みのりが遅い朝食を無事終え、二人は跨線橋を渡り、予定通り美野里駅の北側にやって来た。


 北側は、南側より人口が多く、小規模ながら商店街がある。


 都会ではあまり見かけないだろう、肉屋や魚屋もここでは当たり前のように存在していた。


 魚屋では、店頭に並べられた魚の鮮度を確認しようと、中年の女性がポリ手袋をはめた手で触って確かめている。


「へぇ、お店がたくさんあるんですね」


 みのりは左右に並んでいる商店を見て声を上げた。


「うん。ここは駅の北側で、南側より賑わってるんだ」


「へぇ、ちなみに南側には何があるんですか?」


 みのりは興味深そうに蓮に尋ねた。


「僕が通ってた小学校があるよ」


「へぇ、立花さんが通ってらっしゃった小学校ですか……」


 みのりはなぜか、そのまま黙ってしまう。


「どうしたの? みのりさん」


 蓮は沈黙に耐えきれず、みのりに尋ねた。


「私……小学校に通った記憶がないんです」


 記憶喪失だからじゃない?


 蓮はそう言おうとして、止めた。


 みのりの表情が、どこか哀しげに見えたからだった。


「そっか。きっとすぐ思い出せるよ。記憶」


 根拠はないが、蓮はまるで確信を持ったかのように言った。


「どうでしょうね……」


 みのりはどこか複雑そうな表情で小声で言った。


 蓮はどんな表情で対応したらいいかわからなかったので、不意に見つけたソフトクリームの置物を見て言った。


「あっ、みのりさんあれ、ソフトクリーム売ってるね」


「えっ……」


 みのりは声を漏らして蓮が示す方向を見た。


 数メートル先に、確かにソフトクリームの置物があった。ただ、純粋なバニラ味ではなく、クリーム部分にオレンジ色のシロップがかかっている。


「何味の……ソフトクリームでしょうか?」


 蓮は店に掲げられた手書きの看板を見た。そこにはポップな書体でこう書かれている。




 みかんソフトクリーム 一本百五十円 




「みかん味みたいだね。ちょっと食べてみたいから、寄ってもいいかな?」


「いいですよ。あの……私も食べてみたいです……」


 みのりは少々申し訳なさそうに、モジモジしながら蓮に言った。


「わかった。じゃあ二つ頼もうか」


 そうして、蓮は財布の中の小銭を確認した。それらは充分過ぎるほど入っている。


「ありがとうございます」


 みのりは蓮に軽く頭を下げ、店に引き寄せられるように方向転換した。みのりに続いて、蓮も。


「いらっしゃい」


 中年の女性店員がフラフラと近づいてきたみのりに声を掛けた。


「あ、はい。あのっ……みかんソフトクリームを……二つ……」


 みのりはしどろもどろになりながらも、注文を店員に伝えた。


「はいよ。みかんソフト二つね。二百円ね」


「えっ、三百円じゃないんですか?」


 みのりの隣に来た蓮は、目を大きく見開いて店員を見た。


「今日一番だからね。一個五十円引きだよ」


 店員は何でもない様子で蓮とみのりに言った。


「……あ、ありがとうございます」


 みのりは店員に深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


 蓮は店員に軽くお礼をすると、財布から百円玉二枚を取り出し、カウンターの上に置く。


「ハッハッハ、なぁに、こっちがやりたいからやってるだけだよ」


 店員は豪快に笑ってから、ソフトクリームメーカーの前に立ち、操作を始めた。


 やがて、蓮とみのりの前にみかんのシロップがかかったソフトクリームが姿を現した。


「はいよ。じゃあ、落とさないよう気をつけてね」


「わぁ、ありがとうございます!」


 みのりはまるで宝物を発見した時のような表情で喜びを露わにした。


「ありがとうございます」


 蓮も改めてお礼を言って、みかんソフトを受け取った。


 二人は店の横に備え付けられたベンチに腰掛けた。二人同時に腰掛けると、ベンチはミシシときしみ音を立てた。


「立花さん、ありがとうございます」


 みのりは春の日差しのような穏やかな微笑みを蓮に向けた。


「どういたしまして。溶けちゃうから、食べよっか。いただきます」


 ソフトクリームを溶かすにはあまりにも充分すぎる暑さの中、蓮はみかんソフトに舌を伸ばして食べ始めた。


「そうですね。いただきます」


 みのりも小さな口でみかんソフトの先端にかじりついた。


 すでに二人のソフトクリームは表面が溶け始めている。


「……美味しいです。甘酸っぱくて」


「そうだね。美味しいね」


 蓮はみのりに反応しながらも、ソフトクリームを手早く食べ進めていく。


「そう言えば、あの……どうして、今日出会ったばかりの私に優しくして下さるんですか?」


 不意を突く、みのりの質問に、蓮は一瞬思考停止状態になる。


「……それは……」


「どうしてですか?」


 みのりは答えが早く知りたいと言いたげな様子だった。


「それはね……僕がそうしたいから、かな」


