怪談 地下稽古場

この稽古場は以前は病院だった。地下には霊安室があり、今でもパジャマ姿で歩く子供や浴衣の女性などの幽霊を多く見るらしい。

そうまことしやかに学生たちの間で囁かれるのは、所謂この学校に語り継がれている怪談。病院跡地云々の真偽の程は定かではないが、いつの頃からかその類の話が後を絶たない。

三階建てのその稽古場は、とある学校が校舎として元々あった建物を買い取って専門学校としたらしい。一階は職員室と談話室。二階、三階は座学用の教室が三室ずつ。地下には防音のスタジオが二部屋あり、いずれも鏡とバーがあるので主にダンス系ノレッスンに使われる事が多い。

これはスタジオのある地下階で起こった話である。

稽古中、突然Cが叫び声をあげた。

今日の稽古は抜き稽古。演出の指示に従ってそのシーンに関係のある役者がバミりで印をつけて舞台を模した場所の中央に。Cはそのシーンは出ていなかったので、バミリよりも外にいてその稽古場所の台本を開いて稽古を見守っていた。

台詞のある役者二人にメインの芝居を任せ、オフで板の上にいる役者もアドリブでその場面に沿った演技を展開している。

Cは上手側に居て、壁を背に座っていた。後ろには壁があるだけで当然誰もいない。部屋の奥に座っていたため右側にも誰もいなかった。左側は少し隙間を開けて群舞の女優が二人並んで腰を下ろしている。

ふと、Cの台本が陰った。え?と思い顔をあげると、目の前に誰かが立っている。視界を遮る様に立っているのに、その向こうで展開されている稽古が見える。

Cは混乱した。あまりに訳の分からない状況に、一瞬思考が停止する。

誰もこの異常な状況に気付かないのかと、まずは演出卓を見た。演出は演出助手に指示をして、助手はダメだしをノートに纏めている。何も変わらない、いつもの稽古風景だ。恐らく演出達の目にはCの置かれている異様な光景が見えていないのだろう。

Cには特に霊感の様なものはない。生まれてから今まで、心霊体験などしたことがなかった。だがホラーは好きで色々と見てきた。だが実際目の当たりにするとどうだろう。目の前のナニかは相変わらずいるし、特に動きもない。場所もいわくのある地下スタジオ。何か考えようにも何をしていいのかもわからなければ、勿論お祓いなんて出来るはずもない。

そうこうしているうちにふと右側に気配を感じた。

Cの右側にはすぐに鏡がある。稽古の邪魔なのでカーテンが引かれているが、鏡とカーテンの間に誰かがいるというのも、稽古中では考えにくい。

いよいよCの中に「恐ろしい」という感情が芽生えてきた。どうしたらいい。声を出すか。いや、心霊現象などと騒ぎ立てて稽古を中断する訳には行かない。

ようやく動き始めた脳内を整理する様に、現状を一つずつ頭の中に並べていく。

その時だった。右側の気配が動いた。すっと足が動き、舞台空間へと入っていく。

そう、動いたのは足だった。「足だけ」だった。

赤いハイヒールを履いた、膝から下だけの足が舞台の中央まで歩き、止まって、正面を向いた。

Cの目線はその赤いハイヒールに釘付けになり、離すことが出来ない。否、動けなかった。視線はおろか、指一本動かす事ができない。

動け。動け。動け。

頭の中で叫ぶと、目の前にいたナニかが動いた。そのナニかはCには背を向けて立っていたはずなのに、ストンとCの視界に落ちてきたのは男の顔だった。

生気のない青白い顔と目が合う。表情もないその顔が、少しずつ動く。

Cは未だに動けない。鼓動だけが強まっていく。

目の前の顔がグルンと回り、上下が逆さまになった。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!」

稽古場全体をつんざく悲鳴。皆の視線がCへと向く中、演出は手を打ち稽古を止めた。稽古の妨害には明らかに不機嫌を露わにする演出だったが、Cの怯え方を見て続行は不可能と判断したのだろう。そのまま休憩時間に入る事になった。

演出は演出助手を伴って一服をすると言って喫煙所へ。座長ら数人の喫煙者も喫煙所へと向かっていく。女性陣は未だに怯えるCを宥めながら、外のベンチへと誘って行った。少しでも稽古場の空気から離してあげたかったのだろう。背中を撫でたり手を握ったり、体温を伝えて安心を伝えてやる。少し青白くなっていたCの顔色に赤みがさしてきた程に回復してきた頃、地下フロアにまた空気をつんざくような悲鳴があがった。

今度は一対なんだよと、悲鳴の聞こえた所まで役者達が走っていく。

その場所は女子トイレだった。場所が場所だけに男性陣が入る事ができず、Cを解放していたうちの一人が慌ててトイレのドアを開けた。するとそこには、YとSが抱き合って、トイレの床にへたりこみ座っている。

「何があったの?」

尋ねてみてもSは泣きじゃくり、Yは首を振るばかり。誰もトイレを使用していないからと、男性陣を呼んで二人もベンチへと座らせた。水を飲み、深呼吸させると、先に落ち着いたSが口を開いた。

「稽古中からトイレに行きたくて、真っ先に駆け込んだの。私が入った時には誰もいなかったと思う。用を足して出てきて、鏡の前で髪を直してたら、その鏡に女の人が映ったの」

要は、自分の他には誰もいなかったはずなのに、誰かが後ろを通ったと。鏡に映ったのは、トイレから出てドアに向かう方向だったという。

可能性として、Sが個室に入っている時に誰かがトイレに入って来た事も考えられるが、この地下フロアは全ての部屋(トイレも含む)のドアが厚く重みのあるドアなのだ。誰かが入ってくるのがすぐに分かる音がする。Sに確認すると、誰も入って来なかったと。その鏡の件があり、え?と思いながらもまだSは髪をいじっていた。それから程なくしてYがトイレへとやって来た。Yが用を足し終え、やはり鏡の前の手洗い場のところへとくる。「さっきね…」と軽口で先程の出来事をSが説明すると、突然トイレ内の照明が落ちた。何度も言うが、ここは地下フロア。明かりが落ちれば真っ暗になる。にも関わらず、彼女達の前にはナニかが現れたというのだ。それは真っ青な男の顔。そしてソレは、グルリと上下が逆さまになるように回転をした。彼女たちはほぼ同時に悲鳴をあげ、すぐに仲間が駆けつけた時には電気がついた後だった。

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