ロスト・ホスピタル
無月彩葉
ロスト・ホスピタル
1.
点滴パックが空になれば三時間。それだけが、私に与えられた世界の全てだった。
それ以外のことは知ることができない。ううん、知ってはいけない。
あまり情報が増えすぎるとまたショートしてしまうから。故障して、周囲に迷惑をかけてしまうから。
「君はアンドロイドだ」
黒いローブを頭からすっぽりと被り、鼻の部分がクチバシのように尖ったマスクをつけた男の人たちは、何度も何度も私にそう言い聞かせた。
この指通りのいいブロンドの髪も、黒いワンピースで覆われた絹のように真っ白な肌も、丸くて虚ろな瞳も、薄い唇も、細い手足も、何もかもが作り物で、人間のような自我はないらしい。私が思考することは全部プログラム通りに行われていることで、物事に対する僅かな知識もデータとして最初からインプットされているもの。そしてエネルギーを補給するための点滴を外してしまったら、やがて動かなくなってしまう。だからどこにも行けないし、普通の人間と関わってもいけない。
横に机が置かれたベッドと、点滴台と、虚な目を映すだけの小さな鏡と、余分な燃料を排出するための簡易トイレと、薄暗く部屋を照らす裸電球。それから壊れたラジオ。この檻のような部屋にあるのはそれだけ。扉には普段鍵がかかっているらしいから、出ようと思ったところで外には出られない。
点滴パックに入った液体が、小さな雫となってポタリと落ちる。ポタリ、ポタリと規則正しく落ちては、細い管を通って私の腕の中へ入っていく。
この部屋で目覚める前のことは全く記憶にないから、以前どんな風にショートしたのか分からない。知りたい……と思っても、きっとこれもプログラムされた通りの欲求。
私にできることは、点滴の管がついた左手で与えられた数字のパズルを解くだけ。決められた枠の中に答えを書き込むだけ。
ノイズだけ吐き出すラジオの音に耳を澄ませては、何も聞き取れないことに失望するだけ。
あと何度これを繰り返せばこの世界は終わるのか。早く終わって欲しい、なんて。段々、そんなことを渇望するようになった。
まあそれも、プログラムされた通りの感情なのだろうけれど。
「あれ?」
ある日のこと。
この日与えられた問題から顔を上げた私は、おかしなことに気がつく。
いつものように三時間経ったのに……黒いローブの男の人が誰も来ないのだ。
点滴パックはペシャリとへこんでしまって、どれだけ待っても雫は落ちてこない。それどころか腕から赤い液体が管を逆流するように上り始めるから、慌てて管を腕から抜いてしまった。
管を抜いたところから赤い液体がじわじわと溢れていく。まるで、人間の血みたいに。
「どう、し、よう」
あまり声を発しないせいで掠れた音が漏れる。
これではエネルギーが足りなくなって、やがて動けなくなってしまう。
そうしたら……また周囲の人に迷惑をかけてしまう。
黒いローブの男の人たちは、棒のようなもので私を突きながら、何度も何度も繰り返し告げてきた。私がショートをしてしまって、どれだけ苦労をしたかということを。
もう二度と迷惑はかけてはいけないと、何度も言い聞かせてられてきた。
男の人たちが時間を忘れてしまっているのだろうかと思って、トントンと扉を叩いてみる。けれど、扉の向こうからは何も音が聞こえてこない。そもそもこの部屋の外がどうなっているのか私は知らない。
なんだか嫌な予感がして、ドアノブに手を触れてみる。それからおそるおそるひねってみると……
「あ、れ?」
ガチャリと音がして、扉が開いてしまった。
鍵がかかってない? 一体、いつから?
