第9話
日曜日、普通しか停まらない駅で岸川くんがシロウと待ち合わせた。人が少ないおかげで、シロウとは気づかれず電車に乗った。大男ふたりは目立つ。しかも岸川くんもかなりのハンサムだから、余計に女性の眼をひくし、ここは純也にお願いしたいと言うと、純也が怒って拒否した。岸川くんは、シロウと話してみたいと言った。岸川くんがうまく会話できるとは思えない。どちらかというとこちらの目論見を聞き出されてしまう、と思ったけど、そこまで信用しないのもどうかと自制した。
電車を乗り継ぎ、彼らはやってきた。目の前ではのんびりとした草野球が行われている。小さめのグラウンドだけれど、ちゃんと観客席が設置されている。もちろん雨ざらしで古びているものの、おあつらえ向きにまったくひとがいない。隣接している公園とはフェンスで仕切られているから、突然誰かが近づくこともない。この場所を提案してくれたのも岸川くんだった。
シロウはサングラスをかけ、キャップをかぶっていた。髪が肩まであるのはカツラだろう。Tシャツにジーンズのラフな格好なのに、ただ者ではないオーラに満ちていた。足が長く顔が小さいというだけでは説明がつかないオーラだ。純也はフェンスの入り口にあるベンチに座った。岸川くんも見晴らしの利くポイントへ移動する予定なのに、僕に近づいてきて耳打ちする。
「なんだった、あれ、なんか命令するやつ」
「アジュア?」
そしてシロウを振り返り、「アジュア!」と言った。外野手にフライと声をかけるみたいな言い方だった。
「ダメって言っといた」
褒めてもらうつもりの大型犬みたいに僕を見る。バカか、という気持ちと、かわいくて撫でまわしたい気持ちの中に僕は揺れる。仕方がないんだ、adjureは受験英語じゃないから覚えられなくても。というか覚えられるわけがないんだ。早く見張り位置につけ、というつもりで指さすと、シロウがサングラスを取りながら言った。
「ここにいたらいい。他のは全員帰らせた。彼も呼べばいい。仲間外れはいやだろう」
シロウが手招きし、たいして警戒もせず純也が戻る。純也は嬉しそうに笑って、シロウと握手した。新旧のスターの邂逅を眺める。僕と加瀬くんは並んでベンチに座っている。加瀬くんの空いている隣にシロウは腰かけ、僕らの後ろのベンチに、岸川くんと純也が座る。
「俺の名前は言った」
唐突に岸川くんが言う。シロウがボールを投げる岸川くんの姿を表示したスマホの画面を見せてきた。
「なんで勝手なことするの!」
「俺の名前ならすぐ検索できるから」
取りなすように更に悪いことを言う。
「正路はそんな勝手なことしなかった!」
「俺は岸川壮大だ」
毒気を抜かれ、文句を言う気が萎える。純也がシロウのスマホに顔を近づけ「これ高いやつ! すげー!」と言う。このふたりをやはり遠くへ追いやりたい。
「みんなのことは言ってない。関係も。俺は逃げも隠れもしない」
「だから他のは帰らせた」
シロウと岸川くんがチームメイトのような笑みを交わす。純也もふたりを変わるがわる見て笑う。この雰囲気はちょっと。心配になって加瀬くんを見る。加瀬くんはこの二週間でげっそりとやつれてしまった。今も緊張している。僕のほうに体を若干寄せている。
「なんと呼んだらいい?」
シロウは優しく加瀬くんに聞いた。
「玉藻、でいいか」
「真菰」
岸川くんがびっくりした顔をした。想像はつく。漢字が思いつかないんだろう。僕は違う意味でびっくりしていた。本当の名前を教えるなんて思ってなかった。次に歌でアジュアを仕掛けられても逃げられるよう、加瀬くんはすぐに留学できないか調べていた。今日逢うのも、相手を安心させ時間を稼ぐためだと言っていた。でも、それが本心ではないことは僕にもわかっていた。
「いい名前だ」
噛みしめるように、シロウが言う。ふたりにとって、特別な名前。シロウは偽名だと思ってくれないだろうか。まだ逃げきれる、そんな計算をしてしまう。
「最初に話しておきたいことがある」
シロウは体ごと加瀬くんに向き直った。加瀬くんは俯いたまま顔を上げない。
「香炉にあった子流しの薬は手付かずだった」
やっぱり。
やっぱりそうだったんだ。そうじゃないかとずっと思っていた。だっておかしいじゃないか、玉藻姫が丸薬を飲んだんだったら、どうして毒見が死ぬんだ。
