第3話 異世界での目覚め③

「あなた、名前は?」

「柳沢……由流華、です」

「そう、私はダイアナ。ダイアナ・アルレイドよ」


 名乗って、女性――ダイアナは由流華に手を差し出した。

 由流華は少しの間ぼーっとそれを見ていたが、やがてのろのろとダイアナの手をつかんで立ち上がった。


「……とりあえず乗りなさい」


 ダイアナは何か言いたそうにしたが、結局はそれだけを言った。

 手を引かれて馬車に乗り込む。中には男性が二人乗っていたが、由流華を見ると顔をしかめてよそを向いてしまった。

 由流華はその反応に何も感じず、促されるまま座り込んだ。

 馬車が動き出した。由流華は何も見る気にも話す気にもならず、膝を抱えて顔を伏せる。


(あたしは、最低だ……)


 守れなかった。それどころか、灯が襲われているのに逃げ出してしまった。

 目の前で、二度も灯が死んでいくのを見た。

 灯といつものように学校から帰っているだけのはずだったのに、訳の分からないことだらけで説明のつくことは何もない。ただ、灯を失ったという現実だけが由流華にのしかかっていた。

 灯を守るなんて口だけで、何もできずにこうして生きている。


(なんでこんなことになったんだろう……)


 膝を強く抱いて、涙を流し続ける。灯に傍にいてほしい。それさえ叶えば、他のことはどうだっていいのに。

 どれぐらい時間が経ったのか、馬車が止まった。


「ユルカ、着いたよ」


 名前を呼ばれたことで、のろのろと顔を上げる。

 真横に座っているダイアナが気遣うように由流華に微笑んでいた。


「降りるよ」


 立ち上がるダイアナにふらふらとついていく。馬車から降りる時も手を貸してもらった。

 ダイアナが御者に支払いに行っている間、由流華は別のものを見ていた。


「何、これ……?」


 由流華の目の前に広がっているのは、壁だった。高さは2メートルほどで、左右に果てしなく広がっている。

 門のようなところがあり、人が出入りしているのが見える。その先には、街があるようだった。

 人が住む街なのは間違いなさそうだったが、こんなものは今まで見たことはない。少なくとも、日本のものではないとわかる。


「お待たせ、入ろうか」


 声にびくりと肩を震わせて振り返る。ダイアナはきょとんとして、苦笑を落とした。


「大丈夫、取って食いやしない。落ち着ける場所につれていくから」

「大丈夫……?」


 いったい何が大丈夫だっていうんだろう。灯がいないのに。

 ダイアナが歩いていくのを棒立ちして見ていると、ついてこないことに気づいたダイアナが振り返った。

 由流華のところまで来て、手を取る。そのまま歩かれると、由流華も抵抗をせずについていった。

 門のところではダイアナだけが話し、すぐに通ることができた。門番の男は由流華をちらりと見て顔をしかめたが、何かを言ってくることはなかった。

 都市に入っていくと、市場のようなものが道に連なっているのが見えた。露店と考えればいいのだろうか。門を抜ける前から聞こえていた賑わいをさらに強く感じた。

 人通りも多く、通り抜けるには苦労しそうな通りだった。

 ダイアナは由流華の手を引いてその通りを進んでいき、由流華は黙ってついていく。人にぶつかりそうになるたびに体が震えるのだが、今はそれを止めてくれる灯はいない。

 市場を抜けても、由流華の見知っているものは何一つなかった。建物も日本のものとは違う。ゲームで見たファンタジーの街並みが近いように思える。中世、のような。

 そのあたりの違和感を感じとってはいたが、まともには考えられなかった。今はほとんどの思考力を失っている状態だ。

 しばらく歩いて、ある建物の前でダイアナは足を止めた。


「ここが私の職場。今日からしばらくユルカにはここにいてもらうから」

「え?」


 疑問に問い返すが、ほとんど声として出ていなかった。そのせいかダイアナも気づかなかったようで、手を引かれて建物に入った。