外に出てはいけないのに、これでは外に出れてしまう。
でも……外に出ていろんな情報を頭に入れてしまったらショートしてしまうかも。
そう思うと怖くもあるけれど、結局私は一歩足を踏み出した。だって、この部屋にいても結局はエネルギーがなくなって動けなくなってしまうから。
せめて、そのことを男の人たちに伝えないと。
部屋の外に広がっていたのは、窓のない細い廊下だった。切れかけの電球が天井に連なって、かろうじて周囲の様子が分かる。廊下の左右には、私が出てきた扉と同じような分厚い金属の扉がズラリと並んでいた。
ふと自分が出てきた扉を振り返る。全ての扉の上には番号が書かれたプレートがついていて、この扉には126と書かれていた。
白いペンキが所々剥がれた、無骨な金属の扉。
「え……?」
じっと見つめていると、おかしなことに気がつき思わず声が漏れた。
だって、私が出てきた扉には……鍵穴が、ついていないのだ。
これでは鍵をかけることなんてできない。
それなら、男の人たちがこの部屋には鍵がかかっていると言っていたのはなんだったのだろう。
じっくり考えようとすると頭がズキズキと痛んでうまくいかない。多分……このままだとショートしてしまう。
だから深くは考えないことにして、男の人たちを探すことにした。
裸足のまま冷たい廊下をぺたぺたと歩いて、左右に並んでいる扉に片っ端から開いてみる。どの部屋の内装も私がいた部屋とほとんど変わらず、人の気配はない。
「は……ぁ」
こんなにたくさん歩いたことはないから、すぐに息が切れてしまうし、足元もふらふらしてくる。
振り返れば、埃の溜まった廊下に歪な足跡が並んでいた。
アンドロイドなのに、身体は丈夫に作られていないのかな。
不安が込み上げてくるけれど……でも、きっとこれはプログラム通りの感情。本当は、何も怖いはずはない。
血みたいな液体が溢れる腕だって、痛いはずはない。
何度も壁に手をついて休憩しながら、廊下の一番奥までたどり着く。すると、先ほどまでとは違う大きな両開きの扉があった。
青いペンキで何かが書かれているけれど、私は数字は分かっても文字を読むことができない。とりあえず扉を手前に引いてみれば、なんとか開けることができた。
「……わぁ」
見たこともない景色に、また声が漏れる。
コンクリートの梁が剥き出しになった天井。錆びた枠組みだけになったベッド。ガラスの破片が散乱しとても裸足では歩けないような地面には、薄っすらと苔が生えている。何かを乗せるカートのようなものは倒れ、いくつもの電球が取り付けられた巨大な円形の何かがその隣に転がっている。窓がなく灯りもないのに室内の様子が分かるのは、壁が崩れかけて外の光が入ってくるから。
壁や天井の隙間から差し込むこれは……太陽の光なのだろうか。足元は冷たいけれど、流れてくる空気は少し暖かい。
荒廃した不気味な部屋のはずなのに不思議と恐怖感はなく、ゆっくり深呼吸をしながら先ほどまでの埃っぽい空気とは違う清々しい空気を吸い込んだ。
「ここはかつて手術室だった場所ですよ」
「え?」
急に背後から人の声が聞こえて振り向くと、知らない人が立っていた。白いシャツを着た、背の高い黒髪の男の人。
どうしよう、他の人間に会ってはいけないって……あまり人と言葉を交わすと情報量が多過ぎてショートしてしまうって言われているのに。
逃げようにも、廊下側には男の人がいるし、部屋には他に出入り口がないようだし、八方塞がりだ。
「ま、使われていたのは二世紀も前ですし、不潔な環境下でロボトミーやら瀉血やら非科学的なことしか行われていなかったでしょうが。なにせ当時の手術の死亡率は八十パーセントですからね」
「あの……」
どうしよう。知らない言語を話している訳ではないのだろうけれど、何を言っているのか全然分からない。だって、そんな言葉はインプットされていないから。
「そういえばあのカルト集団もペスト医師を思わせるような格好をしていましたし、中世の呪術色が強い医学への信仰心でもあるのか。まあ考察するだけ無駄でしょうけど」
「カルト集団……?」
「ええ。通称『黒き医師団』。それが、この廃病院にお嬢様を幽閉していた男たちの正体です。正しい知識もないくせに医師を騙るなど図々しいにも程がありますが」
あの人たちは点滴をしてくれるお医者さんだと思っていたけど……実はそうではなかったの?