「殺して…………ない……?」
静かに加瀬くんが肩を揺らす。シロウがそっと、その背に手を添えた。
「小早川は河越に入る前から付いてくれていた、信頼できる男だった。情の厚い性格だった。松の警護に当たってもらったのも、俺が松を大切にしていると義父に思わせるためだった。小早川は松と通じていた」
純也が岸川くんを見て、岸川くんが僕を見た。僕はすべて無視した。
「優しいあの男のことだ。俺にほうっておかれる松が不憫だったのだろう。玉藻は正妻の子で、しかし側室にしか男子がなく、肩身の狭い思いをしていた。だから玉藻以外に、絶対に子を成すつもりはなかった。玉藻を奪ってから、小早川を付けた。松より玉藻を守りたかったからだ。小早川の心を見抜けなかった俺のミスだ。松は玉藻に子ができることがなにより怖く、堕胎薬を渡し、それでも飲まないとみるや、玉藻を殺そうとした」
河越藩は薬が名産だった。つまりは毒にも詳しい。遅効性の毒を玉藻姫の食事に仕込んだ。激しい気性の女性。もしかしたら、四郎が藩主になるおぜん立てをしたのは、彼女なのかもしれない。
「小早川はおまえを殺すことまでは考えていなかったはずだ。だからおまえが倒れたと知り、すべて理解して腹を切った。おまえは、俺の子を産もうとしてくれていた。おまえが俺を憎んでいたことは知っている。俺のそばにあることに、苦しんでいたことも知っている。おまえの兄と父を殺した。母も。多くの民も。おまえは誰よりも優しい女だった。虫ひとつ殺さない女だった。疎まれても蔑まれても恨み言を言わぬ。孤高であり高潔だった。このやり方はおまえにとって受け入れがたいと、必ず嫌われるとわかっていた。それでも、おまえのいない人生はありえなかった」
加瀬くんは僕の胸にもたれかかり、静かに泣いていた。バットがボールをとらえる高い音が響く。シロウは加瀬くんから手を離した。
「前回と同じだ」
僕は言った。自分でもぞっとするほど低い声だった。
「力づくで監禁してしまえば、玉藻は優しいからいずれ自分を許すだろうと思ったんですね。仕方がなかったんだ、愛してるから、そう言いさえすれば玉藻姫は自分を責め、苦しみ、泣きながら愛し返してくれる。あなたはわかっていてそうした。まさしく奸計だ」
怒ってはいなかった。むしろ、どうしようもないことなのだと思えた。誰もがなにかを望み、手に入れようとし、模索する間に誰かを傷つける。みんな誰かを傷つける。それでも譲れないほどの想いがある、そういうことなのだ。
「それは違うなあ」
純也のゆったりした言い方が、僕らに漂っていた緊迫した雰囲気を壊した。
「時代なんだよ。それが許される時代っていうのがさあ、あるんだよ。今っていろーんなことが、いろーんな理由でダメってことになってるじゃん。けどそれって、十年前、俺らが子供の時は全然オッケーだったりするだろ。戦国時代だっけ、命の価値なんか今とダンチだ。あの頃の女の子は自分の意見なんか聞かれもせず、親に嫁にやられたんだろ。売られた子もいるよな。女の子は与えられた場所で生きてくしかなかった」
視野の狭さを指摘されて動揺した。そうだ、玉藻姫も四郎も、戦国時代に生きてた。僕はなんて偏った考えを振りかざしていたんだろう。加瀬くんに寄り添っているつもりで、逆に追い込んで苦しめていたんだじゃないか。
「兄さんのすごいところは、ひとの意見を素直に聞けるところだ」
まったく場違いな発言が岸川くんから飛び出す。不意に泣いてしまいそうで唇を歪めた。大きな手が後ろから肩に置かれた。頭をなでるように、肩をなでてくれる。
「俺らもさあ、気を付けないとなあ。前世の時の価値観を引きずってるとこあるじゃん。シロウさんの、なんだっけあのジュ、みたいな」
「アジュア」
岸川くんが嬉しそうに言う。
「アジュア使ったっていうのも、力づくっていうより、便利だから使うみたいなとこじゃないの。現代人は銃持つの怖いじゃん。けど昔は便利だーっていっぱい作っちゃったんだよ。そんな感覚じゃないのかな」
振り返ると、純也は真剣な顔で、口元だけ笑って見せてくれていた。やっぱり優しいな、と思うと、急に肩を強く引かれた。首が鞭打つようにしなり痛みが走る。
「え、なに」
「いや、近いから」
誰と誰が。僕と加瀬くんが?
