第6話

「スマホは二台、どちらもGPSを入れてる。番号は入力してもらったけど、津久くんのスマホにトラブルがあった場合も考えて、メモを書いたから持っておいてほしい。それとこれ、エアタグ。悪いけど、津久くんのスマホにアプリを入れてもらえるかな。もしもの時はこのエアタグで私を追跡してくれ」

 山に向かうバスに乗る前に、駅前のカフェで念入りに打ち合わせをしている。加瀬くんの読みでは、最悪の場合、拉致監禁されて二度と外には出られない。特に山には防犯カメラがないだろうから、車に乗せられてしまえば追跡は不可能だ。僕の役目は、隠れて動向を観察し、拉致の場合には車の写真を撮り、すぐに通報すること。

「そしてこれは万一の場合」

 眼鏡ケースサイズの黒い物体を、加瀬くんはテーブルに乗せた。

「サイドにスイッチがある。ここを押して、こっちを相手に押し付けるだけ」

 スタンガンだ。初めて見た。

「山についたら使い方を一度練習しよう。手袋をして。君が使うわけだけど、なにが起こっても、私が使ったことにするんだ。私なら正当防衛が成り立つ。私が買ったうえに、私の指紋しかついていない。問題はない」

 ぴったりと沿う手袋まで用意されてる。僕は唾をのみ、凶器にふれた。痛いほどの冷たさを感じた。

「四郎は運動神経がいい。私は昔サルと呼ばれるほど木登りが得意だったのに、それでも四郎にはかなわなかった。体格もいい。組み合ったら負ける。スタンガンは必ず隠して、身に危険が迫った時に自衛のために使ってほしい。なにせあいつはなにをするかわからない。もし津久くんが見つかって、私の友人だとわかったら、君を利用しようとするかもしれない。私は身元がわかるものを持っていない。だから津久くん、必ず逃げて。津久くんが捕まったら、もっとまずいことになる」

 今日、加瀬くんは眼鏡をかけていない。正視できないほど綺麗な顔がずっと目の前にある。なんだか少し気恥ずかしい。

「巻き込んでごめん」

「そんなこと言わなくていい。一緒に、サバイブするって誓ったよ」

 加瀬くんは一瞬きょとんとし、少し笑った。こっちの心臓がおかしくなるくらい、魅力的だった。

「津久くん、変わったね」

「そう?」

「とても強くなった。それに藤成さんと、均整がとれた状態で融合しつつある」

 今までは夢で追うだけだったのに、あの藤棚で藤成の気持ちとシンクロしてから、確かに僕もそれを実感している。言葉にできるほど明確ではないけれど、なにかが変わった。

「ひどいものだね、アジュアは」

 加瀬くんはそっとため息をついた。

「悪い予感しかないのに、命令に従うことが嬉しくてたまらない」

 そんな様子には見えない。ということは、加瀬くんは類まれな精神力で自制しているんだろう。僕も経験したから、その喜びは理解できる。あれは本当に凄まじい感情だった。どうしてこんな機能が転生に組み込まれているのかわからない。偶然の(または必然の)産物なんだろうか。

「あのシロウが、来るのかな」

「私を確認できるのはシロウだけだからね」

 シロウの動画を見せて、それが河越正四位四郎通勝であることは確認済みだ。同じ顔だと加瀬くんは言った。戦国時代にこんな男前が存在したとは驚くばかりだ。背が高く、顔が小さく、均整の取れた顔立ち、どことなく野性味があり、姉が言うには超セクシー。目の前の加瀬くんは、瞳の色があまりに淡く、ふと目を合わせれば視線が縫い付けられ動けなくなる。肌が白く、いや白いという表現が正しいのか、色の問題ではなく、とにかくはっと心が吸いよせられる。抜けるように白いとか、輝かんばかりとか、くすみひとつないとか、そういう表現はすべてこの肌にささげられているのではないかと思う。妖精と言われたら頷くしかないくらいに、人間離れしている。以前から綺麗だとは思っていたけれど、最近はどんどん洗練されていっている。

 お似合い、だったろうな。男女であった時は。

「前に、過去のことを話してくれた時は、シロウのこと通勝って呼んでいたよね」

「あの頃は名前を呼ぶことは不吉とされてたんだ。君たちにわかりやすいようにという意識が働いて通勝と言ったけど、当時から実際には四郎と呼んでいた」

 四郎とシロウ。名前が同じだと、正路くんと岸川くんほどの違いがあるように思えなくなる。気のせいだとわかっているけれど、もしも完全な同一人物だとしたら、かなり厄介な相手だ。

