怪談 見守る影たち
舞台の上。Iは一人、中央に立ち目を閉じていた。
舞台の上には他に誰もいない。
青の薄めの光が舞台全体を包み、Iの頭上から細く白のスポットライトが、Iだけを照らす為に細い光を放っていた。
Iが一人で板に立っているのは、客入れ芝居の為。開場し、お客様が作品の世界に入り込みやすいようにと作られた、導入部だ。
作品によってその客入れ芝居も様々な世界観を作るが、今回は劇場に足を踏み入れたお客様が最初に見る世界がIが1人で立つ舞台。
今はその世界を作る最終稽古。衣装を着て、照明を入れ、演出はIが作る舞台空間の入口を見守っていた。
開場され、30分程かけて行われる客入れ芝居はゆっくりと少しづつ世界を展開させていく。穏やかな音楽が流れ、時間経過と共にその音の幅が広がっていく。そして照明も変化する。細かった白い光をが少しずつ太くなっていくに連れて、Iも少しずつ形が変化していくのだ。
初めは両手が胸の前でクロスされ、まるで祈りを捧げる様なIの姿が、ゆっくりとその腕が解かれて片腕が伸ばされていく。宙を動き、指先が何かを求める様に、ゆっくりゆっくり。
ふと、Iは足元に気配を感じた。目は閉じているため確認が出来ない。けれど、足元に誰かが座り込んでいる気がする。
これは最終通し稽古。所謂ゲネプロは、衣装を着け、照明や音楽、舞台セットの移動も本番と同じ様にして行う、最終確認も兼ねる稽古だ。
もしかしたら、舞台監督が照明の加減を確認するために舞台上に来たのかもしれないと、Iは思った。だから音楽きっかけで変わる動きを続けた。
片腕を伸ばしたらもう片腕も。そうしてそれに合わせて身体の軸も動いていく。足は決して動かない。あくまでも手の動きだけでその世界を表現している。
伸ばした両の腕がまた身体の中央へと寄せられる。
それはこの世界の全てのエネルギーを己がものにする為に。集められた気を内に取り込むかの様にその手を心臓の前でギュッと握ると、音楽が一際高く鳴った。
間もなく幕が上がる。Iはその手を、今度は両腕一緒に前へと伸ばす。同時に双眸をゆっくりと開く。
そこで初めて視界が明らかになったが、足元には誰もいなかった。そういえばいつの間にか気配も無くなっていた気がする。後で舞台監督に聞いてみようかと、そんな事を考えているうちに、左右の袖から数人の役者が現れた。彼らはIが見えないかの様に舞台の上で思い思いの動きをする。後は客入りを確認して舞台中程の幕が振り落とされれば開幕だ。
そうして舞台の幕があがった。
ストーリーは、役者になったばかりの少女が、役を落としきれない役者達に翻弄されて芝居という虚構の世界に入っていくという物語。
Iの役割は、まずはこの劇場を見守るアフロディーテという役割を担ったオリジナルの役柄だったので、この後の本役で芝居に出るために一旦着替えに楽屋に戻った。メイク直しも必要だったため、舞台監督とは話す事なく楽屋に向かう。
そうして芝居は止まることなく進み、勿論Iも本来の役もそつなく演じ、舞台全体がフィナーレを迎えた。
幕が降り、ようやく演出から声がかかると、役者とスタッフは一同に舞台へと集まった。ダメ出しが行われる。 劇場に入っているとはいえ、プロフェッショナルな以上は直しが続く。
案の定演出の眉間には深い皺が刻まれていて、明らかに不機嫌な様子。これには役者陣だけでなく、スタッフも肝を冷やしてしまう。一体どんなダメを出されるのだろうかと、溜息混じりで演出の言葉を待った。
「まず…」
演出の声と共に指さされたのは上手の舞台に設置されている穴だ。この舞台は、舞台奥から手前について傾斜がつけられた、所謂八百屋舞台の形式が取られていて、上手下手それぞれに高さがあるため「穴」が作られていた。
それは演出上様々な事に利用をされた。時には役者が入り腰程までを出して芝居をしたり、その穴に向けて小道具を投げ込む芝居をしたりと。
演出が示したのはその穴だった。
「暗転してからは穴から顔出すなよ」
演出が不機嫌そうな声でそう告げると、該当者は誰かと皆の目がキョロキョロと辺りを見渡し始めた。だが誰も挙手をしない。
まあ、ここで挙手しては怒られるのが目に見えているのでその気持ちも分からなくはない。だが放置していたら更に演出の怒りを買うだけだ。
「暗くても見えるんだよ!」
とうとう演出が痺れをきらして怒号を発した。さすがにこのままにしておけないと、座長が立ち上がって「誰?」と尋ね始めた。それでも誰も反応しない。
「そういう所気をつけていかないと…」
そう前置きをしつつ、まず疑われたのはその穴から顔を出して芝居をする役者二人だったが、二人とも首を振っているので該当者ではないらしい。そもそも二人ともそこそこの年齢の中堅役者なので、そんなミスはないだろう。
では一体誰が?