加瀬くんは体を起こしていた。ぼんやりとした表情でグラウンドを見ている。鼻が赤くなって目の周りは腫れていたけれど、それさえ儚げで美しかった。
「きみたちが真菰のそばにいてくれてよかった」
シロウさんが言い、おそるおそる、加瀬くんの手を取った。
「孤独なのではないかと、ずっと気になっていた」
早く見つけてあげたいと、願っていたのかもしれない。孤独から救いたい一心だったのかもしれない。
「産んであげたかった」
加瀬くんが細い細い声を紡ぐように言った。
「寿寿丸のような寂しい思いをさせずに育てたかった。私のような哀しい思いをさせずに育てたかった。子供がいれば四郎と笑っても咎められないと思った。何人も何人も産んでちちさまかかさまと口々に呼ばれたら、もう過去のことにふれずに生きていけると思った」
ばたばたと加瀬くんの眼から涙が落ちて、シロウさんはそれを覆うようにして抱きしめた。宝物を大切に包むシロウさんの仕草に僕の眼も潤む。僕もずっとそうして抱きしめてきたし、そうして抱きしめられてきた。泣かないで済むよう、グラウンドに眼をやる。おそらく四十代ぐらいの男たちが、高校生に比べれば重たげな体で動きながら、声だけはしっかりと出し合ってお互いを鼓舞している。
これで、よかったんだ。前世ではあまりに多くのひとが死んで、ふたりで幸せになるわけにはいかなかった。かかえた不幸が大きすぎて、何度転生しても、やり直すことができなかった。でも、もういいだろう。死んだ魂もきっとすべて転生を終えたくらいの時間が経った。ふたりは充分苦しんだ。映画だったら、最初から決まっていたような陳腐なストーリーだと思うかもしれない。だけどこれ以外の結末だったら、観客が暴動を起こす。主人公に、幸せになってほしい。苦しみを乗り越えて、たしかな愛を手にしてほしい。僕は生まれながらのモブだから、余計にそう願うよ。よかったね加瀬くん、これで輪廻から解放される。おめでとう。誰よりも一番、幸せになって。
「なんかちょっといい感じだけどさ、問題は解決してんの?」
空気を読んでいるのかいないのか、純也がまた核心をついた。物語のエンディングに向ってすっかり感傷的になっていた気持ちが切り替わる。
「男同士っていうのは、いいんだっけ? 岸川くんはいいの? 昔からそうだから、別にいいのか」
「いや、良くないらしい。男同士だからダメだと言われてる」
「なんで僕のせいにするんだよ!」
心外だと言わんばかりの表情で見返してくる。そりゃ、僕が、男同士だからダメだって、言ったけど。
「え、そうなんだ。ふたりは付き合ってるんだと思ってた」
「はあっ?」
「そう言われてるよ? いつも手を握っていちゃいちゃしてるし」
「あれは爪の手入れだろ!」
「この間は中庭で抱き合ってたんだろ」
「だっ、えっ、ええっ」
「すっごいラブラブだったって」
「誰もいなかったのに!」
「そりゃ周りだって気を遣うから、ちゃんと隠れて見てたんだろ」
顔が燃えるように赤くなる。驚きと恥ずかしさで死ねる。無理だ、もう学校に行けない。
「付き合ってないんだ。許可が出てない」
岸川くんが諭すように純也に話してる。もういい、なにもかも終わった。僕は周りからゲイだと思われてるんだ。なんてことだ。知らないうちに世界が終わってた。
