第2話 異世界での目覚め②
どれだけ歩いても、景色は変わらなかった。疲れ、足が痛み、喉が渇き、空腹も感じてきた。灯が何も言わないので、由流華も我慢してそういった訴えは口にしなかった。その代わりに、思いついたことが口から漏れ出る。
「なんなんだろう、これ。夢を見ているのかな」
「……現実だよ」
「ひょっとして、あの世?」
「たぶん違うよ」
由流華のぼんやりとした話に、灯は短く答えていく。いつもなら、もっと饒舌で冗談を交えた返答がくるのだけど、さすがに状況が状況だ。灯もふざける気にはなれないのだろう。ふざけてほしいわけではなかったが、この状況が異常なのだと突きつけられるようで不安が大きくなる。
けれど、灯だって不安に決まっている。灯を守ると口にしておいて、ただ手を引かれているのは嫌だった。
数歩だけ大股で進んで、灯の横に並んだ。が、二人並んで歩くには木々にさえぎられて難しい。もう少し前に出て、由流華が前に立った。手は繋いだままだ。
灯は何も言わなかった。暗い森の中をただ黙って歩いていく。
森の中はとにかく歩きにくい。見えにくい足元に木の根が這っていて、すぐに足を引っかけて転びそうになる。そのたび木に手を着いたり灯に支えてもらったりしていた。
少しして、なんとなく道っぽくなっているようなところがあった。獣道というのか、歩きやすそうにはなっている。
灯を振り返ると、ちょこんと小さく頷いた。頷き返して、そちらへ足を向けた。
暗さは何も変わらないが、歩きやすさは格段に変わった。つまずくことはなく、真っすぐに進めている。
目を覚まして、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。疲労は重く汗だくで、へばりついたシャツが不愉快だった。叶うならすぐにでもシャワーを浴びたい。
「ねぇ灯」
ちょっと休憩しようと言いかけたところで、すぐ近くから物音がした。草むらをかき分けるような音だ。灯と顔を見合わせて、音がした方に注意を向ける。
人、だろうか。それとも、動物か。こちらから何か言った方がいいかもしれないが、悪い結果を招くかもしれない。
灯の握る手に力が込められた。握り返して、大丈夫、守るからと声に出さずに念じた。
しばらく動かずにじっとしていたが、草むらから黒い影が飛び出した。
「危ない!」
反射的に灯の手を思い切り引っ張った。黒い影は灯がいたところを突き抜けて反対側の草むらへ消えていった。
「灯、逃げよう!」
灯の手を引いて走り出す。なにがなんだかわからないが、自分たちの助けになるようなものではないのは明らかだった。
疲労が重なった体が、すぐに走る足を鈍らせた。呼吸は乱れ、足はもつれる。それでも止まるわけにはいかず、ひたすらに前に向かって足を動かし続ける。
いきなり灯の手が離れ、背中を突き飛ばされた。地面に倒れ、肩越しに振り返ると灯がわき腹を押さえてうずくまっていた。
「灯!?」
灯のわき腹に、何かがくっついている。黒い子犬のような生き物が、灯に嚙みついているとわかった。這うようにして灯に近づき、黒い子犬を引きはがそうとつかんだ。
全力で引っ張り続けると、なんとか離れた。黒い子犬を適当に放り投げて、灯に声をかける。
「灯、無事!?」
「う、うん……大丈夫」
近づくと、黒い子犬が噛みついていたところの制服が破け出血しているのがわかった。それを見て、由流華の頭は一瞬でパニックに染まった。
「由流華」
灯は消え入りそうな声で、由流華に囁いた。
「逃げて……」
「一緒に行くに決まってるでしょ!」
灯の声でパニックが吹き飛んだ。叱るように叫んで、灯を起こして肩を貸して走り出す。灯は寄りかかるようにしながらもちゃんと自分の足で進んでいた。怪我が深いわけではないと察してほっとするが、安心できる状況では全くない。
進む速度はかなり遅くなっている。いつまた黒い子犬が襲ってくるのかわからない。速く走らなきゃと焦るほどに、足がもつれそうになってしまう。
「嫌だ嫌だ嫌だ……!」
脳裏によぎるのは、灯にナイフが振り下ろされる光景だった。その時の恐怖が、今また襲い掛かってきていた。
さっき灯を守ると言ったばっかりだ。また灯になにかあったら自分はどうにかなってしまう。灯を失うなんてこと考えたくもない。
と、灯から伝わる重みが増した。膝が折れ、地面に倒れ伏す。
「あ……」
灯の名を呼ぼうと振り返って、目の前の光景に絶句した。
灯に無数の黒い子犬が噛みついていた。灯の体に噛みつき、ぶら下がるようにしている。
「に、げ……て……」
弱弱しい声のすぐ後に、ばきり、と致命的な音が由流華の耳を打った。
灯の右腕が不自然に跳ねて、由流華の顔に血が跳ねた。
「違う……だめ……灯……」
虚ろにつぶやく由流華の耳に連続して致命的な音が響いた。
灯は完全に地面に倒れ、まったく動かない。飛び散った血が、空中を舞っていくのがスローに見えた。
黒い子犬は灯の体をばりぼりと貪り始め、そのうちの何匹かが由流華を見やった。
「ひっ……」
もう悲鳴も出なかった。一目散にその場を駆け出して全速力で走った。
灯の無残な姿が瞼に焼き付いていた、喉の奥から吐瀉物がこみあげてきて、耐える余裕もなく口からまき散らしながらとにかく走った。
(死にたくない、死にたくない!)