カルト集団ってどういうこと? そもそもここは一体……どこ?
「あ、あの、お嬢様って誰のことですか?」
「……あなたのことに決まっているでしょう。一年間幽閉されていたせいで自分のことすら忘れてしまったというのですか?」
「すみません、私、ショートする前の記憶が何もなくて……」
「ショート?」
この人は多分私のことを知っているのだろうけれど、私は何も覚えていない。どうすればいいのか分からなくて、着ているワンピースの裾をぎゅっと握る。
すると男の人は不意に手を伸ばして私の左腕を掴んだ。
「あーあ、強引にカテーテルを抜いたんですね。すぐ消毒して手当しますからじっとしていてください」
「え?」
手当てって……まるで、人間みたいな言い方だ。修理、ではないのだろうか。
男の人は持っていた大きなカバンから綿みたいなものと先の尖った小さな金属の道具を取り出した。それから金属で綿を挟んで、何かの液体を入れた小瓶の中に浸して……そのまま、血のようなものが溢れ出る私の腕に当てる。ピリリと痺れるような痛みが走った。
「ガーゼを当てて……と。あとは包帯巻いときますからあまり動かさないように」
腕に、白い布のようなものがくるくると巻かれていく。喋り方はぞんざいなのに、手つきはとても優しい。
そういえば……人と喋っているのに全然頭がショートしない。
何かが、おかしい。
「あの、私は……アンドロイドですよね?」
気になって尋ねてみると、男の人は眉間に皺を寄せて、訳が分からないというような顔をした。
「お嬢様、お言葉ですが寝言は寝ている時に言うものですよ。大体、お嬢様は昔からいつもいつも突拍子のないことばかり……」
「トーシェさん、怒らないであげて。お嬢様は今、記憶ないから」
また聞き覚えのない声が聞こえて周囲を見渡していると、穴が開いた天井から何かが落ちてきた。くるりと一回転して綺麗に着地をしたのは……女の人?
白いフリルのついたエプロンを着てウェーブのかかった髪を二つに縛っている。まるでお人形さんのように可愛らしい。
「黒き医師団のやっていたことが掴めたよ。奴らは非合法的な薬品でお嬢様の記憶を消した後、お嬢様に自分はアンドロイドだという暗示をかけて幽閉していたらしいの。お嬢様が自ら思考をして脱出を試みることがないように」
女の人はブーツで散らばったガラスを踏みつけながらこちらに近づき、私の前で急に屈み込んだ。
片足を立て、そこに肘を乗せて私を見上げている。
「エディナ様、まずはご無事で何よりです。そして救出が遅くなってしまったこと大変申し訳ございません。メイド兼ボディーガードとしてどんな罰も受ける覚悟です」
「えっと……」
「混乱もしているでしょうから大事なことだけ伝えておきますね。あなたはアンドロイドなどではなく血の通った人間です。あいつらの言葉なんて忘れてください」
私は……人間? だって何度も何度もアンドロイドだって聞かされて……でも、それは嘘? 本当に?
この人たちは何者? そういえば何で点滴がないのに動けているんだろう。こんなにいろんなことが思考できているのだろう。
「私はフィア。こちらはお嬢様の主治医のトーシェです。まあこんな廃墟に長くいても意味がありませんし、早く屋敷に帰還いたしましょう。お話はそれからでも十分ですよね」
私は人間で……あの男の人たちが言っていたことは嘘で。この人たちは少なくとも私のことを知っている……?
情報量が多過ぎてすぐには飲み込めない。
でも、私の居場所があるなら帰ってみたい。知らない世界があるのなら知ってみたい。
点滴パックがなくても時間を知れる世界に……行ってみたい。
トーシェさんと呼ばれた男の人の方を見ると、彼は大きなため息を吐いた。
「無事救出できたかと思えば記憶を失くしているだなんて、本当に手のかかる方ですね。まあこんなところに長くいたくないのは私も同意です。帰りましょうか、私たちの故郷へ」
故郷……その言葉の響きは、なんだか温かいものに感じられた。
2.
