第五話
本番まであと僅か。普段であればほぼ固まりつつある演出プランに、何か足してみたいと浮かんだアイデアを台本に軽く書き込む程度の時期だ。
演出のNは今夜の事故に頭を抱え、演出プランの練り直しを始めていた。
幸いIの怪我は大したものではなく、脳波にも異常が見られなかったためすぐに帰された。だが足には多少の打撲を負ったので、動きが制限されるようならば変更を余儀なくされるだろうという予備判断の為に台本を頭から捲っていた。
だがどうしたわけか、Nの頭の中にはその場面が入ってこない。集中が続かない。頭に浮かぶのは舞台の様子や稽古風景ではなく、床に倒れたIの姿だ。それと、Mの事。
劇団員でもあるMは、演出補佐を担う事も多い。それは演出と所謂愛人関係であるためだ。
Mも下手な役者ではない。ただ、少しクセが強い台詞回しをするため、演じる役が限られている事が多かった。それでも演劇集団IではこのMが演じる役が大抵存在しているため、干される事なく演劇を続けられている。
それにひきかえIといえば、所謂美少女だ。世間一般の感性の人に尋ねれば、10人中8人は美少女だと納得するだろう容姿。加えて芝居も上手い。となればIには公演の度に必ず役がつく。それもほぼ主役級。普通ならば他者からは負の感情を抱かれることも多いだろうが、Iは人格者でもあった。同じ役者仲間からは羨望よりもむしろ激励の視線を向けられる事が多い。I自身、他者と絡む事を好んでいるため、周りに人も集まる。スタッフ活動にも進んで参加するので、同期や先輩からは勿論、後輩からも慕われていた。
ただ一人を覗いて。
さて、前述のMの話に戻ろう。MはIとは正反対と言ってもいい性格をしている印象を、二人をよく知っている者なら持っているだろう。
Mはすぐに人の陰口を演出へと告口する癖があった。そのためMの前では皆ふざけた態度が取れず、心にもないお世辞すら言う事が多い。Nへの不満がMにバレようものなら、秒速で伝わる事も覚悟する程だ。
MとNが愛人関係になって、もう月日は長い。Mはそんな性格でもあるから、劇団員やゲストと度々衝突する事もあった。だが特にお咎めもなしで劇団に残っているのは、Nとの関係があるからに他ならない。
そして例外なく、MはIが嫌いだった。 常にNにも一目置かれ、いい役が与えられるMの事をむしろ憎んでいたと言ってもいいだろう。
劇団員と基本的に意見が衝突するMだが、特にIには当たりが強いように感じられた。
いつだったか、衣装の事でMが激しくIに詰め寄っていた事があった。大手衣装会社から借りた着物を、子供サイズにする為に丈を詰めた時の話だ。当然レンタル品なので借りてきた時と同じ現状で返すのだが、どうしても丈を短くしなければならなかったため、Mたちは極力気を配りながら丁寧に裾を縫い上げた。帯などで絡げる事も考えたが、それでは早替えに間に合わないというデメリットが生まれたため、仕方なく縫い上げたのだ。その出来栄えはとても丁寧で、糸さえ解けば返却にも問題ないものだった。
だがMはそこに言いがかりを付けてきた。尤も、Iへの文句はMの生き甲斐の様なものだったので、劇団員たちは最初「またやってるよ」程度のやり取りにしか思っていなかった。だがその時は違っていた。「やり直せ!」と、借り物だと分かっていたのに、Mはその折りあげた裾の糸を乱暴に引きちぎり、無理矢理に解いたのだ。当然の如く着物はほつれ、これでは弁償対象だろうと思う程の破け方をした。
誰もがMのせいだと思った。だがMは当然の様に自分の非は認めず、Iの仕事のせいだと言い張った。けれど事の顛末を他の劇団員は一部始終見ていたため、弁償するならIに負わせずに皆で折半しようと話し合っていた。
ところがこの時は違っていた。衣装を借りた外部組織が関連する出来事に、NはMを叱咤したのだ。
身内内の出来事ならばいつもの様に見て見ぬふりだったかもしれない。けれど外部が絡めば別だ。Iに弁償させればいい話という簡単な話ではない。きちんとお詫びに行かねばならないし、それは一スタッフには任せられず、代表である自分が行かなければという事であり、その原因を作ったMに怒りが募ったという訳だ。
それから少しの間Mは大人しくしていたが、喉元過ぎればなんとやら。MのIへの当たりは以前ほどではないにしろ、やはり強いままだった。
稽古場でふと視線を上げた時、Mが恐ろしい形相でIを睨んでいた事に気付いた事がある。あの時Nは、Mが自分の女だろうが、恐ろしいと感じたものだ。
Nの脳裏に、あの時の、すざまじいまでのMの怨みの表情が浮かんだ。
Mとは確かに男女の関係だ。だが甘く睦言を囁き合う仲ではない。あくまでも「都合がいい」から関係を続けていただけだ。それはMも承知をしている。だから長く関係が続けられていた。
けれどそこに第三者が絡んできたらどうだろう。
いくら説明をしても聞く耳持たないのがMだ。勝手にNとIの仲を邪推して。或いはNと対立する立場にいる座長S派だと思い込んでいたら。どちらにしても、N至上主義のMにとっては、Iが邪魔なのだ。
何故突然、Nの脳裏にMの怨みの顔が浮かんだのかは分からない。
来週の小屋入りを控え、Nは今日貰ったばかりの司の名刺を取り出した。
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