「何度も言うけど、絶対に自分の安全を優先してほしい。君が捕まったらすべて終わりだ。逆に言えば、君さえ助かればこちらも助かる可能性がある」

「わかった、約束する」

「万一私を見捨てることになっても後悔しないでほしい。どうせ長く生きられないんだ」

 とんでもない告白に立ち上がりかけた。確かに加瀬くんは華奢で線が細いけど、健康にしか見えない。

「前に話したろ。主従の関係で、従は無理矢理転生に付き合わされてるんじゃないかって。その根拠が私なんだ。二十五歳を超えたことは一度もない。生まれつき心臓に問題があったり、気管支が弱くて肺を病みやすかったりしてる」

「えっ!」

「今みたいに医療が発達してる時代じゃないから、そうなんじゃないかって程度なんだ。気が付くと病気になって死んでいた。そんな顔しないで、今は健康だよ、特に検査でひっかかったこともない。けどおそらく、そのうち死ぬんだと思う」

「加瀬くん、本当にそのうち死ぬとしても、君を助けない理由にはならないよ」

 加瀬くんは少し驚いた顔を見せ、それから笑った。美しかった。四郎は馬鹿だ。この笑顔を見れないじゃないか。こんなふうに笑ってくれない加瀬くんを手に入れてどうするんだ。

「津久くんに逢えてよかった。一年生の時から、君と谷くんと、仲良くなれたらと思ってた。けれどそうなるのが怖かった。転生は、いいことばかりじゃないから」

 その言葉の意味が、今ではよくわかる。

 時計を確認し、加瀬くんはカップに手を伸ばした。僕もカップを手に取った。ふたりとも一応コーヒーを注文したけれど、山ではトイレが不安なので、あまり飲まないようにしている。どこにでもあるチェーン店のカフェショップ。僕らの住む町のカフェと同じ雰囲気。客も似通っている。自分たちだけ、このいつもの風景から浮いてしまっている気がする。もう日常には戻れないのかもしれない、そんな不安が胸に渦巻いている。

「玉藻はどうしておなかの子を殺したんだろう」

 加瀬くんはカップをテーブルに戻して、ささやくような声で言った。

「玉藻は優しい。植物も動物も大切にしてた。脳筋な父親や兄たちと違い、公家筋の母親に教養を与えられた。母は玉藻しか産めなかった。体が弱かったんだ。玉藻はいつも妹か弟がやってくるのを願ってたけれどね。母は暮らしに馴染めなかった。側室たちの嫌がらせもあり、父と離れて暮らしていた。玉藻は情緒が安定している子だった。詠んだ和歌からも感受性が強いことがわかる」

 なぜ他人事のように話すんだろう。不思議に思いながらも、くちは挟まなかった。加瀬くんが話したいと思っていることを、大切にしたかった。

「僕は全然不思議に思わないよ。無理矢理だったんでしょ」

「いいや、四郎はちゃんと手順を踏んだ。玉藻の気を変えるためとは言わなかったが、子供が欲しいとちゃんと伝えてきた。玉藻がいやがることはしなかった。ひとつひとつ、ゆっくり、玉藻の気持ちを慮って段階を踏んだ。玉藻は、寿寿丸のことがずっとずっと好きだったから、忘れずに迎えに来てくれたことを喜ぶ気持ちも、わずかにあったんだ。その喜びが憎しみを煽った。喜ぶ自分を許せなかった。玉藻に何度打ち据えられても、四郎は耐えた。そのことが玉藻をもっと傷つけた。無理矢理だったらよかったと思う。玉藻は傷つきながら、憎しみながら、尚も自分を愛し続ける四郎に惹かれ、自分を憎んだ」

 加瀬くんは疲れたように額に手をやった。

「私は玉藻だった。なのに、玉藻が自分の子を殺そうとした事を考えようとすると、突然玉藻から引き離される。自分とは違う人間に思えてしまうんだ」

「その時の気持ちは、覚えてるんだよね?」

 忘れてしまったんだろうか。それとも、錯乱していて自分でもわからなくなっていたんだろうか。

「それが、転生を重ねすぎたせいで、所々記憶が曖昧なんだ。初めて転生した時ははっきり覚えていた気がする。今は自分の事というより、映画を観るような感覚に近い。なにが起こったかはわかっても、なにを感じているかは推測しかできない時がある。リアルな記憶はもちろんあるよ、自分の喉を突くための短刀の重みや、母上の装束の目に痛いほどの白さ。憎しみにまつわるものは、記憶も感情も明白なんだ。忘れたくても忘れられない。なのに、四郎への気持ちになると、突然切り離されてしまう。最期の時も同じだ。覚えているのに、覚えていない気がする。抜け落ちたものがたくさんあるんだ。曖昧な部分をはっきりさせたくて歴史を調べた。調べていく過程で思い出したこともある」