トーシェさんが操縦する乗り物に乗せられ、どれだけ時間が経っただろう。青かった空は赤く染まり、窓から入ってくる風も少し肌寒く感じるようになってきた。
点滴の管がなくなり自由になった左腕は、未だに変な感じがして落ち着かない。視線を彷徨わせ、窓の外を眺めていると、段々周囲の建物の形が変わっていくのに気づく。
出発した時は建物なんて周囲に一軒もなく寂しい道のりだったけれど、次第に色とりどりの一軒家が増えていき、それも通り過ぎた今は所狭しと背の高い箱のような建物がそびえ立っている。
道も、最初はガタガタとしていたのに、今は乗り物が大きく揺れることはない。
頭上には色の変わるランプが設置されており、赤いランプが点灯している時は乗り物が止まり青くなると動き出す。そういうルールがあるらしい。
「ここが……故郷?」
「そうですね。昔はもっと田舎だったのですが、最近は開発が進んでこのような形に。お屋敷があるのは市街地から少し離れたところで、そちらは自然豊かな庭園もありますよ」
首を傾げる私に、フィアさんが説明をしてくれた。
故郷、というのは嘘ではないような気がする。同じような形の乗り物が絶えず行き来して忙しない場所だけれど……何故か、見覚えはあったから。
私が今乗っている乗り物は確か「車」という名前で、あの三色のランプは「信号機」。そんな名称が、
見たこともないはずのものに対する知識があるのは、私がアンドロイドで、知識が機械的にインプットされているからだと言われてきた。でも、私が人間だとしたら、この知識は記憶を失う前のものということになるのだろうか。
「そういえば、結局あの建物はなんだったのですか? 病院……だと思っていたのですが」
「国境沿いに建てられた廃病院ですよ。奴らはロスト・ホスピタルと呼んでいたようですが」
疑問を口にすれば、前の席にいるトーシェさんが答えてくれた。
「建てられたのは十九世紀末期。この頃は、当時としては一般的な病院だったそうですが、二十世紀になると主に戦争で精神病を患った兵士たちのための精神病院として使用されるようになりました。手術室だけ損傷が激しいのは精神病院になって以降使われていないからでしょう。その精神病院も現代の法整備の上で違法となり消滅。あの建物だけが取り残されたというわけです」
手術室の景色はあまりに衝撃的だったからよく覚えている。枠組みだけになったベッド。剥がれたタイル。とても衛生的とは言えない場所だったけれど、もっとあそこにいたいと思ってしまうような何かがあった。
「奴ら……黒き医師団は古典的な西洋医学を取り戻そうとしていました。その活動を行う上で近代的な医療機関をいくつも保有するレイライト家の存在は邪魔だったのでしょうね」
「レイライト家?」
「お嬢様の家系です。エディナ・レイライト……それがお嬢様のお名前ですよ」
トーシェさんの代わりにフィアさんが答えてくれたけれど、そう言われてもしっくりこない。私に名前があるだなんて想像すらしていなかったし、お嬢様と呼ばれるのも未だに違和感がある。
「しかし、いくらレイライト家の存在を疎ましく思っていたとしても、その家の一人娘を攫って監禁する理由が分からないですね。人質としてこちらに何かを要求する訳でもない。恨みを持って殺す訳でもない。ま、カルト集団の考えることなんて想像することすら無駄かもしれませんが」
トーシェさんはそう言って小さく溜息を吐いた。今、さらりと怖いことを言われた気がする。
「確かに……攫うだけ攫っておいて監禁するだけというのはおかしいかも。お嬢様、監禁されている間に奴らにされたことはないですか? どんな些細なことでも構いません」
些細なこと……か。毎日毎日点滴の液が落ちるのを眺めて、ノイズだけ吐き出すラジオの音に耳を澄ませて……それから。
「そういえば、数字のパズルを解かされていました」
「数字のパズル?」
「いくつもの四角に1から9までの数字を当てはめていくパズルです。隣り合う四角には同じ数字を入れてはいけなくて、それぞれの数字に使う回数が決められています。最初は難しかったんですけどだんだん慣れてきて……機械のように淡々とこなしていました」
