第七話

狭いマンションの一室。室内は暗い。夜も深いせいか外からの喧騒も聞こえない。だが室内には一定のリズムで音が響いている。これはベッドの軋む音だ。次いで熱っぽい呼吸音。

「Nさん、小屋入りいつ?」

「月曜日」

「ふーん。あ、私受付手伝い行きますよ」

「…そうか」

「うん。Mさんから頼まれちゃったから断れなくて」

Nはとある女性と共にベッドで肌を重ねていた。熱情を交わした後で、Nは燻った体温を逃がすように紫煙をくゆらせている。それはいつもの事なのか、女性も咎める事なく、勝手に甘えかかっている。それでもNが文句を言わないあたり、二人の関係の密度を窺えた。

この女性はMでなければ、当然Iでもない。だが過去に劇団に関わっていた人間だ。NとMの関係を知りながらも、Nに誘われたので応じてしまってから早数年が経過している。

この関係をMは知っているのかと言えば、正直なところ良くわからない。ただ、劇団在籍中にMからこの女性への当たりがキツかった様に思えるので、もしかしたら知っているのかもしれない。

この女性はNと劇団しがみつく事はせず、Nからアドバイスを受けてあっさり劇団をやめた。そしてとある噺屋の門下へ入門している。そうなれば劇団とは関わらずに済みながらも、Nとは続けて関係がもてる。

Nとの相性がいいのか、他に恋人をもちながらも関係を続けている物好きだと、Nの女関係を熟知している座長などは陰で噂をしている。

Nは煙草をふかしながら、今日一連の出来事を考えていた。

Iの事故の時、Mは離れた場所にいた。当然ながら直接手を下した訳ではない。

それから、司から言われた事を考える。『生霊』というキーワードが脳裏に焼き付いている。だがその後に言われた言葉には、解せぬ気持ちが痼となっていた。

『本来ならばMさんのやるはずだった役をIさんが演じる事になった為に起こった事故じゃないかな』

違う…と、Nは軽く唇を噛んだ。

確かにMの役は取り上げた。だがその後にその役につけたのは別の役者だ。Iの役は元々の計画通り準主役。それにMに回した花嫁役は、気難しいMが心を許してる数人の役者を母親役においたので、いつもよりも稽古が楽しそうだ。

ならばどうして生霊が邪魔をする。

Nの頭の中にいくつもの仮説が浮かんでは消えていく。どれもその答えとして当たらない。

「Nさん?顔、怖いですよ。どうかした?」

女に言われて気付いた。咥えた煙草の先を歯でギリッと音がする程に噛み締めている。

「…なんでもない。もう寝よう」

「うん」

Nが灰皿に煙草の先端を押し付けて消したのを見て、女は無邪気にNに抱き着いてくる。Nが部屋の明かりを消すとおやすみとだけ呟いてベッドの中へと潜った。

暫くすると女からは寝息が聞こえ始めた。一方のNはと言えば、気がかりな事がありすぎて睡魔がやって来そうにない。

初日まであと幾日もない。なんとかしなければ、生霊とやらにまた邪魔をされてしまう。これ以上の怪我人を出す事は出来ない。稽古だってまだ確認したい事がある。衣装は?小道具は?大道具にも不備はないか?あの仕掛けは大丈夫だろうか。

いくつもの不安が浮かび上がり、この時間では何も出来ない事がもどかしい。それどころか苛立ちすら募ってくる。

ふと、隣で大人しく寝息を立てる女が腹立たしくなってきた。

こいつは学生時代から目をかけてやった。なのに自分の劇団には残らず外部に出ていきやがって。今だって俺がこんな目にあっているのに呑気に寝てやがる。父親がいないお前に甘えさせる腕を与え、散々美味いものも食わせた。なのにどうしてお前は!

ギリギリと指先が柔らかいものに食い込んでいく感覚がする。同時にとてつもない高揚感に襲われた。

「っ、苦しっ…!Nさっ…ん、やめ…」

ハッとして顔を上げる。女が喉を押さえて盛大にむせ込んでいた。

どうやらNは女の首を絞めていたようだと気付いたのは、眼下で苦しそうに咳込む女を見ながら感じた、指先の記憶だ。生々しい感触が指先に残っている。

「あ…ぁ…」

だがなぜその行為に至ったのかは全く身に覚えがない。Nは泣きじゃくる女を抱きしめ、すまないと謝罪をしながら何度も背中を摩った。

やがて落ち着いた女がNの腕の中で再び寝息を立て始めると、今度こそNも目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る