第10話
やたらに寒い梅雨だ。僕は鞄からカーディガンを取り出し、羽織った。雨は午前中であがったけれど、気温は逆に下がった。ピロティで開け放されている窓を閉めた。ベンチに座り、単行本に戻る。美術品を巡る恋の駆け引きの小説だ。美術蘊蓄がちりばめられていて、それだけで読みごたえがある。でも、恋愛を無駄な要素だとは思わなかった。世界では誰もが切実な恋をしているらしい。ズルかったり勘が悪かったり自分がかわいかったりしながら、最後には恋心に飲み込まれて一歩を踏み出す。物語だけのことだと思っていたけれど、僕は本を閉じどんより曇った空を見上げる、生きていると自分でも物語に迷い込むことがある。僕は死ぬ時に、きっとこの日々を思い出すだろう。平凡に生きていくには邪魔になる記憶でも、最後の最後、毒でもいいから心を揺り動かしたい、そう願って思い出す。満開の藤の花、学校の廊下の薄暗さ、どこまでも通る野球部の掛け声、雨の校庭の匂い、岸川くんの手のひらの温度、鬼の涙。僕は必ず思い出す。子供の頃の宝物箱みたいに、これからもひとつずつ、取り出して眺めるためというよりは、ここに隠していることが重要な記憶を手に入れていく。
「津久くん」
いつも現れる場所に加瀬くんが立っていた。僕はそうなることがわかっていて、少しも驚かなかった。加瀬くんはいつもの足取りで僕のところまで来て、岸川くんが怒る距離に座った。秘密を打ち明け合う距離だ。
「シロウの連絡先を教えてほしいんだ」
既に僕はスマホのロックを外していた。電話番号を加瀬くんに送る。加瀬くんの鞄から、ピロリンと着信音がした。
「私たちのの罪を知るひとは、みんな死んでしまったんだな」
そうだね。心は穏やかだった。すべき忠告など思いつかなかったし、なにより大切なのは加瀬くんが現世を生きることで、そのために必要なことなら、危険性の示唆など意味がないと、もうとっくに僕は決めていた。
「あんなに逃げ回るなんて、馬鹿だと思うだろう」
「必要な時間だったんだと思うよ」
加瀬くんは眼鏡のズレを直し、少し紅潮した顔で言った。
「みんながいてくれたから、ここまで来れた」
まるで甲子園で球児が呟くセリフだ。でも茶化したくないから言わなかった。
「みんながいなかったら、シロウと話すこともできなかった。感謝してる。気持ちが変わったわけじゃないんだ。ただ、やっぱり、ちゃんとふたりで話すべきだと思う。誰かに頼って終わらせてもらうのでは、きっと転生は終わらない。もう生まれ変わりたくないんだ」
「もし加瀬くんが戻って来なかったら、通報するほうがいいかな?」
加瀬くんはゆっくり首を振った。
「探さないでほしいって手紙を机に入れてきた。もし戻って来なかったら、それは私がそう望んだってことだ」
眼鏡の上に、つるりとした額が見える。子供みたいな曲線を描いている。今生の別れとは思わない。きっと彼は戻ってくる。僕は加瀬くんの綺麗な横顔を宝物箱にそっとしまう。忘れないように隠してしまう。
「髪型、似合ってる。そっちのほうがいいよ」
加瀬くんは自分の前髪を軽くさわりながら言った。僕はありがとうの意味で少し頭を下げた。
「じゃあ行くよ」
「また明日」
加瀬くんは笑って消えた。もう本には戻れなくて、僕は空を見上げた。肌寒い。カーディガンの袖を引っ張って、指先を隠す。もうすぐ夏が来る。甲子園の季節だ。
「えいち」
気が付くと岸川くんが立っていた。鞄を持って近づくと、さっさと歩き出してしまう。僕は少し小走りで後を追った。
「屋内練習場って充分広いの?」
「ああ」
「野球部、人数多いのに問題ないの?」
「ああ」
「ふうん」
すれ違う生徒はみんなちらっと僕らを見る。学校に来ても僕を指さしてゲイだという人間はおらず、世界は終わらなかった。こんなものなんだな。べつに世界が終わってもよかった。僕には友達がいる。その他大勢が僕になにを言っても、傷つくことも死ぬこともないと知った。
「加瀬くん、シロウさんに逢いにいくみたいだ」