「だから、女子が近づかないように見張っててほしい」
「なに純也を味方につけようとしてるんだよ!」
「オッケーわかった、まかしといて」
「なんで安請け合いしてるんだよ!」
「シロウさんは、男同士だって知らなかったんすよね、大丈夫なんすか?」
この流れでそういくか。この、懐への入り込み方。人懐っこさというんだろうか。これが天性。すごいよ純也、きっと純也はずっとこうやって、誰もに気に入られて好かれて生きていくんだ。
「それについては、問題がある」
シロウさんは加瀬くんから少し離れ、その顔を覗き込みながら言った。
「真菰、きみは何歳だ」
「十七……」
「女性だったらすぐに結婚できるが」
おお、と純也が身を乗り出す。そうか、女性は十六で結婚できるんだっけ。
「パートナーシップ制度は成年が条件。俺は二十二だから、付き合うと淫行になる」
純也が岸川くんを見、岸川くんが僕を見、僕は空を見上げた。
「へー、そっか男同士でも淫行になるんだあ」
やることは同じだからね。ははは、と僕は笑いたくなった。岸川くんがベンチの隣の空間を、僕を見ながらポンポンと叩いた。たしかに、もうシロウさんと加瀬くんを邪魔してはいけない気がして、僕はするりと移動して岸川くんの隣に座った。
「やっぱアレすか、顔ですか。こんな綺麗な顔、そりゃ戦国時代にゃいなかったろうなあ」
純也がじっくり加瀬くんの顔を見る。加瀬くんはさっと顔をそらせた。
「この顔が綺麗だなんて、この時代くらいだよ」
加瀬くんは乱暴に眼をこすった。こちらがヒヤヒヤするくらいの無神経さ。眼の周りの薄い皮膚がダメージを受けないか心配になるくらいだった。自分の顔ならそんなこと思いもしないけれど、加瀬くんの顔は芸術品だから。
「玉藻の時は品のない顔だって言われた。眼がでかすぎる、鼻が長いから天狗の子だ、顎がとがって性根が悪そうだってね」
とんでもない話じゃないか。ゴッホが死ぬまで貧乏だったのと同じ、理不尽極まりない話だ。女性と男性の境界さえ超えるんじゃないかという、澄み切った美しさ。ネアンデルタール人だって、この美については理解できるはずだ。
「俺は最初から玉藻を美しいと思っていたが、惹かれたのは顔じゃない。父に疎まれ兄に馬鹿にされ、家来にまで軽んじられても、誰も恨まず妬まず、自らの信念にそって生きる姿そのものに心打たれた。俺は父を殺された憎しみに囚われて生きていた。玉藻のそばにいる時だけ、憎しみを忘れ、息ができる気がした。玉藻のようになりたいと、ずっと憧れていた」
「ベタぼれっすね」
純也は本気で感心しているようだ。そうだ、本当に惚れてるんだ。3回も出逢えない人生を繰り返して、歌でアジュアをかける方法を考え出した。逢いたかったからだ。他の人では、代わりにならなかったから。
「それでも未成年には手を出さないって、えらいっすね」
「少なくとも一年、あるいは高校卒業までは」
神妙な顔持ちでシロウが呟くと、ざっくり切り捨てるように加瀬くんが言った。
「付き合う気なんてありませんけど」
みんながびっくりしたのは言うまでもない。純也も岸川くんも言葉の意味を理解すると動揺して眼だけきょろきょろさせていたし、シロウさんは凍り付いていた。僕だって似たようなものだ。ここまできて? あんなふうに抱き合っておいて? 子供を産みたかったのに?