 蓮は控えめながらも芯のある声でそう言った。


「立花さんが……私に優しくしたいからですか?」


 みのりは、どうしてなの、とでも言いたそうな表情になる。


「うん。こんなことを直接言うのもなんだけどね、別に見返りを求めてるわけじゃないんだ」


「そうなんですか? では、何のためにですか?」


 みのりは理由が知りたそうでたまらない様子だった。


「……相手も自分も幸せにしたいから」


 蓮は淡々とした声でみのりに向かって言った。


「相手も自分も幸せに、ですか?」


 みのりは目をパチパチさせて、蓮の言葉を待っている。


「うん。相手に優しくすると、自分の中も優しさでいっぱいになって、それで幸せになれる。僕はそう思うんだ」


「へぇ……立花さんって、素敵な考えをお持ちなんですね」


「あぁ……ありがとね」


 蓮は少々照れくさそうに頭をポリポリとかいた。


「そう思うようなきっかけがあったんですか?」


 みのりはほんの少しだけ蓮に接近して言った。蓮の心臓の鼓動が激しさを増していく。


「うん……小学生の頃までなんだけど、犬を飼ってたんだ」


 蓮は遠くを見るような目でみのりに言った。


「お犬さんですか……お名前は何でしたか?」


 みのりは蓮の話を興味深そうに聞いている。


「体毛が白いから、シンプルにシロって名付けたよ」


 蓮は脳内でシロの姿を思い出しながら言った。


「へぇ……あの、シロさんの写真はありますか?」


「あるよ。見たい?」


「あっ、はい、見たいです」


「じゃあ、携帯に入ってるから、ちょっと待ってて」


 蓮はポケットから黒い携帯を取り出そうとした。


「えっ、あの、携帯……って、何ですか?」


「ん、携帯電話のことだけど?」


「……携帯電話?」


 みのりはキョトンとしている。


「携帯電話、知らないの?」


 蓮は反射的にみのりに尋ねた。


「はい……知らないです」


 記憶喪失で、情報が抜け落ちてるんだろうな。蓮はそう思うことにした。


「じゃあ、今持ってるから、どんな物か見せてあげるよ」


「はい……お、お願いしますっ」


 どういうわけか、みのりは少々怖じ気づいたような表情を見せた。


 蓮はみのりの反応を不思議に思いながらも、ポケットに収まっていた携帯を今度こそ取り出し、みのりに見せた。黒いつや塗りのボディが高級感を醸し出している。


「これが携帯電話だよ」


「えっ、あ、あの……電話……ですよね?」


 みのりは目を大きく見開いている。


「うん。電話だよ?」


 蓮にはみのりの驚きが示す意味がわからなかった。


「折ってしまって……壊れてしまわないんですか?」


「大丈夫だよ。元々、折りたたむ前提で作られてるからね」


「……へぇ……」


 みのりは身体の力が抜けたような様子で言った。


 蓮は携帯を開き、素早くボタンを押し、シロの写真を表示させた。


「……わぁっ……可愛いですね!」


 画面に映し出された、生前のシロの写真。それは、蓮に向かって可愛らしく舌を出してしっぽを振っている写真だった。


「あの……電話の中に……写真が入ってるんですか……?」


 みのりは現代技術について行けていない様子だった。


「そうだよ。何て言うか……デジタルデータだね」


「デジタル……データ?」


 みのりはまた首をかしげた。本当にわからない様子だ。


「えっとね、何て言うかな……写真の情報がこの画面に映し出されるんだ」


「へぇ……それって何だか、テレビみたいですね」


 みのりは自分なりにたとえを出そうとした。


「そうだね。実はこれ、テレビも映るんだよ」


「えぇっ! こんなに小さな画面に映るんですか?」


 みのりは目を繰り返しパチパチさせた。


「映るよ。見せようか?」


「あっ、いえ、もう大丈夫です。あの……」


「わかった。ん?」


「……ここは本当に、私が生きてきた世界なのでしょうか?」


 みのりの瞳はどこか揺らいでいて、不安そうに蓮には見えた。


「それはちょっとわからないね。ごめんね」


「……そうですよね……」


 みのりは少しばかりうつむき加減になった。


「……あ、あの、写真見せていただきありがとうございました!」


 みのりは気を取り直したのか、姿勢をピンと張って言った。


「どういたしまして。見てて減る物じゃないから、また見たくなったら声かけてね」


「わかりました! 本当に、シロさん、可愛かったです!」


 みのりはシロの写真から元気をもらったかのようにして言った。


「可愛いよね」


 蓮はみのりに向かってニッコリと微笑んだ。


「はい! 可愛いですし、癒やされました」


 みのりは妙にテンションが上がっている様子だった。


「良かった。じゃあ、そろそろ歩く?」


 蓮は携帯の時計で時刻を確認した。午前十一時ちょっと過ぎ。


「はい、そうしましょう!」


 みのりは憂鬱さなどみじんも感じさせない声で言った。


