第14話 森の胃袋①
馬車を降りると、それは目の前だった。
あの時に見たのと同じ、深く静かな森が正面に広がっている。
とうとう、ここに戻ってきた。あの日逃げることしかできなかった、この場所に。
息を呑む。緊張が強くなり、身体が硬くなっているのが分かった。灯が、マムラが、逃げる自分の姿が、フラッシュバックしていく。心臓の鼓動が一息で高まっていく。
肩を叩かれて、身体がびくりと震えた。ぎこちなく横を向くと、ノエルの励ますような微笑みがあった。
「緊張してる?」
「……うん」
「大丈夫。何があっても私がついてるから」
「うん」
再度頷く。
ここまで、ノエルに助けられてきた。これから先のことだって、ノエルの協力なしでは成し遂げることはきっとできない。
それを考えると開き直る気持ちになれた。震えも緊張も、少し収まった気がする。
「ノエル……」
お礼を口にしそうになって、ふと思いとどまる。まだ何も終わってはいない。ありがとうを言うのは、成し遂げたそのあとだ。
だから、別のことを口にした。
「行こう」
「うん、行こう」
ノエルがばしんと由流華の背中を叩く。痺れが心地よく、身体がまた軽くなったような気がした。
森の中に、強く一歩を踏み入れる。
ようやく、この日が来た。
☆☆☆
「明日、森の胃袋に行こう」
訓練を終え、いつものようにノエルの家で夕食を摂っているといると唐突にノエルが言った。
うっかり聞き逃しそうにすらなって、え? と間の抜けた返事しかできなかった。
ノエルは微妙に目を細めて、迷うような口ぶりで続けた。
「そろそろ由流華の身体強化も通じるレベルにはなってきてるとは思うんだよね。それに……」
ノエルは一瞬目を伏せて、両手を合わせて謝罪した。
「ごめん。これは私の都合なんだけど、そろそろ仕事に戻らなきゃいけないんだ」
「仕事に……」
ここまで一週間ほどノエルは由流華につきっきりだった。考えるまでもなく、ギルドに所属しているノエルには本来の仕事があるはずだ。
「私のギルドのメンバーは今遠征に行っててさ、戻ってきたら私も仕事にかからなきゃいけないんだ。そうなったら由流華を森の胃袋に連れていくのは結構後になっちゃう。もちろんそうすればその間も由流華は訓練できるし、もっと安全に戦えると思うけど……」
ノエルの物言いたげな眼差しを受けて、その先の言葉も理解できた。
口ぶりから、後になっても森の胃袋の案内はしてくれるようだ。待ってると言えばより安全に行うこともできるだろう。
だが、由流華の口から出たのは反対の言葉だった。
「明日、行くよ」
由流華を突き動かすのは、マムラへの復讐だ。それだけを考えて、訓練にも真剣に取り組んできた。
一日でも早く、成し遂げたい。
その気持ちが由流華に待つという選択を取らせなかった。
「実際、普通にやれれば勝てるレベルには来てるよ。懸念はあるけど、それはなるべく私が潰すから」
「わかった」
ノエルがそう言ってくれると、安心感がある。短い付き合いでも、自分に付き合ってくれて真剣に訓練をしてくれているノエルへの信頼は相当強いものになっている。
ノエルができると言うなら、きっとできる。
「もう一つ、話しておきたいことがあるの」
ノエルが改まるので、由流華も思わず居住まいを正した。
「この件が終わったらどうするかって考えてる?」
「ううん、まだ何も」
ノエルはそうだと思ったとでもいうような微笑みを浮かべた。
「うちのギルドに入らない?」
「ノエルのギルドに……?」
「うん。うちのギルドはリヴァイブって言って、転生者だけの集まりなんだよね。みんな同じような境遇だし、話しやすいと思うんだ。同じぐらいの年の女の子もいるから」
「あたしが?」
きょとんと訊き返す。
マムラを殺した後のことは、本当に何も考えていなかった。冷静に考えれば、今だってノエルの好意で家に泊めてもらっている状態だ。由流華はそれに対して何も返せていない。そのことを思わないわけではなかったが、ノエルの優しさに甘え続けた。
復讐のその先は、生きていれば必ずやってくる。
「……これが終わったらの返事でいい? 今は、他のこと考えられない」
「うん、もちろん」
ノエルはあっさりと返事をして、食事に戻った。
由流華も食事を再開する。すぐに心が復讐で一色になり、高揚を感じた。
明日、ようやく復讐を果たせる。
今はただ、この衝動に身を任せたかった。
☆☆☆
一歩森に入るだけで、カーテンを閉めるように暗くなった。とはいえ木漏れ日は差していてノエルの姿を見失うと言ったほどのものではない。
首だけで振り向くと、森の出口にはしっかりと明かりが見えた。
ノエルの説明によると、森の胃袋は奥に行くほど少しずつ暗くなってはいくらしい。微妙な差らしいので、わからなくても仕方ないとノエルは言っていた。実際こうして見てみても、そんな風になっているのかはわからない。ただの暗い森だ。
ノエルがランタンに魔法で火を点けた。周囲がぼんやりと明るくなり、ノエルの顔もはっきりと見える。