「もう性別なんかどうでもよくなってると思った」
「きみがそれ言う?」
加瀬くんはあきれたような顔で僕に向って言った。
「谷くんの言うことは一理ある。昔と今では価値観が大きく違う。けどそれで、じゃあ今日から仲良くしましょうってことにはならない。大切なひとがたくさん死んだ。一緒にいれば過去を思い出す。もう終わりにしたいんだ」
加瀬くんは立ち上がり、シロウさんに向って頭を下げた。
「逃げ回って、申し訳ありませんでした。僕は、あなたに逢うのが怖かったんです。あなたはこんなに誠実にあろうとしてくれたのに。アジュアを使われたことには腹が立ちますが、あなたにはあなたの理屈があることも理解できます。お互いを尊重し、これからは自分の人生をまっとうしましょう」
晴れやかな笑顔を見せる加瀬くんと、能面のようになっているシロウさんを、僕らは交互に眺めた。ある意味、これは戦争だと思った。
「岸川くんからたどって、あなたが僕を見つけ出し、アジュアを使って監禁する。それが今一番怖いことです。けれどあなたにそんなことをする必要はない。あなたは充分に成功している。周囲に対し感謝の気持ちを忘れなければ、あなたはますます成功しますよ。玉藻より美しく有能な女性にも巡り合うでしょう。あなたの今回の人生に、私は必要ありません」
巫女の託宣のようだった。加瀬くんののびやかな声はお芝居のクライマックスのように「これはともて重要なセリフであり大切な情報なのだ」と思わせるものがあった。部外者である僕ら三人は観客に徹するしかない。
「下剋上を恐れる田舎藩主より、著作権に守られたシンガーソングライターのほうがよっぽど天下を取ったに等しい。誰もが望むのに手に入れられない幸福です。満喫してください。ファーストクラスのフライトや紺碧の海のプライベートクルーズ、そのへんの家より高価な車。なんでも手に入る。才能と努力でつかんだものです、楽しむべきだ」
舞台では、天女と鬼が対峙している。善意のように見せた侮蔑と、突き詰めた結果純粋性を持った悪意がそこにはあった。
「俺は何度も言ったが」
シロウの声は少し変わっていて、幾重にも音が重なっているかのように響く。歌手らしいと言えばそうなのかもしれないが、僕には、まるで呪いのようにも感じられた。
「きみは一度も言ってくれなかった」
加瀬くんの淡い色の瞳が潤むのが見えた。きっとふたりの間には道があって、言葉より多くのものが行き交っているのだ。僕たちがそこに入り込むことはできないし、その必要もない。これはふたりの問題だから。
「俺を……好きで、いてくれたんだろうか」
ひとすじ、加瀬くんの瞳から涙がこぼれた。頬の曲線に沿いきれず、それは地面に向かって落ちた。加瀬くんの白い肌には、ほんのわずかに濡れた跡が残った。目を凝らさなければ見えないその跡程度では、まるで泣いたことが見間違いだったような気がした。
「きみに、恐怖以外のものを、与えられたんだろうか」
加瀬くんの唇がどう動くのか、僕らは見入った。つややかで丸みがあり、ふれなくても柔らかいのがわかる。加瀬くんの整った顔の中で、一番愛らしさが見て取れる部分だ。唇は動かなかった。答えたくないのか、答えられないのか。
「終わりにするのか……?」
シロウさんは切れ長の眼をゆっくりと閉じた。とても苦しげだった。最初は怖いと思ったけれど、話せば、こんなに話が通じるひとだ。加瀬くんがあれほど逃げ続けたということは、それだけなにをするかわからない人物だったのだろうけど、彼も転生をくりかえし、思いやりの心を持つようになったのかもしれない。
「できるわけがない」
背中に冷たいものが走る。空気が変わった。シロウさんから怒りのような憎しみのような感情があふれ出している。だめだ、加瀬くんを守らないと、と思った瞬間に響いた。
