第4話 

 街中にある小さめの商業ビル、一階奥まった場所に回顧展はあった。さほど広くもないホールに、簡易なパテーションを立てて進路を作っている。岩積祥太郎ファンの有志が催したんだろうか。入り口でパンフというかチラシを貰った。サイトにあった、大きな横顔。ほんと綺麗な顔だ。女性的という意味ではなく、ギリシャ彫刻のような、芸術的な整い方だ。ポスターの岩積祥太郎はなにを見つめているんだろう。真剣な視線、というだけじゃない。哀愁や厭世といった、陰のある視線だ。この写真が選ばれた理由がわかる。映画の名シーンのように、意味や意志を感じられるからだ。彼自身の、人間としての深みが伝わってくる。

「我ながら男前だよなあ」

 初日オープン時間だというのに特にセレモニーもない。オープン待ちのひとは数人いた。高齢者がほとんどだけど、大学生くらいの若い人もいる。中に入ると、色あせた映画のポスターがいくつも貼ってあった。加瀬くんは五作品と言っていたけれど、二十は軽くありそうだ。

「どんな人生だったの?」

 僕が聞くと、純也は思い出すように顎先にふれながら話す。

「生まれた家は貧乏で、物心ついた時には戦争だろ。とにかく稼がなきゃ弟妹養えないし、小さい時から働いてたなあ。学校なんかほとんどいかなかった。そば屋の仕込み、八百屋の運搬、市場の掃除なんかもやったな。十歳くらいから顔がいいって言われだして、飲み屋の姐さんなんかが小遣いくれてさ。そっちの仕事も手伝ったり。戦後に数えの十八で、映画会社所属の俳優オーディション受けたんだ。すごいんだぜ、まだ研修生だったのに映画の準主役に抜擢されてさ」

 すれ違う老婦人が「よくご存じねえ」と声をかけてきた。純也は嬉しそうに頭をかいた。口元を手で隠し、こそっと耳打ちしてきた。

「どんな年齢の女もイチコロだった」

 純也だという岩積祥太郎は、太陽みたいなひとだ。笑顔が文字通り弾けている。見ているだけで心が浮き立つ。そうだな、これは純也だ。そばにいると浄化される気がするくらい、良い波動のようなものを感じる。芸能人というのは、こういうオーラこそ求められるんだろう。スーツを着ていたり、水兵服だったり、けれどどの写真でも、岩積祥太郎は魅力的だった。

「私の若い頃はね、そりゃあもう、人気だったのよ。もうとっくに亡くなってたのに、みんな祥ちゃんに夢中で、映画は何度もリバイバルがかかったの」

 さきほどのご婦人はナチュラルにそう話しかけてきた。

「どうして亡くなったんですか?」

 加瀬くんが聞くと、ご婦人は首を傾げた。

「事故だったかしら」

「ヤクザにボコられた後、女に刺された」

 純也がまた耳打ちしてくる。

「まさか、こなっちゃんじゃないよね」

「こなつを撒いて違う女呼んだら刺されちまったんだ」

 前世の記憶が強く戻ってるんだろう、口調が引っ張られてる。僕も藤成に引きずられないように気を付けなければ。藤成は正路くんのためなら、僕を抹殺することをなんとも思わないだろうから。

「今のアイドルなんて目じゃなかったわよ」

「かっこいいですもんね」

「そうでしょ。ほらこのレコード、これもいい曲なのよ」

 加瀬くんはご婦人とすっかり盛り上がってる。純也はそれぞれの映画の思い出をいちいち僕に耳打ちしてくる。

「この監督は鬼だったぜ。撮影に竹刀を持ってくるんだからまいっちまう。気に食わねえとそこらじゅう叩きまくって、俺だってケツを何度叩かれたことか」

 僕は僕で、こなっちゃんがやって来ないか周りを何度も見渡してしまう。純也はなんでこなっちゃんが気にならないんだろう。そりゃそう簡単に再会なんかできないだろうけど。そうだ、あの前世ソング。あれを聞いて、命日に死んだ場所で逢おうとするひと、増えるんじゃないか。こなっちゃんもそうするかもしれない。純也に提案しようと顔を上げると、純也は、驚いた表情でなにかに見入っていた。

