第5話
休みが明けて、郷土研究部から正式に申し込み、相州流本部に伺うことになった。いつもながら加瀬くんの行動力や発想力には感嘆するしかない。顧問の先生も同席するという話だったけれど、加瀬くんがどう動いたのか、僕らふたりだけでの訪問になった。相州流は意外にも県内に、三階建ての近代的な和風ビルを建てていた。戦後ここに拠点を移したらしい。
純也は、いつもと変わらない。僕らはいつもと同じようにくだらない話をし、おすすめの動画を確認し合い、昼ご飯を一緒に食べる。もう前世の話はしない。
玉藻姫の命日は今月末の日曜。加瀬くんの体調変化は、三十分ほどで落ち着き、その後は特に異常はなさそうだ。命日までは普通に暮らすよ、と加瀬くんは言った。行かずにいることはできないようだった。アジュアは絶対だから。
「お待たせして申し訳ありません」
濃紺のはかま姿の男性が、お茶の乗った盆を手に入ってきた。三十代だろうか。思ったより若くて驚く。男性は僕らの前にお茶を置いてくれた。それから名刺を取り出して、僕らに渡してくれた。
「広報をしております、米田といいます。今日はよろしくお願いします」
米田さんは深々と頭を下げた。僕は加瀬くんに合わせて頭を下げた。
「お忙しいところ、お時間いただきありがとうございます」
そう言ってから加瀬くんは自己紹介をした。僕も名前だけ伝えた。
「こんな若い方が茶道に興味を持ってくれるなんて、嬉しいなあ」
よければお茶をどうぞ、と続けた。湯のみには蓋がついている。器が小ぶりで、蓋は器より一回り小さく、器の内側に落ちている。すすり茶だろうか、と蓋をずらしてみたが、中は普通の煎茶だった。
「いただきます」
蓋を器の右側に置き、お茶を飲む。おいしい。ちゃんと甘味がでている。色も鮮やかな緑で美しい。煎茶でもこのクオリティとは、さすが相州流。
「私たちは流派というものの成り立ちについて調べています。茶道だけでなく武道や華道にも流派がありますよね。どの時代にどんなふうに分離していったのか、それぞれに共通点はあるか、という点に着目し掘り下げています」
一週間前に始まった加瀬くんの新しい研究は、すでにかなりのデータをまとめ上げている。できたての厚いレポートをテーブルに置きながら加瀬くんは柔道や剣道の流派について整理した流れを説明した。
「なるほど、では相州流の年表が役に立ちますね」
米田さんは立ち上がり、棚の前で本を探した。
「おふたりは、茶道をたしなまれてるんですか?」
二冊手に、米田さんはソファに座りながら言った。
「あ、少しだけ」
そう返事をすると、加瀬くんが首をものすごい角度に曲げて僕を見た。
「違うよ、子供の時の話。小学校」
だったらもっと早く茶道家元ってたどりつけたんじゃないのか、という眼光が突き刺さる。ごめん。むしろ身近すぎて藤成の茶会の話とか普通に思えちゃったんだ。
「小学生で習うのは珍しい。なにかきっかけがおありだったんですか?」
「テレビで、男性がお点前をしている映像を見たんです。それでものすごく、なんていうか、惹かれて。母に頼んで茶道教室に入りました。といっても、子供向けのところでした」
「しかしすすり茶をご存じでしたよね。茶器の扱いも見事でした」
すすり茶は、茶道教室で習ったんじゃない。ただ知っているだけだ。急須を使わず、茶器の中に茶葉とお湯を入れる。蓋をして蒸らしたあと、蓋をずらして隙間から煎茶を飲む。
「加瀬さんも慣れておられるようだ」
「いえ、私のは教養の範囲です」
いちいち受け答えがかっこいい。
「これが相州流の年鑑になります」
米田さんが広げた、卒業アルバムみたいな本の最初に年表がある。始まりは戦国時代。大正時代までページを繰った。大正の終わりの宗主の欄に、片桐正路、と書いてある。生きていた。本当に正路くんは存在していた。何年だ、宗主をしていたのは十年くらい? 三十前半で正路くんは亡くなったのか? 結婚は? 子供は? 次の宗主は苗字が違う。米田さんが慣れた調子で相州流の歴史について語っているのを、はやる気持ちを抑えて聞いた。ひと段落して、加瀬くんが言ってくれた。
「あの、彼は大正時代の流派の変化について着目しているんです。大正時代というのは大きく文化が変化した時代ですから。例えばこの、片桐正路さんがおられた時代についてお伺いできますか?」
「ああ、このひとは宗家の最後の方です。お子さんがおられなくて、ここからは血縁ではなく理事会で宗主が選ばれるようになりました。遠縁の方が継ぐという話もあったんですが、おっしゃる通り変化の年代で、このひとが後継方法を指示したと聞いています」
子供が、いなかった……。もしかしたら、結婚さえ、しなかったのでは。
藤成は願っていた。相州流と正路くんの血が長く続いていくことをずっと祈ってた。それは嘘じゃない。心からの祈りだった。なのに僕は今、嬉しい。これは恥ずかしい気持ちだ、と思うのに、心臓の周りがじわじわと温かくなる。
「お若くして亡くなられたんですね」
「そうですね。あの時代ですから、確か病死だったんじゃないかな」
病死。聞くだけでつらい。はやり病だろうか。苦しんだだろうか。まだまだ若い、やり残したことがたくさんあったはずだ。
「このひとは素晴らしい茶道家でした。時代遅れになっていた作法を改め、どんどん新しいものを吸収し、相州流はここで生まれ変わったと言われています。当時ではモダンと言われたのではないでしょうか。革新的で、斬新でした。そう、幽霊画を掛け軸にした夏の点前などは、他流派でもご存じの方が多いですよ」
加瀬くんと目が合った。鼻の奥がじんじんする。正路くんにふれている気がする。ここにいる。正路くんは藤成のことまで残してくれた。生きた証を、こんなにはっきりと。
「あのっ、藤成って名を聞かれたことないですか」
我慢できなくて僕は聞いた。苗字は片桐だと思うのですが、と言う前に、米田さんが「えっ」と驚いた。加瀬くんとまた顔を見合わせる。
「すごいな、そんなことまで調べたんですか?」
米田さんは僕らを褒めるような表情だった。
「藤生りは、わが流派の奥伝につけられている名です」
奥伝?