「わかった。じゃあ行こうか」


「はい。わかりました!」


 二人は備え付けのゴミ箱にゴミを捨て、人気の少ない商店街を再び歩き出した。


「立花君?」


 突如、蓮の耳に彼を呼ぶ声が侵入してきた。


「……ん?」


 蓮はその声に対し、反射的に後ろを振り向いた。


 蓮の十メートルほど先に、一人の少女が右手をぶんぶん横に振っている。


 薄茶色のミディアムヘアに、波が描かれたプリントシャツにブルーのジーパン姿という出で立ちだ。


「立花さん。あの人は誰でしょうか?」


 蓮に続いて少女を見たみのりは、興味深そうに蓮に尋ねる。


「えっ、えっと……」


 蓮が少女を思い出す前に、少女は蓮の元に駆けてきた。


「お久しぶり! 立花君!」


 そして、何のためらいもなさそうに蓮の名前を改めて呼んだ。


 蓮は少女のことをよく思い出せない。


「えっと……どちら様ですか?」


 蓮は正直に行った。


「ガーン……まぁ、覚えてなくてもしょうがないか……」


 少女は蓮の質問に少々大げさに反応してみせる。


「あの……すみませんが、私もどちら様かわかりません!」


 みのりも正直な想いを少女にぶつけた。


「アハハ……そんじゃ、まず自己紹介しよっか」


 少女は二人の言葉に特に傷ついた様子を感じさせない。


「わかりました! 私は安藤みのりと言います!」


 みのりは、はきはきと少女に向かって言葉を投げかけ、それから軽く頭を下げた。


 すると、少女は目を大きく見開いた。


「えっ、安藤……みのりさん?」 


「はい、そうです!」


 みのりは特にためらうこともなさそうに言った。


「……安藤……みのりさん……安藤……みのりさん……」


 少女はみのりの名前をひたすら繰り返している。


「あの……どうされましたか?」


 みのりは不思議そうな表情をして、集中する少女に言った。


「……あぁいや、何でもないよ! あたしは安藤しおりって言うんだ、よろしくね!」


 安藤しおりは少々慌てたような様子で、勢いよく自己紹介を終えた。


「えっ……あなたも安藤さんなんですか?」


 今度はみのりが目を大きく見開く番だった。


「そうだよ。奇遇だねー」


 しおりは何のためらいもなく、みのりの右肩をポンポンと叩いた。人見知りしない性格のようである。


「そうですね……」


 みのりはしおりをまじまじと見つめている。


「ん、どうしたの、みのりさん?」


 しおりはみのりの視線に気付いたのか、みのりを見て目をパチパチさせる。


「あっ、いえ……何でもございません」


 みのりはハッと我に返り、慌てて視線を横にそらす。


「安藤しおりさんって、もしかして……僕と同じクラスだった」


「そう、それ!」


 しおりは蓮の言葉を決して聞き逃さなかった。


「あたしのこと、思い出した?」


「思い出したよ。すっかり」


 しおりのテンションに対し、蓮は落ち着いた様子で言った。


「良かったー。今までどこ行ってたの?」


 しおりは蓮の瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。


「どこって……進学で引っ越したから、遠くに」


 詳しくは言わなくてもいいよな。別に特別親しかったわけじゃないし。蓮は内心そう思った。


「へぇー、やっぱ立花君って頭良いんだね」


 しおりは大げさに驚いてみせている様子だ。


 どう返事をするのが適切かわからない。蓮は内心困る。


「……安藤さんは、まだここに住んでるの?」


 蓮は少しの時間沈黙した上で、無難そうな質問をした。


 ここが美野里町を指すことは、自明だった。


「そうだよー。あたしはずっと地元っ子だからねー」


 しおりは特に警戒するような様子もなく、あっさりとした口調で言った。


 それから、しおりはみのりを改めて見つめて言った。


「そういえば、みのりさんは立花君の彼女なの?」


 言い切ってから、しおりはニヤリとした。


「違うよ。一時的に保護してるんだ」


「……どういうこと?」


 しおりの表情がみるみるうちに困惑じみたものに変わっていく。


「あ、あのね……みのりさんは記憶喪失なんだ」


 蓮は正直に言うことにした。


「えっ、そうなの? マジで?」


 しおりは蓮の言葉をすぐには信じていない様子だった。


「はい。私は記憶喪失です。こう見えてもそうです」


 証人として、みのりが二人の会話に口を挟む形になる。


「えっ、だってさっき自己紹介したよね?」


 しおりは訳がわからないと言いたげな様子だった。


「すみません……それは仮の名前なんです。立花さんが付けて下さいました」


「そうなの? それって何のために?」


「みのりさんを呼ぶときに、困るから、とりあえずね」


 蓮はしおりに理由を説明する。


「そうだったんだ。じゃあ、他のことは憶えていないんだ?」


 しおりはとりあえず納得した様子だった。