「これでマムラは寄ってこない。じゃ、進んでいくよ」
促すノエルに頷いて、ついていく。
迷いなく進むノエルの背中を見ながら、耳を澄ませる。自分たちが歩く足音ぐらいしか耳に入ってこない。マムラは遠巻きに自分たちのことを見ているのだろうか。それとも、明かりが消えるのを期待して様子をうかがっているのだろうか。
十五分ほど歩いて、ノエルが足を止めた。
「ここらへんにしようか」
「うん、わかった」
二人がたどり着いたところは、広場のように開けた場所だった。ぽっかりと空間が空いていて、十分な広さが確保されている。
確かにここならちょうど良さそうだ。
作戦は昨夜のうちにノエルから聞いている。鞄から瓶を出して、中の液体を広場内に円の形で撒いていく。
撒き終えると、円の中央に鞄から取り出した生肉を置く。そうしてからノエルと二人で円の外で出て、木の陰に隠れた。
陰から円の中央を覗く。光の届かない場所なので、よくは見えないが。
必要な準備はこれで済んだ。あとは機会が来れば実行するだけだ。それなのに、あまり現実味が感じられなかった。足が地面についていないかのような妙な感覚だ。
由流華の手を、何かが掴んだ。声を出すのをなんとか我慢して、そちらを見やる。
ノエルは力強い眼差しで由流華を見つめ、励ますように囁いた。
「大丈夫、由流華ならできる」
励ましに力を受けて、頷き返す。そうだ、ここまで準備を整えてもらった。不安になっている場合ではない。
ノエルが広場の方を指さした。中央の辺りで何かが……動いてる? わずかに咀嚼するような音もする。
(かかった)
ノエルの手を握り返して、お願いと合図する。
ノエルが指を立てると、ランタンの火が分離した。ほんの小さな火が、宙にふわふわと浮かんでいる。
「じゃあ、やるよ。なにかあったら……」
「助けてっていう。わかってる」
ノエルは確認するように由流華を見た。そして握っていた手を離し、指をふいっと振った。
火は意外なほどの速さで飛んでいき、さきほど由流華が撒いた液体に触れた。
ぱっと閃光が瞬き、思わず目を閉じた。
すぐに目を開く。火は円形に撒いた油に引火して、リングを形成していた。中央ではけたたましい鳴き声が響いている。
ノエルがさらに手を振ると、円形の炎が高く立ち上った。由流華の背丈より、少し高いぐらいだろうか。
「これで確実に出てこれない。頑張って」
「うん、行ってくる」
深呼吸して、ゆっくりとリングに近づいていく。炎が近いのに、なぜだか温度をあまり感じない。ノエルが何かしているのか、身体強化の影響なのか、緊張が過ぎてるのかはわからないが。
ノエルにもらった武器を手にする。いよいよ、始まる。
「いいよ」
リングの前に立ち、ノエルに声をかける。
リングを形成している炎の壁が、由流華が通れるぐらいの隙間を開けた。すぐさまにその隙間めがけて影が飛んでくる。
その影を正面から思い切り殴り返す。ボールのように飛んでいく影を見ながら、リングに足を踏み入れた。
リングの中には、三匹のマムラがいた。今殴り飛ばした一匹とは別の二匹は急な炎に狼狽えているのか右往左往している。
『邪魔が入らない場所を用意して、そこで戦う』
言ってしまえばそれだけの話だ。炎のリングを作ればマムラは逃げることはできず、外から入ってくることもできない。
由流華が希望したのは、正面から戦うこと。無抵抗な状態で殺すことは、どうしても嫌だった。
由流華と灯は、逃げようとして襲われた。だから、由流華も無抵抗なマムラではなく追い詰めて正面から全力で殺してやりたかった。
狼狽えていたうちの一匹が、由流華に向かって激しく吠えたてた。
これまで訓練をしてきて、それなりに身体強化を扱えるようにはなってきた。とはいえ、学校で運動ができる人に並んだかという程度でしかない。由流華にとっては戸惑うほどの成長ではあるが、魔物と戦うには心許ない。
必要なのは胆力だ、とノエルは言っていた。耳慣れない単語だったが、要するに気合いだとも言っていた。怯むことなく殺すことができるのかどうか。それがどうしてもできなくて、冒険者を諦める人も多いらしい。
動物を自分の手で殺したことなんてない。暴力を以って戦ったこともない。
けれど、迷いはなかった。
ナイフを前方に構える。ノエルに買ってもらった小柄ながら肉厚のナイフだ。柄を強く握りしめて、真っすぐにマムラを見据える。
吠えたてていたマムラが矢のように飛び掛かってきた。反射的に横に動いて、ナイフを思い切り突き立てた。
重い手応えが手に伝わり、結果が眼前に広がる。
ナイフが根元までマムラの顔面に突き刺さっていた。マムラはばたばたと痙攣して、ぐったりと動かなくなった。
(死んだ)
手応えからもそれを確信する。心は思った以上に動いていない。むしろ動揺のなさに動揺するほどだった。
ナイフを振ると、マムラの死骸が地面に落ちてべちゃりと音を立てた。
ここまでのことがあっても、残りのマムラは炎に混乱したままのようだった。吠えながら右往左往している一匹を、冷徹に見下ろす。
いや。
(一匹?)