急に岸川くんが足を止め、ぶつかりそうになった。振り返った顔は、めちゃくちゃに驚いていた。
「だっ」
「大丈夫だよ」
「シロウさんならいいのか?」
「え、どういう意味?」
「こなっちゃんはダメだと、もし連絡がきても谷には逢わせたくないって」
「うーん、こなっちゃんも、もういいかな。僕が決めることじゃないし」
岸川くんの横に立ち、一緒に校門を出る。地面はまだ乾いておらず、アスファルトの色が濃くなっていた。
「そういえば、少し前に相州流の本部に行ったんだけどね、藤棚があったんだよ。あの家から移したみたい。だいぶ小さくなってたけど、花はおんなじだった。今度は一緒に見たいね」
岸川くんはうーんと唸る。
「しかしそうなると」
「そうなると?」
「キスするだろ」
なんでやねん、と思って笑ってしまった。同時にあの時のキスが岸川くんにとっても特別なものであったことが嬉しかった。誰にも知られてはいけないのに、誰かに目撃されて、僕がこんなにも素敵なひとに愛されて満たされていることを世界に知らしめたいと思った、あの気持ちまで思い出す。
「あそこだと、まあ、そうなるよね」
岸川くんが足を止めて僕を見た。僕は彼より数歩進んで止まった。またしても、彼はめちゃくちゃに驚いた顔をしている。
「明日いくか?」
我慢できなくて笑った。岸川くんは真剣な顔をしたままだ。
「これからでもいい」
「もう花は終わったよ。来年の話」
「それはダメだ!」
くすくす笑いながら歩き出す。数歩後ろを、岸川くんが付いてくる。
「そんなにしたいなら、アジュアを使えば?」
「え、いいのか?」
かわいくて、いとおしくて、時々泣きたくなる。
「やり方がわからない、普通の命令だとならない」
そうだね、そうだねえ、と僕は笑う。ぴったり僕にくっついてくるから、歩く速度を上げ、向こうも速足になり、僕らはすごいスピードで連れたって歩いた。川が見えてくる。雨で増量して茶色く濁ってる。
「ここにいるのって、奇跡だ」
岸川くんは、わかるようなわかっていないような顔で頷いた。基本無表情とされる彼の表情が、意外にも豊かであることに最近気づいた。それは僕の誇りだ。
「一学期は中間試験がないから、期末の範囲が広いからね、そろそろ準備始めようね」
「なぜ今そんな話」
ものすごく不満そうな顔を岸川くんが見せる。
「いい雰囲気だった」
「いい雰囲気の定義を五十文字以内に述べよ」
「え? 笑って、機嫌がよくて」
大きな体を猫背にして指折り数える。
「暑すぎず寒すぎず」
周りにひとがいないか確認する。遠くの草むらに犬と飼い主。
「寒いけどね」
僕は岸川くんの働いていないほうの手をするりと握った。岸川くんは足を止め、顔を真っ赤にして震えた。
「それから?」
岸川くんを形作るもの。野球、三人のお姉さん、寮の生活、大量のごはん、勉強、それらの中に、正路がいる。まるで手で触れて確認しているかのようにはっきりと、それを感じた。
「そっ、それからっ、綺麗で、優しくて、眼がきらきらしてて」
「なんだよそれ」
岸川くんの、愛情を数えていた手が職務を放棄して、短くなった僕の前髪をかき上げた。額に、僕の良く知る感触があった。誰にも見られてはいけないのに、世界中に言いふらしたい気分だ。岸川くんが笑った。はにかむような、慈しむような、僕を大好きだと言わんばかりの笑顔。僕に、どれほど深く愛する相手がいるか言いふらしたい。人生を超えて僕を愛してくれるひと。大人になって、世界が広がって、彼が僕以外のひとを選ぶとしても、今ここでこの大きな手を離す理由にはならない。僕らはいつ増水した濁流にのまれるかわからない。今ここに整備不良のタクシーがつっこんでくるかもしれないんだ。奇跡を手放してたまるか。この恋を、失ってたまるか。大きな体が僕を包み込む。岸川くんの汗のにおいが僕を満たす。
運命なんか知るか。来世もきっと、僕らはこ
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