 加瀬くんはテーブルの上で掌を上に向けた。そこに乗る丸薬が見えた。

「考えても意味はないか。玉藻は丸薬を飲んだ。おなかの子供を殺すほど、四郎を憎んでいたんだ。憎みながらも四郎を愛したという私の記憶が間違ってるんだろう。四郎は玉藻に選ばせるように見せて、その実、選択肢などなかった。玉藻は自分で選んだと思っていたかもしれないが、選ばされたんだ。それは無理矢理と同じだ」

「人質が誘拐犯に好意を持つっていう、ストックホルム症候群みたいなことかな」

「そうだね、そういう類いのことなんだろう。家族を殺され、国を奪われ、味方は誰もいない。頼れる人間は四郎のみ。そんな極限状態じゃ、自分の気持ちさえわからなくなる。ストレス過多で記憶にストップがかかっているのかも。それに私の性別が違ってしまったことも大きい気がする。女性の感情をリアルに感じられないのかも」

 それはすごく腑に落ちた。女子の考えてることはわからない。こなっちゃんが頭に浮かぶ。本当に、わからない。

「歴史を知らべて、わかったことある?」

 今になって納得する。それで郷土研究部だったのか。きっと普通の歴史書ではわからないことも調べるノウハウを持ってる。この部は全国的に有名で、テレビの取材もたまに来る。相州流にすぐに行けたのも、ネームバリューがあったからだと思う。

「隣国は瑞科藩といった。玉藻の藩は歴史をさかのぼると家臣に当たる。領土は四分の一ほどだった。瑞科はかなり戦力のある国で、周囲からも一目置かれていた。寿寿丸の父親を切腹に追い込み、跡継ぎである寿寿丸を手元に置いた。寿寿丸は頭がよく、特に薬草に詳しかった。瑞科藩でも自分で薬草を掛け合わせては、不調の家臣を助け、人望を得ていった。私たちが出逢ったのは真菰の群生地なんだ。私は母の病いに効くという真菰をよく取りに行っていた。河越藩は東北の入り口と言える場所にあり、薬を特産にしていた。どうやってそこまで逃げたのかわからないが、地方の薬草に詳しい寿寿丸は重んじられただろう。河越が京に向って勢力を伸ばすには、激戦区である甲斐を見過ごすわけにいかない。そこまでの通り道にある瑞科を攻めるのは定石だった。河越藩に男子は生まれなかったから、寿寿丸が婿になったことで、次期藩主の候補になる。きな臭くなるのはここから。寿寿丸の周囲で変死が相次ぐ。記録上は病気となっているがあまりに都合のいいタイミングのため、毒殺ではないかと言われている。政敵がみんな死に、自動的に寿寿丸は跡継ぎとなり、そうして藩主が死んだ。それからすぐに、寿寿丸は瑞科を攻めた」

 怖い。状況から判断するに、寿寿丸の仕業としか思えない。玉藻さんが慕うほど優しく聡明な寿寿丸が、本当にそんなことをしたんだろうか。当時仇討ちは当然の行為。とはいえ、やり方があまりに汚い。

「河越はうちの藩に和睦を申し込んでいた。瑞科に加担せぬよう文を送っていたんだ。父が蹴った。父にしてみれば当然のことだった。戦になれば不利だと父はわかっていたはずなのに、義を重んじた」

 その寿寿丸がシロウになったことを考えると、今日、穏やかな話し合いが行われるとは到底思えない。寿寿丸の玉藻さんへの執着は異常だ。玉藻さんは加瀬くんから想像するに、絶世の美女だったはず。だから手元に置きたい気持ちはわかる。けど、それにしたってやり方がおかしい。加瀬くんが監禁を警戒するのは当然だ。

「行こう、バスの時間だ」

 僕は頷いた。僕も、身元が分かるものは持ってこなかった。拷問されたら話してしまうと思うけど、うん、それはもうあっさりと話すけど、多分ペンチとかが見えた時点で話すけど、でもとにかく、なんとしてでも無事に家に帰る、加瀬くんと一緒に。

「加瀬くん、頑張ろう」

 僕たちは力強く拳をぶつけた。

 まともな話し合いができればそれでいい。もし向こうが力づくで加瀬くんをどうにかしようとしたら、絶対に守る。

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