すると演出は少し考えてから、何かハッとする様な表情をしてその怒りを急に沈めた。
「まあ…気をつけて」
この急激なクールダウンに、団員やスタッフは思わず困惑した。芝居に関しては妥協する事のない演出が、一体どうしたのだろうか。それでも該当者は名乗り出ず、それ以上の怒りを向けられなかった事が幸いと、そこにいたメンバーは皆胸をなでおろした。
「それじゃ、次」
気持ちを切り替えて次のダメ出しに、メンバーは台本に目を向ける。
「真ん中の扉、やっぱりこれも暗転後に通った人影あったから。開いてる時は暗転中でも通らないように」
先程のダメ出しとほぼ似た様な内容だったが、やはり演出には思う事があったのか、厳しい物言いではない。だが、役者陣にとっては同じミスでのダメ出しはあってはならないと、少しピリピリした様子で周りの役者たちと目配せをしていた。
「あの…」
そこで手を挙げたのが、裏方に入っていた学生だった。
この劇団の演出は演劇学校でも授業を請け負っていたため、有志の生徒たちが本公演を手伝っている。それは彼ら自身の勉強にもなるので、声を掛けられた学生たちは毎回スケジュールと調整しつつも参加してくれていた。
そんな学生たちは、自分が裏方であるという事と、まだ若輩者だという自覚があるからか、ダメ出し中の発言はほとんどない。問われた時だけだ。そんな中で手を挙げた学生に、座長が「どうした?」と声をかけた。
演出ではなく座長からの声掛けに、緊張していた学生の表情が僅かに楽になる。すると彼は一呼吸いれてから口を開いた。
「俺、上手側の扉を担当しているんですけど…」
このセンターの扉は、観音開きになっており、滑車を利用して、ロープを引くと自動で扉が開く仕掛けになっていた。彼はその担当で、基本的には仕掛けのロープに手をかけたままその場所に飼い殺しになっている。その彼の証言に、演出を含むスタッフ、役者は息を呑んだ。
「ドアを開けていた時には誰も通ってないです」
この証言には演出も目を見開いた。見ると下手側の扉担当の学生も何度も頷いている。さすがに皆がザワザワと小声で何かを話始め、視線は自然と舞台の方へと向いた。
「まあ…うん、本番中には通らないという事で…」
座長がそうまとめると、一同「はい!」と声をあげてこの日は解散となった。
何があろうと明日は舞台の幕があがる。気にするなという無言の圧力にも近い「撤収」の声に、仕方がないと皆帰り支度を始めた。 その最中、客入れ芝居を担当していたIが舞台監督のHの所へと歩み寄った。彼女がずっと気になっていた事を確認する為だ。
目は閉じていた為、気のせいと言ってしまえばそこまでだ。だが演出からの不思議なダメ出しに、あの気配が気になって仕方がない。
「あの、今日の客入れの時ってHさん私のそばに来たりしました?」
「俺?行ってないよ」
Iは「そうですか」とだけ言って劇場を後にした。
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