決められた枠に決められた数字を書く。たったそれだけのこと。
アンドロイドとして何かを学習するためかと思っていたけれど、私が人間だとしたら……一体、何の意味があったのだろう。
「ナンプレみたいなものなのかな……首謀者に直接話が聞けるといいんだけど」
「あ、あの人たちは今どこに?」
奇妙な仮面をつけて、頭から黒いローブをすっぽりと被った男の人たち。トーシェさんとフィアさんは彼らのことをカルト集団と呼ぶけれど、私はまだそう思うことができない。何を考えているのかは全然分からなかったけれど、何か意図を持って私を閉じ込めていたような気がする。彼らは今どうなっているのだろう。
「軍警の牢屋に入れられています。ただ、全然悔しそうでもないのが気がかりなんですよね」
「ですから、カルト集団の考えていることなんて詮索するだけ無駄ですよ」
「そうかもしれないけどー」
牢屋……その言葉を聞いて胸がきゅっと痛む。きっと、私も牢屋のような場所に閉じ込められていたからだと思う。孤独で、寂しくて、退屈で、死にたくなるような場所。彼らは今、そんな場所にいる。
「ああそうだ、帰ったら一度病院に行きますよ。身体に異常がないか検査するので」
背の高い建物が立ち並んだ場所を抜け、木々が綺麗に整列するのどかな道を通り過ぎて大きな門を潜る。目の前には五階建てくらいの巨大な白い建物が立っていた。
検査とは、一体何をするのだろう。
少なくとも、点検やメンテナンスとは違うものだろうと思った。
3.
「血液検査、エコー、CT、MRI。どの結果も異常ありませんね。臓器や脳に損傷はなく、いたって健康的な状態です。とはいえ運動機能は低下しているようですからきちんとリハビリを行ってください。消化器官も弱っていますから食事療法も並行して行うように」
壁に向けられ設置された大きな机と椅子が二つ、それからベッドが一つあるだけの「診察室」という部屋。
トーシェさんは白黒の写真が映されたモニターを見ながらつらつらと説明していく。言っていることは半分も分からないけれど、ひとまず私の身体には何も異変がないらしい。
もちろんアンドロイドでもない。それは昨日と今日の二日間を使って身体の隅々までを調べて証明されたこと。
私は血の通った人間で、あの人たちが言っていたことは嘘。両親だってちゃんといる。
それなら、私が過ごした3時間刻みの1年間はなんだったのだろう。どうして私は……あんなところに閉じ込められていたのだろう。
「不安ですか?」
「え?」
「フィアが言っていましたよ。夜もろくに眠れなかったそうではないですか。あなたらしくない」
「私らしく……ですか」
今までずっとアンドロイドだと信じてきたのだ。今更私らしくと言われたって……分からない。
頭の中がぐらぐらとするような、奇妙な感覚に襲われていると、
「失礼します」
と扉の向こうから声が聞こえ、フィアさんが中に入って来た。
フィアさんの右手には……なんだか見慣れたものがある。
「それは?」
「お嬢様が監禁されていた部屋にあったラジオだよ。どこの局にも繋がってなくて聞こえるのはノイズだけ……奴らはどうしてこんなものをお嬢様の部屋に置いていたのか……それが事件の真相を知るための鍵になるような気がするんだ」
「そのためにわざわざ軍警まで行ってきた、と。あなたも暇人ですね」
「だって検査の間私の仕事なんてないし。レイライト家の存在を脅かす黒き医師団の野望を少しでもいいから暴きたいなって。どうですかお嬢様。何か思い出せることはありますか?」
思い出せるもなにも……よく見知ったラジオ、それだけだ。本体の下の部分だけが赤く塗られていて、右の角の塗装が剥げかけている。それだけ。ただ、胸の奥がざわざわするような、変な焦燥感が湧き上がってくる。
「んー電源入れてみた方がいいかな」
「あ……」
フィアさんが電源ボタンを押すと赤いランプが点灯した。暫くは無音だったけれど、やがてザーというノイズが流れ出す。
