興味本位だろう、蓮に素朴な疑問を投げかけてくる。

「東京」

 蓮はあっさりとした口調でしおりに言った。

「へぇ、いつの間にか都会人になったんだね」

「それはどうかな……」

 蓮はしおりを見て少しだけ苦笑いした。

「東京ってことは、私立高校?」

 しおりは蓮に一歩近付いて尋ねてくる。

「まぁ……そうだね」

 蓮は少々うるさそうな表情をして言った。

「すごいね、私立って」

「どうだろう」

 どう答えるのが一番適切か迷ったので、蓮は適当に返事をした。

「東京って、ここの暑さより酷いの?」

「うーん、暑さの質が違うね。肌にまとわりつくような感じかな」

「うわー……絶対嫌だ」

「立花さん。東京はそれほど暑いんですか?」

 ふと、みのりが話に加わってくる。

「うん。この町より数段暑いと思うよ」

「数段ですか……じゃあ、ものすごく暑そうですね」

 みのりには蓮の言葉で充分伝わったようだった。

「うん。特に今の時期、外は地獄だね」

 蓮は少々大げさな表現に走った。

「地獄ですか……怖いです……」

 みのりは少しばかりブルッと震える仕草をした。

「おいおい、みのりさんを怖がらせちゃダメっしょ」

 しおりが割って入る形になった。

「そういえば、立花君は今も部活やってるの?」

 しおりが蓮に向かって唐突に話題を変えてくる。

「今もやってるよ、吹奏楽部。安藤さんは部活やってるの?」

 蓮は切り返しにと、しおりに尋ねる。

「あたしはねー、一応テニス部」

「へぇ、テニスですか。安藤さん、かっこいいですね!」

「あ、そう? アハハ、ありがとねー」

「一応ってことは、そんな精力的にはやってないんだ?」

 蓮は確認の意味を込めてしおりに尋ねる。

「ぜーんぜん。ほぼ同好会みたいなもんだよ」

 しおりはあっさりとした口調で言った。

「同好会って、何ですか?」

 みのりが目をパチクリさせながらしおりに尋ねてくる。

「うーんとね、それが好きな人の集まり、って言ったらいいかな?」

「へぇ、つまり安藤さんは、テニスが好きなんですか?」

「そうだね。友達に誘われて始めたんだけど、好きになっちゃったよ」

「へぇ……では、その友達のおかげでテニスが好きになったんですね」

「そういうことになるかな」

 みのりとしおりが会話を盛り上げる中、蓮は突き当たりの交差点から老人男性が一人ゆっくりと出てくるのを確認した。

 ふと、その男性のズボンの後ろポケットに収まったカード入れが、まるで飛び出すように路面にパタリと落ちる。

「あっ……」

「立花さん、どうしましたか?」

 蓮の言葉に対し、みのりが反応する。

「あのおじいさん、カード入れ落とした。ほら、あそこ」

 老人男性は落としたことに気付いていない様子で、そのままゆっくりと歩き続けている。

「あの! そこのおじいさん!」

 蓮はその男性に向けて声を張り上げた。蓮の声に反応して、老人男性がゆっくりと振り向く。

「……ん?」

 蓮は落ちたカード入れを拾って、小走りで老人男性の元へ向かう。

 カード入れからさりげなく『安藤正二』の文字がのぞいている。

 あれ……『安藤』って……。蓮は奇妙な感覚を覚えた。

「あの、これ、おじいさんのカード入れですよね? 落としましたよ」

 蓮は出来る限り動揺を抑えようと意識した。

「……おぉ、そうだそうだ。どうもありがとう」

 老人男性は私物と認識し、蓮にお礼を言った。

「いえ……当たり前のことをしたまでです」

 老人男性はしわののった顔を綻ばせそのまま立ち去ろうとして、突如動きを止めた。

 綻んだはずの顔が、まるで恐怖を帯びたような顔に急変する。

「……どうしましたか?」

「……どうして……」

 蓮の声は老人男性には耳に入っていないようだった。

 老人男性の視線の先には、追いついた二人。

 しおりの右横には……みのりがいる。

「……えっ?」

 みのりは老人男性の視線に気付いた。なぜ見られているのか理解が追いついていない様子だ。

「……どうして……お前が……?」

 老人男性は先ほどより低い声でみのりに言った。その声は少し震えているようにも思える。

 明らかにみのりを警戒している。

「えっ、あ、あの……どちら様で」

「ひいっ! た、助けてくれ!」

 みのりの言葉を最後まで聞かないまま、老人男性は全速力と思われるスピードで走り出した。

 そして、角を曲がりあっという間に姿を消してしまった。

「えっ、あの……?」

 みのりは状況が全く理解できない様子だった。

「どういうことだろうね……」

 しおりも訳がわからない様子で、黙ってしまう。

「理由はわからないけど……みのりさんに、すごくおびえてる感じがしたね」

 蓮は老人男性の震えをしっかりと感じ取っていた。

「私に、ですか?」

 みのりはあちらこちらをキョロキョロ見ている。納得できていないようだ。

「うん、あたしもそんな感じがした」

「私……怖いんでしょうか……?」

 みのりは自分の体をじっと眺め回した上でしおりに尋ねる。

「うーん……このことは後で考えよう」

 しおりはみのりにまっすぐ向かって言った。

「あっ……はい!」

 みのりは頭をぶんぶん振って、考えを追い払おうとする。

「今はとりあえず、お昼ご飯だよ」

「……そうですね、お昼ご飯! お昼ご飯を食べに行きましょう!」

 みのりは明らかに無理をした様子で声を張り上げた。

 蓮はそんなみのりの姿をじっと見ていた。

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