「師範代以上の者が習うことができる点前です。これも先ほどの正路が完成させました」
「鈴生りの……」
僕が呟くと、米田さんは声を出して笑い、膝を打った。
「すごいな! そうです、鈴生りならぬ藤生り、と言われています。いやあ参りました、素晴らしい探求心だ。相州流では藤をシンボルとして大切に扱っています。ここの庭にある藤棚は、移転の際、宗家から移植したのです。正路の戒名には藤が入っています。奥伝も藤にまつわるお点前なんですよ」
藤成は歴史に残らなかった。けれど、現世に残るほど愛された。形を得て、さわることさえできるほどに。関西に流れた後、藤成は記者になったんだろうか。正路くんとは再会しなかったのか。どうやって死んだのか。僕はまだそこまで思い出せていない。
「流派の分岐についてお調べでしたね。こちらが相州流の起源についてまとめたものです。あとでコピーをお渡しします。それと相州流の特徴、他流派との違いなども」
「こちらは随分古い本ですね。こんなに前からきちんとまとめておられた」
加瀬くんが本を受け取り、最後のページをめくる。そして手を止め、僕に見せてくれた。大正の日付と、文責という言葉の下に、
「片桐藤成」
僕らは同時に言った。
「え? おや? 本当だ、奥伝と同じ名の方ですね。偶然なのかな」
米田さんは本を取り返し、文字を確かめつつ首を傾げた。それから、考えても仕方がないという顔でもう一度ページを繰る。
「コピーはどのあたりを取りますか?」
「では第二章のこの表と年表をいただけますか」
「起源と特徴もどうですか」
「数が多くなってしまうのに、ありがとうございます」
加瀬くんがつつがなく話を進めてくれて助かった。感情が揺れて言葉が出ない。よかったね藤成。あなたが愛したものは、すべて正しい形で残った。あなたが犠牲を払った以上に、返してもらっていたんだよ。
「少し時間がかかりますので、庭で藤をご覧になりませんか。今年は春が寒かったので、連休中に咲きだしたのですよ。盛りは過ぎましたが、まだまだ見ごたえがあります」
「ぜひ!」
反射的に僕は叫んでいた。米田さんは嬉しそうにしてくれ、庭まで案内してくれた。館内も立派だけれど、広々とした芝生のある庭は、一瞬息を飲むほどの美しさだった。一角に藤棚がある。なんて大きく立派なんだ。垂れさがる鮮やかな紫は滝と見紛う荘厳さ。息を吸うと、藤のさわやかで甘い香りが僕を満たした。知っている、この香り、知っている、あの藤棚。勝手に足が速くなる。花が散っている。いいや舞っている。ちらり、ちらり、桜とは違う、螺旋を描いて舞っている。知っている、宗主が僕を抱き藤成と名づけてくださった。柱に巻き付いた太い蔦に手を置く。知っている。小さな正路が藤に向って大きく手を伸ばして、僕が抱き上げ、それでも藤には届かなくて、僕らは落ちてくる花びらに喜んだ。覚えている。ひとのいない夜、この香りの中でキスをした。愛している。誰にも渡したくない。覚えている。この花を見るたびに、私の名を好きだと言ってくれた。はにかんだ、慈しむような笑顔。居所のないこの世界で、おまえだけが私の揺るがぬしるべだった。おまえがいるから、私は生きることを許された。おまえが私を愛してくれたから。なぜこれほど愛しいものを手放さなければならないのか。正路、私は身を切られる思いだ。それでも、私がおまえを手に入れるわけにはいかない。おまえは私を非情だというのだろう。それでいい。それが望みだ。願わくばおまえにこの痛みが生じぬことを。正路、私の宝。どうか私のことは忘れておくれ。おまえは正しい路を行く。
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