「うん。重要な情報は全くと言っていいほどね」


 蓮はしおりにさらに説明を続ける。


「それは困ったね……」


 しおりはそのまま黙り込んでしまう。彼女なりに考えを巡らせているようだ。


「……立花君さ、交番には行かないの?」


「それはダメなんだ」


 蓮はしおりの言葉を遮るようにしてはっきりと言った。


「えっ、どうして?」


 しおりとしても、それが一番無難だとは思っているのだろう。故に、否定される理由がわからなくてもおかしくはない。


「過去に何かされたみたいで、行きたがらないんだよ」


 蓮はしおりに淡々と言った。みのりは蓮の横でうつむいている。


 それを見たしおりは、みのりの感情を察したようだった。


「そうなんだね。だから、立花君が付き添ってる、と」


「まぁ、そんな解釈で合ってると思うよ」


 蓮はしおりの解釈を特に否定はしなかった。


「いつから付き添ってるの?」


 しおりは素朴な疑問を蓮にぶつける。


「つい二、三時間前からだね。美野里神社で偶然会ってから」


 蓮は少しの間考える仕草をしてから言った。


「じゃあ、本当に始まったばっかりって感じだね」


「そういうことになるね」


 蓮は特にしおりの意見に異論はないようだった。


「じゃあさ、聞くけど、付き添いはいつまで続けるの?」


「それは……まだ未定だね」


 蓮は正直にそう言った。


「……明後日には、帰っちゃうんだけど……」


 蓮はみのりに対し、少々申し訳なさそうな声で言った。


「明後日ですか……」


 蓮の言葉を聞いていたみのりが、顔を少し曇らせたような表情になる。


「うん。いつまでも、ってわけにはいかないんだ」


「そうですよね。立花さんのご予定もありますしね……」


 しおりは蓮とみのりのやりとりを見た末に言った。


「暇だから、あたしも協力してあげよっか?」


「えっ、いいの?」


 蓮はしおりに向かって顔を突き出すようにして言った。


「いいよ。立花君だけじゃ、限界があるでしょ?」


 確かに限界はある。元々、この辺りで人脈が広いわけでもないし。蓮はしおりの発言に納得し、黙って頷いた。


「よし。みのりさん、あたしも参加していいかな?」


「あっ、はい……ありがとうございます。いいですよ」


 突然話を振られて、みのりは少々戸惑っているような様子だった。


「わかった。決まりだね! みのりさんの記憶を取り戻す会、結成だ!」


 安藤さんって……何だかテンションが高いな。蓮は内心そう思った。


「あのさ、本当に暇?」


 蓮は念のため、しおりに確認してみることにした。


「暇だって。今は部活もバイトもしてないからねー」


 しおりはそう言って、白いスニーカーの靴紐をちらりと確認した。


「そんじゃ、まずは何から始めよっか?」


 しおりは商店街をキョロキョロと見回しながら言った。


「とりあえず、この辺をブラブラしてみる?」


「そうだね……みのりさん、この辺は初めてなんだよね?」


 蓮はみのりに念のため確認してみる。


「はい……初めて、だと思います」


「じゃあ、ブラブラしよう!」


 そうして、しおりは二人を指で手招きした。


 二人も、特に異論はなかったので、しおりについていく。


 商店街の店は、繁盛している所は少なく、シャッターが閉められている所も多い。


 近年、地方の過疎化が騒がれているが、美野里町も例外ではなかった。


「開店していないお店が多いですね」


 みのりは、左右両方から迫るシャッター通りを見て、不思議そうに言った。


「お店をやる人がもうあんまりいないんだろうねー」


 しおりはのんびりとした口調で言った。


 蓮は内心思った。新たな人に出会えない限り、追加の手掛かりはつかめないんじゃないか、と。


「あのさ、安藤さん」


 蓮は先頭に立って元気良さそうに歩くしおりに声を掛けた。


「どうしたの、立花君?」


 しおりは特に立ち止まることもなく返事をする。


「この辺で、人気がありそうな所って、他にどこがあるかな?」


 地元を離れた自分よりも、地元に根付いている安藤さんのほうが、よく知っているだろう。蓮はそう判断したのだった。


「美野里運動公園とかかな? あそこ、広いし、色々設備あるし」


 しおりは歩みを止めずに言った。


「美野里運動公園という場所、ちょっと気になります」


 みのりが間に入る形で話に入ってきた。


「じゃあ、早速行ってみよっか。次の角を左に曲がるよ」


 しおりは二人の意見にしっかりとは耳を傾けていない様子だった。


 まぁ、色々な所を回ったほうが、手掛かりを得られる確率も上がるし、いいか。蓮は特に文句は言わなかった。


 みのりも、そのことはよくわかっている様子だった。


 それから、三人は細い路地に入った。シャッター街の商店街とはまた雰囲気が変わり、軽トラック一台ほどが通れる広さの道の両端に、年季の入った木造住宅が壁のように建っている。