 正面に受付のようなカウンターが横に広がっていた。まるで役所のような雰囲気だった。

 ダイアナを由流華の手を引いて、カウンター脇の戸を抜けた。そのまま奥にある階段を上っていく。


「まずは、シャワーを浴びてきなさい」


☆☆☆


 シャワーを浴びると、着替えが用意されていた。なんの変哲もないシャツとズボンで、ぼんやりとそれらを着た。


「ユルカが着ていたものは洗うから。ひどい状態だったからね」


 脱いだ時に気が付いたのだが、走りながら吐いたりしたせいで制服がかなり汚れていた。気にしていなかったが匂いもひどく、顔をしかめる人がいたのはこのせいかと思った。

 着替えた由流華を見て、ダイアナはねえ、とゆっくり話し始めた。


「あなたは今混乱していると思う。いろいろ説明しなきゃいけないことがあるんだけど、話は聞けそう?」

「…………」


 ぼんやりとダイアナを見返し、かぶりを振る。

 今はもう、なにもかもがどうでもいい。

 ダイアナは小さく頷いた。


「そうだよね。あなたの部屋を用意しているから、今日はもう休みなさい。明日になったら、また考えましょう」


 そう言って、由流華を二階の端の部屋に案内した。


「私の部屋は向かいだから、何か不備があったら言って。ご飯が欲しかったら言ってくれればいいから」

「……はい」


 由流華の返事を聞いて、ダイアナは部屋の戸を閉めた。

 足音が遠ざかっていき、やがて静寂だけが部屋に残る。由流華は部屋に入った状態のまま、ただ棒立ちになっていた。

 シンプルな部屋だった。八畳ほどの大きさの部屋に、ベッドとテーブル、それに椅子が置いてある。他に調度の類はなく、人が使っていなかったことだけはわかった。

 しばらくして、ベッドに座り込んだ。


「灯……」


 落ち着くと、考えるのはそのことだけだった。

 灯はいない。由流華の目の前で黒い子犬に喰われていったからだ。逃げ出し、由流華だけが生き延びて安全な部屋に座っている。

 どうして、自分だけが。

 そんな思考がループする。灯を失ったことと、自責の念だけが由流華を満たす。

 これなら。


「一緒に、死ねたら良かったのに」


 自分のつぶやきで気が付いた。それは今からでも遅くないように思えた。

 灯の元に行けば、きっと二人とも寂しくない。灯にごめんなさいと謝り、一緒にいようと言えばいい。

 思いつくと、すぐにそうしなければという焦燥感があふれてきた。いてもたってもいられず、すぐに部屋を出た。

 どこでどうするかのかは何も考えずに廊下を進むと、別の部屋からダイアナが出てきた。


「あら、どこか行くの?」

「あ、いや……」


 言いよどむ由流華を特に気にした風もなく、ダイアナは両手に持ったコップを掲げた。


「コーヒーを用意したの。飲める?」

「……はい」


 コップを手渡される。湯気が立っているコーヒーに、わずかに視界がにじんだ。


「何か用があった?」

「いえ……」

「じゃあ部屋に戻ってそれ飲んでいなさい」

「…………」


 応じる気力もなく視線を落としていると、肩を叩かれた。

 顔を上げるとダイアナは真剣な表情をしていて、気圧されて身を引いた。


「今日はもう何も考えない。この建物からも出ない。お腹空いたならなんか食べて、そうじゃなかったら寝ること。いい?」

「……はい」


 語調に圧されて、こくりと頷く。ダイアナはよろしいと頷き、部屋に戻るように促した。

 部屋に戻りながら何度か後ろを見てみたが、ダイアナはじっと由流華のことを見ていた。

 部屋に入ってコーヒーはテーブルに置いた。ベッドに腰かけて、上体を倒して横になる。

 自然と涙があふれ、とめどなくシーツを濡らし続けた。


「灯、ごめんなさい……ごめんなさい……」


 灯への謝罪だけが、部屋に静かに流れていた。

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