第六話
司がNから連絡を受けたのは、稽古見学に行った日の夜だった。
今日のIの事故について相談したい事があるという。もう本番まであまり時間が無いとの事でなるべく早く会いたいという。こういう時こそ当事者の嫌な予感というのは馬鹿にできないもので、司はすぐに待ち合わせの約束をし、N行きつけのバーへと向かった。
その途中、念の為三輝にも連絡をとったが、練習中なのか返事はなかった。司は軽く舌打ちし、伝言めいたメッセージを遺して新宿の店へと足を向けた。
夜の歌舞伎町は想像通りの喧騒に溢れている。客引きの声をあしらい、指定の店へと向かうと、既に待機していたNが手を挙げて司を呼んだ。
歌舞伎町を抜け、所謂横丁的な店は演劇人のめっからしく、通り過ぎる人にはどことなくクセが強そうな印象が多い。
案内された店はバーらしい。薄暗い照明が店内の一部分ずつを照していて、他にいるでろう客の姿をかろうじてシルエットとして見せている程度だ。
そんな店内を歩くと、司のこめかみが一瞬ズキンと痛む。
「…っ」
あまりの痛覚に司は眉間に指を添えた。
「どうかしましたか?」
Nに声をかけられ顔をあげると、司はいつもの薄笑を浮かべて首を振る。
Nの顔が見えない。見えないながらもいる場所はわかる。
司は導かれるままカウンターではない席に通され、Nの対面に座った。目線があったのか、ようやくNの顔が見えた。だがそれは、昼に会った少し厳しそうな演出家の顔ではなく、すでに数年が経過したと思われる程疲弊した表情をしていた。
席についた司は、オーダーもそこそこに単刀直入にNに向かい合う。
「正直に答えて下さい。思い当たる事、ありますよね?」
曖昧な問だ。
尤も、司には霊能力はない。祓う力はなければ、それを関知する事すら危うい。だが時折、酷く色濃く感じる事がある。突然の耳鳴りがしたり、どこかに触れられたり。それは自分とかなり波長があった場合であったり、そのナニかの想いが強かったり。
それと、まだそのナニかが存在している場合。
Nの話は劇団員づての噂話しか聞いていないが、長く一緒に活動している彼らの噂はほぼ真実と言っていいだろう。Nの周りには強い「想い」が渦巻いている。色濃い人間関係がNを取り巻いているという話だ。
司の強い視線に観念したのか、Nは重く唇を動かし始めた。
「M、という団員がいます。分かりますか?今日の稽古にもいたんですが…」
勿論司は覚えていた。Iが転落した後に笑っていた女優だ。それ以上に、帰り道に劇団員の噂として三輝から聞いた話の中に度々登場してきたのがMなので、否が応でも覚えている。
NとMは愛人関係にある。そう聞いたのも劇団員たちからの話によるものだ。
Mもまた、Iと同じ劇団で1年間演劇を学んできた。だがMはIと違い、予科は卒業出来たものの本科に進むことが出来なかった。ようは、その劇団にはIの芝居は認められなかったのだ。そうしてNの劇団へと戻ってきたが、こちらでもIの扱いは中々に厳しかったようだ。
Mの芝居にはクセがある。独特の台詞回しで、役柄も限られていて、実の所困った存在ではあった。だがその独特の台詞回しは、語り役にはハマり、Nの選ぶ戯曲にはその手の役が必ずと言っていい程登場していたので、Mは公演の度に役を与えられていた。
だが今回は違った。今回は語りの役があったにも関わらず、その役はMにはふられなかった。代わりに与えられたのは花嫁の役。それだけ聞くと華やかで女性なら喜びそうな役だが、さほど台詞もなく、紗幕という照明の加減で透けて見える幕の裏での演技になる。だからクセの強い表情も観客に見えづらいという理由で配役された。
恐らくMはそこに大きな不満を抱いたのだろう。
Nはそこまで話して口を閉ざした。
肝心のNとMの関係については、本人から告げられる事はなかった。
Nにまとわりつく「想い」は、明らかにMの物だろう。
本人から語られることは浄化にも繋がる。司は鋭い視線をNへと向け続け、更に話すことは無いかと問い詰めた。
重い沈黙が二人の間に生まれる。Nの額には汗が浮かび、司の視線から逃れるように時折目が泳いだ。
「Nさん、わざわざ俺に連絡してきたんです。腹は決まってるんでしょう?」
司の声にNが息を飲む。全てを話すべきか、葛藤しているのが手に取るように分かる。もうひと押しとばかりに、司は言葉を続けた。
「俺の意見を言わせてもらうなら、今日のIさんの事故は偶然じゃない」
「え…」
Nの眉間に皺が刻まれる。そう思う所も、また、疑う所ともあるのだろう。険しい顔つきの後、困惑した表情を浮かべる。
「生霊…そんな言葉を聞いた事はありませんか?恐らく、Iさんの件はそれだと思います。本来ならばMさんのやるはずだった役をIさんが演じる事になった為に起こった事故じゃないかな」
司の言葉に、Nは驚きながらも面食らった表情を浮かべた。
どうやら図星かと司は息を吐き出した。原因が分かればあとはMへの対処でなんとか事は終着するだろうと。
因縁めいた霊の仕業であれば、正直司には対処できない。だがその場合は然るべき人物を紹介できるし、生霊ならばまず当事者に現状を理解して整理してもらう。
今回は明らかに後者だろう。Nに問題を提示したのでもう解決は時間の問題だ。
Nはどこか腑に落ちない顔をしてはいるものの、これまで霊障になど遭遇した事のない人間ならばよくある反応だ。加えて、司が問い詰めても未だにNはMとの関係を告白しようとしない。生霊の存在など認めたくないと、その表情が物語っている。
あとはN次第。自分は導いた。
司は五千円札をテーブルへと置いて席を立った。
「公演の成功をお祈りしています」
それだけ告げて店の外へと出た。外気の凛とした空気を取り込むために大きく深呼吸をする。一度痛んだこめかみはもう軽い。
願わくば、他の団員にこれ以上被害が出ないようにと、通りがかった花園神社に一礼した。
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