違う。マムラは三匹いたはずだ。
咄嗟に体が動いた。ノエルの石投げの訓練で身についた動きだ。しかしそれはノエルの石よりも早く、殺意に溢れていた。
それでも躱せたことに由流華自身が驚いていた。顔面の横を、黒い影が駆け抜けていく。闇雲にナイフを振るうのだが、手ごたえもなく空を切る。
体勢を直しながらマムラの姿を探すと、直後に右足に衝撃を感じた。
「――――っ!」
噛まれた。耐久力を上げていたので、歯を立ててはいるが皮膚は破られていない。が、少しずつ力が強まっていくのが分かる。
マムラは噛む力を少しずつ強めていく魔物とノエルは言っていた。対処しなければ、由流華の足は噛み千切られてしまう。
ギロリと光るマムラの目が、由流華のそれと交錯した。身体強化を全部右足の耐久に振り切って、マムラにナイフを振り下ろす。
刺さった。が切っ先がわずかに食い込んだ程度だ。マムラはうなり声をあげるが、由流華の足を離そうとはしない。
何度刺しても、深く差し入れることができない。耐久に全部割り振っているせいで、ナイフを突き刺す腕力が弱いままなのだ。
全力の耐久でも、噛まれている足が少しずつ痛んでいく。腕力に割り振れば、足がどうなるかはわからない。
「知るかっ!」
吠えて、身体強化の割り振りを変えた。半分ほどを腕力へ。
直後に、歯が皮膚を食い破る感触があった。歯を食いしばり、ナイフをマムラの頭に突き立てる!
ナイフの半分ほどが刺さった。が、マムラの噛む力は弱まらない。
何度もマムラの頭に突き刺す。それでも弱まらないので、突き立てたナイフをほじくるようにしてマムラの頭を削っていく。
そうしているうちに、足にかかっていた圧力が嘘のように消えた。粘着力がなくなったテープのように、マムラがぽとりと落ちた。
息を荒らげて、額の汗を拭う。ナイフから血がしたたり落ちていて、由流華の右足からも血がにじんできていた。痛むが、歩くのに不都合はなさそうだった。
「あと一匹……」
残りのマムラを探して視線を巡らせる。
さっきまでおろおろとしていたマムラは、ぴたりと静止して由流華を見つめている。
「…………?」
何かおかしい。敵意のある眼差しではなく、呆然としているような。まさか、仲間が殺されてこうなっているのだろうか。
訝る由流華の前で、マムラは突然上空を見上げてけたたましく吠えたてた。吠えるというレベルではなかった。サイレンが鳴っているかのような、とてつもない不快な大音声だ。
耳を押さえて、警戒感から全身に耐久を割り振る。わからないが、何か予想外のことが起こっているのは確かだ。
リングに何かが投げ入れられたようにぼとぼとに黒い塊が降ってきた。
見上げる。どこからか、炎のリングを飛び越えてマムラが次々と中に振ってくる。動けない由流華の前で、状況は進んでいく。
リング内のマムラの数は、すぐに十匹を超えて増えていた。
悪寒とともに理解する。これはもう――由流華にどうにかできる事態ではない。
「ノ――」
ノエルの名前を呼ぼうとした瞬間、マムラが一斉に飛び掛かってきた。
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