「座れ!」
あの声だ。やすりでこすられる衝撃。岸川くんも硬直しているのがわかる。目の前で、加瀬くんがベンチに向って落下した。ただでさえ白い顔が、完全に血の気が失せて青くなっている。僕は動けない。岸川くんに仕掛けられたアジュアほどの拘束力はない、でもはっきりプレッシャーを感じた。岸川くんの手が膝の上でぎゅっと拳に握られるのが見えた。
「アジュアはこういう時のためのものだな」
誰も声を出さなかった。呼吸さえうまくできない。加瀬くんは唇をわずかに動かしていた。酸素を求めてる。喜びに溢れているようには見えなかった。こんなにもすさまじい力だとは思っていなかった。甘く見た。すべて僕の責任だ。
「俺を愛せと言えば、心から俺を愛するんだろう」
おぞましい呪いだった。そんなことが可能なのか。たったひとこと、愛せと言えば、加瀬くんは喜びのうちに彼を愛するんだろうか。現世も心も捨てて、プログラムされたロボットのように、彼にすべてを捧げるんだろうか。
「何百年待ったと思っている? こんなやり方は矜持が許さないと思ったか? 俺ももう限界だ。きみだけじゃない。俺も終わらせたい」
何百年もかけて探し出したのは、傷つけあうためじゃなかったはずだ。こんなやり方は絶対に間違っている。動かなければ、と全身に力を入れても、足が頼りなく震えるだけだった。
「そうしてほしい」
細く細く、糸のような加瀬くんの声。せつなくて苦しくて、あまりにも切実で、なんとか耳に届いても、空気が動くだけで霧散する声。
「俺を愛せと言って」
シロウの大きな手が加瀬くんの頬を包んだ。鬼神の荒ぶる魂に身を捧げる天女のように、加瀬くんは小さく儚く、声と同様に霧散してしまいそうだった。
「あなたを愛したい」
鬼はぶるぶると震えた。髪が逆立っているように見えた。愛しているからこそ残虐になるんだ。そこになんの矛盾もない。他の誰も代わりになれないから殺すのだ。絶対に失いたくないから、自分の手で。
鬼の眼からぼろぼろと涙があふれた。どんな映画でも見たことがない、ひとではないような涙だった。鬼の涙は海や湖を作る、そういう類いのものだった。鬼の悲しみに僕らは溺れて死ぬ。それは正しい現象だと思えた。地震や大雨と同じく、起こってしまったからには受け入れる以外に術がないものだった。
鬼はゆっくりと天女の頭に近づいた。まるごとすべて飲み干すのだろう。すっかり全部を腹におさめて、泣きながらこの世を終わらせるのだ。胃液が愛しい人の血肉を溶かし、やがて彼の中に残っていた心も溶けきって、悲しみと苦しみしかない壊れた世界で、希望も目的もなくただすべてを踏みつぶして生きていく。なにひとつ解決せず、誰ひとり幸せにならない。でもそれは明らかに、純粋で一途な愛情が引き起こしたこと。
シロウの唇が、加瀬くんのつるりとした額にふれた。ぼたぼた落ちる涙も加瀬くんの額にふれた。神話のようだと思った。僕らはそれを目撃している。加瀬くんは静かに目を閉じて、食われるのを待っていた。シロウはゆっくりと手を離し、しばらくそこに佇んだ。誰かがまたヒットを打った。音が戻ってきたことに驚いて、グラウンドを見た。くちぐちに叫びひとりが走り誰かが投げる。人間がいる。急に胸がいっぱいになって、右隣にある体温に寄り添った。
シロウは狭いベンチ前のスペースで、その大きな体の向きを変え、ゆっくりと去った。フェンスの向こうに消えるまで、僕らは動かず、ただ見送った。気が付くと加瀬くんは顔を伏せて泣いていた。グラウンドは点が入った歓喜に沸いていた。岸川くんの手が僕の背をなでた。空は青い。世界は終わらなかった。なのに、僕らは少しも喜ばず、誰もなにも言わなかった。
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