頭の中にはそれしかなかった。足を止めれば、あるいは一匹でも体に食いつけばたちまちに殺されてしまう。その確信が由流華の足を動かし続けた。
木の根につまずいても、地面をつかみとにかく前に向かって進み続けた。全身の疲労も何も感じない。意識のすべてが、ただこの場から逃げ出すことだけに集中していた。
とにかく走り続け、走り続け、
由流華は森を抜けた。
「……え?」
信じられない思いにうめき、足を止める。
目の前には原っぱが広がっていて、日は高く、嘘のようにゆるい風が由流華の肌を撫でていった。暗い森の中から出てきたので、急な太陽に目を開けていられなくなった。
少し見て目を開けられるようになった。原っぱの方に歩いていく。途中でそっと振り返るが、森は不気味なぐらい静まり返っていて何かが起こるような気配もない。
黒い子犬も来ないようだった。ごく普通の足取りで、進んでいく。
原っぱが途切れた。道に出て、由流華は再度足を止めた。コンクリートで舗装されているわけではないが、横幅も広く整備されているように見える。
ほとんど放心状態でぼーっとしていたが、やがて左の方から音が聞こえてきた。
呆然としたまま顔を向ける。遠めだが、何かが走ってきているのが見えた。あれは、
「馬車?」
ゲームでしか見たことがない乗り物だった。少なくとも由流華は実際に見たことは一度もない。
道路の真ん中に突っ立っている由流華に馬車が近づいてくる。このままでは轢かれてしまうのだが、棒立ちになっている由流華はまるで動けないままだった。
幸いにも馬車は由流華を撥ね飛ばす前に止まった。
「どうしたんだあんた」
「…………」
御者の男が問いかけてくるのだが、由流華は何も答えられない。森を抜けた途端、意識が抜け落ちたように何も考えられなくなっていた。
御者の男は不審そうに由流華を見下ろして、森に視線を向けた。
「あんた冒険者か? あそこの森の中でなにかあったか?」
森の中。
怪訝に問う御者の男の言葉に、意識が鮮明になった。
「も、森の中で襲われて……!」
意識が鮮明になっても、パニックも復活してしまった。森を指さして喚く由流華を見て、御者の男は後ろの方に声をかけていた。
「どうしたの?」
幌を開けて、女性が顔を覗かせた。ストロベリーブロンドの長髪が似合う、20歳ぐらいの美人だった。由流華を見て、仰天したように目を見開いて馬車から降りて由流華の方へ小走りで近づいてきた。
「あなた、ひどい状態だよ。何があったの?」
「も、森の中で……友達と一緒に出ようとして、それで……」
促されるまま説明しようとするのだが、うまく言葉が出てこない。
女性はハンカチを取り出すと由流華に手渡し、ゆっくり言い含めるように囁いた。
「落ち着いて、これで口拭きなさい」
言われるまま、ハンカチで口を拭く。だからといって何も落ち着くことはなく、呼吸は乱れたままだった。
女性は由流華の肩に手を置いて、辛抱強く繰り返した。
「落ち着いて。何があったか説明できる?」
「気が付いたら森の中にいて、歩いてたら変な犬に襲われて、友達が噛まれて……噛まれて」
そして。
「あたしは……逃げてきました」
説明とともに、自分の行いを意識した。
襲われて噛まれた灯を見捨てて、自分だけここまで逃げてきた。
今度は守ると言ったはずなのに、死にたくないという理由でそれを果たすこともできずにこうして今一人だけ生きながらえている。
「あ、あ……」
頭を抱えて、その場に崩れ落ちた。涙があふれてきて、嗚咽して号泣する。
自分がなんで今生きているのかわからなくなった。灯を守ることもできなかった自分が、どうして生きていられる?
「大丈夫、大丈夫だから。もう安全だよ。魔物は森の外には出てこないから」
女性がそんなことを言ってくるが、まったく頭に入ってこない。
「あ、あかり、が。灯が森に……」
「……ねえ、落ち着いて。その友達は噛まれてたの?」
女性の問いかけに、由流華は涙を流したまま頷く。
女性は言いにくそうにしながら、神妙に訊ねてきた。
「その友達は、一人で逃げられた?」
頭の中に、記憶が写真のようによみがえった。全身を噛まれ、砕かれている灯の姿が。
逃げるだとか、そういうこと以前だった。
事実を認めたくないという気持ちとは裏腹に、言葉がついて出た。
「体中噛まれて……血だらけで、もう……」
「わかった。もう言わなくていい。ところであなたは、どこの国から来たの?」
「? ……日本」
「やっぱり、転生者か」
女性がぼそりとつぶやく。意味が分からなかったが、訊く間もなく女性は馬車を指さした。
「乗りなさい。都市まで送っていく」
泣きじゃくって立てない状態で、由流華は女性の言葉に反応できないまま見上げていた。
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