「この辺りは、古い家が多いんですね」


 みのりは左右を頻繁に見ながらしおりに言った。


「そうそう。何かね、歴史的価値がある建物が多いんだって」


「へぇ、そうなんだ」


 蓮は家の様子をチラチラ見てみた。確かに、伝統的な日本家屋といった家が多く、歴史的価値はありそうだ、と蓮は思った。


「ちなみに、あたしの家も結構古いよ。全くの無駄情報だけどね」


 しおりはあっさりと言った。


 そのまま、三人は細い路地を歩き切った。すると、目の前に、フェンスを手前にして濃緑の広大な芝生が現れた。


 今が夏休みということもあってか、歩道ではベビーカーを引く家族連れがちらほらと見受けられる。芝生では小学生くらいの子供たちがサッカーを楽しんでいる。


「着いたよ。木陰にベンチがあるから、座って休もっか」


 しおりの意見に、蓮とみのりは肯定の返事をする。


 そうして、三人は一本の木の下にある三人掛けベンチに腰を下ろした。


 真ん中にみのり、両端に蓮としおりが座る形になった。


「じゃあ、ここでちょっと作戦を練ろうか」


 しおりはウエストポーチから手のひらサイズのメモ帳とボールペンを取り出した。


「はい。わかりました」


 みのりは手で風を起こそうとしている。


 蓮はリュックからスポーツドリンクを取り出し、ぐびぐびと飲む。


「まず……みのりさんはどんなことなら憶えているの?」


 しおりはみのりを真っ直ぐに見て聞いた。


 みのりは少しの間悩む仕草をした末に、言った。


「生きていく上で必要な物の名前とかですかね……お家とか、食べ物とか……」


「つまり、最低限の情報ってことだね……」


 しおりは納得した様子で、メモ帳に書き入れていく。


「みのりさん、一ヶ月くらいこの辺りをブラブラしてたみたいだけど、有力な手掛かりは何も得られなかったんだよね?」


 蓮はみのりに確認の意味を込めて尋ねる。


「はい……何も得られませんでした」


 みのりは少々うつむき加減になって言った。


「それってさ、一ヶ月前より前はどうしてたの?」


「……はい……あの、それ以前、どうしていたのか、私にもわかりません」


「ふーん……つまり、それ以前の記憶もないんだね……」


 しおりは口をキュッと結んで、メモ帳に再び書き込んでいく。


「うーん……なかなか手強そうな記憶喪失だねぇ」


 しおりは小型ペットボトルの麦茶をチョビチョビ飲んでから言った。


「一ヶ月前……記憶がスタートしてる時は、どこにいたの?」


「えっと……森の中にいました」


 みのりはしおりを見て淡々と言った。


「森の中? それって、どこの?」


「美野里神社の裏手に森があって、そこだって」


 蓮はみのりの発言を補足する形になった。


「あぁ、あそこね」


 しおりは思い出した様子で言った。


「ちなみに、あたしの家の土地だからねー」


「えっ、そうだったの?」


「そうなんですか、安藤さん?」


 蓮とみのりは二人して驚きを露わにした。


「そうだよー。もしかしてお参りもしたの?」


 しおりはみのりを見て言った。


「いいえ……していません」


 みのりは首を横に振った。


「神社の本殿とか、ずいぶん朽ちてる感じがしたんだけど」


 蓮は思ったことを率直にしおりに言ってみることにした。


「あー、あれね……ちょっと色々あってね。修理するお金がないんだよね」


 しおりはあらかじめ用意していたかのように言った。


「あーごめん、話戻すけど、みのりさんは森のどの辺にいたの?」


「えっと、川が流れている辺りでした」


「川……すいぶん奥のほうだね……」


 しおりは一人うんうんと頷いている。