その途端、頭に電流が走るような感覚がした。
「お嬢様?」
まずは激しい頭痛がして、それが終わると途端に頭にかかっていたモヤが晴れていく。
ノイズを介して聞こえてくるのは、あの方達の声。無実の罪で捕らえられてしまったあの方達からの、指令。
「お嬢様?」
「……違う」
違う。私はお嬢様なんかではない。散々言い聞かせられてきたというのに、何故忘れていたのだろう。
この人達に惑わされてはいけない。現代の医学なんて信用できない。
あの方達がずっとそう言ってきたのに。
ガラス窓に自分の虚な目が映る。そう、これが私。
「私はアンドロイド。あの方達の野望のために作られた兵器」
机の上を確認して何か凶器になりそうなものを探す。
消毒液、注射器、ペン立て。ペン立ての中にはボールペン、ハサミ、それにカッターナイフ。
私はカッターナイフを素早く引き抜いた。
「お嬢様、やめて……目を覚まして」
フィアが何かを叫ぶけれど、ラジオのノイズにかき消されて聞こえない。ひとまずフィアの目を目掛けてカッターを振る。しかしうまくかわされてしまった。流石、天井から生身で飛び降りるだけの身体能力の持ち主だ。簡単には……殺せない。
「この世の瘴気を断ち切り永遠の命を手に入れるのが我々の使命。今こそロスト・ホスピタルの復活を」
ロスト・ホスピタルを復活させるためなら手段を選んではいられない。
レイライト家を壊滅させ現代医学の呪縛から人々を解き放たなければならない。私はそのために作られた。
「お嬢様を一年間監禁していたのは……洗脳を施して我々の元へ送り込むためでしたか。ラジオのノイズが引き金となり、自分は奴らに従順な機械なのだと信じ込む」
「どうしよう。お嬢様を攻撃なんて絶対できないのに……」
フィアは何故か逃げに徹している。それならば好都合だ。人が逃げるパターンなら数字のパズルで十分に学習した。人の動きには一定の法則がある。それを数字に当てはめるだけ。何も難しいことではない。
「はぁ……攻撃できない、ですか。相手は既に敵の手に落ちているというのに何を甘いことを言っているのか」
「ちょっと、トーシェさん」
今まで私たちの動きを傍観していたトーシェは、引き出しから銀色のナイフのようなものを取り出した。
「メス……!? な、何考えてるの?」
「なるべく苦しまずに、一瞬で死んでもらうには頸動脈辺りを狙うのが一番です」
「だ、駄目だよ! お嬢様のご両親だってこんなこと望んでない!」
トーシェは私を壊すつもりだ。それならまずは彼の方から先に……
「ま、冗談ですけど」
トーシェはナイフのようなもので私のカッターを弾くと、ラジオの電源ボタンを押した。
すぐに、ノイズが止む。
「あれ……私、何を」
何をしていたのだろう。足元にはカッターが落ちていて、それを握った感覚がまだ右手に残っている。
そうだ、私はアンドロイドで、この人たちを殺さないといけなくて……中世の医学を取り戻さないといけなくて……
足元のカッターを拾い上げた右手が震える。本当に? 本当にそれが正しいの?
ロボトミーや瀉血を取り戻すことが、本当に人々のためになるの? 血液検査やMRI、清潔さが保たれた病院を否定することが人々のため? 本当に?
「……分からない。もう、何が正しいのか分からない」
頭が痛くて膝から崩れ落ちる。私の目の前にトーシェさんが屈んだ。
「では一から学習し直しましょうか。先人達が気付き上げてきた医療の歴史を。そうすればきっと何が正しいのか自分で判断できるはずです」
トーシェさんは今の私を否定することなくそう言った。
学習……確かにそれは世界を知るための一つの手段かもしれない。
トーシェさんの手を取り立ち上がる。
点滴の雫を眺めるだけの世界の外側。ロスト・ホスピタルのその先。
私はそれを知らなければならない。
ロスト・ホスピタル 無月彩葉 @naduki_iroha
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