「はい。その川が、何だか怖くて、急いで離れました」


 みのりはかすかに震えながら言った。


「えっ、そうなの?」


「はい……何だか、ゾクゾクとするような、怖さを感じて……」


「ぞくぞくとするような怖さ、ね」


 そういえば、さっきもみのりさんの体、震えてたな。みのりさんは、そこで何か怖い目にあったのかもな。蓮は内心そう思った。


 しおりはノートに書き込みを続けながら、みのりに尋ねる。


「この辺りって、ちらほら川があるんだけど……それはどうだった?」


「いえ、それは全然怖くなかったです」


 みのりははっきりと否定の意思を示した。


「そっか……これはあくまで推測だけどね……」


 二人がしおりの言葉の続きをじっと待つ。


「……多分、みのりさんはこの地域に縁がある人だと思う」


「それは、どうしてでしょうか?」


「……その川だけを怖いって思ったんでしょ?」


 しおりはみのりに確認する。みのりはこくりと頷いた。


「それなら、多分その場所を過去に訪れたんじゃないかな」


「それで……この地域に縁があるって思うの?」


 蓮は疑問に感じ、しおりに確認をする。


「うん、あくまであたしなりの推測だから。ただ、旅行とかで訪れただけの可能性も残るし、そこら辺は何ともね」


「あ、そういえば……」


 ふと、みのりが何かを言いたそうにする。


「どうしたの? みのりさん」


「……先ほど、立花さんとお弁当を買いに行ったんです」


「へぇ、そうだったんだ。で?」


 しおりは蓮とみのりが買い物に行ったことを、特に気にする様子もなかった。


「あの時、竹本商店というお店で買いましたよね、立花さん」


 みのりは蓮に身体を向けて確認した。


「うん。買ったね」


「それで……違和感を覚えたんです」


「違和感?」


 蓮としおりは同時に言った。


「はい。竹本さんという苗字も、お店の外観も……知っているような気がしました」


「そっか……なら、なおさら縁がありそうだね」


 しおりは少しの間考えるような仕草をした末、言った。


「みのりさんの感覚が正しければ、すんなり事が進むかもね」


「確かにそうかもしれませんね」


 みのりは道が見えたような気がしたのか、うつむき加減だった顔を上げて言った。


「うん! まずは希望を捨てないで、やれることをどんどんやっていこう!」


 そうして、しおりはエイエイオーのポーズを取る。つられるように、みのりも。


「は、はい! こつこつやっていきます!」


「その調子、その調子! 行動しなきゃ何も変わらないからね!」


「あのさ、安藤さんって、結構ポジティブなんだね」


「それが数少ない売りだからね!」


 しおりは蓮に向かって言った。


「よし、じゃあ、そろそろ行く?」


 先ほどの勢いのまま、しおりがみのりに確認する。


「あ、はい! でも、その前に」


「ん? どうしたの?」


 しおりがみのりを見てキョトンとする。


「私、一つ決めました。何を思い出しても、それを受け入れます!」


 それは、みのりなりの覚悟なのだろう。少なくとも、蓮にはそう見えた。


「わかった。みのりさんなら、きっと大丈夫だよ!」


 しおりは朗らかな笑顔でみのりに向かって言った。


「はい! ありがとうございます、安藤さん」


 みのりもしおりに負けじと笑顔を見せる。


「よし! それじゃあ、行こっか!」


「はい、行きましょう」


「行こう」


 三人は一斉に立ち上がり、子供の声が響き渡る公園を後にした。

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