「なつこ……?」

 純也の視線の先には、僕らと同い年くらいの女子が立っていた。ばっちりメイクで目立たせているが、実際にはさほど大きくないんだろうな、と思わせる目。ぽっちゃりとした鼻。アースカラーのおしゃれなワンピースなのに、なぜか全体的に地味な印象。

「こなっちゃんだろ!」

 まぶしくて目を細めなければいられないほどの輝く笑顔で、純也は彼女に近づいて行った。彼女は笑っていなかった。驚いている。

「しゃれちまったなあ、見違えたぜ!」

 加瀬くんが僕の隣に来る。僕らも興奮していた。そうなればいいと思いながら、まさか今日再会できるなんて幸運はないと思ってた。信じられない、純也はなんて運がいいんだ。つい最近思い出したばかりだっていうのに、こんなに簡単に運命の相手に巡り合うなんて。これが加瀬くんの言っていた、正しい相手、ってことなんだろうか。加瀬くんをちらりと見ると、同じことを考えていたんだろうか、嬉しそうなのに寂しそうな顔をしていた。

「祥ちゃん……なの?」

「おう、あっちが連れだ。しまったな、まさか逢えるとは思ってなかったからよ、ダチを連れてきちまった」

「え、祥ちゃん……、え、あなたが祥ちゃん?」

 彼女はいきなり加瀬くんにそう呼びかけた。一瞬固まった後、加瀬くんは激しく首を振った。

「おいおい、俺だって」

「そんなわけないじゃない!」

 彼女は悲鳴のような声を上げた。会場の全員がふたりに注目した。

「顔が違うじゃない! 全然違うじゃない!」

「ああ、なんか知らねえがそうなっちまったな」

「あの顔が好きだったのに! あの顔じゃないんだったら、あんたなんかただのクズじゃない!」

 え?

「え?」

 純也の声がぽっかり浮かんだ。え? 加瀬くんを見ると、加瀬くんも僕を見ていた。いたたまれなくて、僕らは同時に目をそらした。

「なつこ」

「名前を呼ぶな!」

 彼女は走り出した。加瀬くんが「僕が」と純也に言い、追いかけた。言われなくても、純也に追いかける気力はなさそうだった。会場内は水を打ったようにしーんとしている。純也は、ポスターの岩積祥太郎と同じ横顔でこなっちゃんを見送っていた。

「がっかり、させちゃったんだな」

 むりやり純也が笑う。そんなことしなくていい、と言いたくて、でも言葉が出なかった。泣きそうになって、前髪を引っ張った。

「ねえ、あなたたち、これで温かくて美味しいものを食べなさい」

 ご婦人が近づいてきて、五千円札を純也の手に握らせた。とんでもない、と言おうとしたけれど、純也が真剣な顔でお金を見ていたので、口を出してはいけない気がした。純也はにっかりと、そうニッカリという昔の漫画に出てくる擬音語しか当てはまらない笑顔を見せた。

「ばあさん、あんた、いい最期を迎えるぜ」

 血の気が引いて卒倒しそうになったが、ご婦人は顔をぱあっと明るくした。

「いやだ! そのセリフ、祥太郎そっくり!」

 え、映画のセリフなのか? 周囲のご老人たちも声を出して近づいてくる。

「兄さんあんた、なんだか岩積祥太郎に似てるねえ」

「声がそっくりじゃないか」

「若いのが女のひとりやふたりで落ち込むんじゃないよ」

「それも映画のセリフだカハハハ」

「ほら、俺もカンパだ。少ないけどな」

「三人連れだったろ、足りないんじゃないか? これも持っていきな」

 いつの間にか純也は人垣の中心になり、どんどん渡されるお札に軽やかに礼をしながら受け取っていた。岩積祥太郎は、きっとこんな人物だった。誰もが彼にふれたくて、いろんなものを差し出しながら近づいて、彼はそれらを軽々と吸収し、恩に着ることもなく、自らの魅力に対する正当な報酬と受け止めた。これがスター。

「くさるんじゃないよ」

「がんばんなさい」

「ああ、いい笑顔だ、スカッとするね」

「あんたらが汗水たらして稼いだ金だ、一銭残らず俺が飲み干してやるぜ。みなさん、ありがとうござい」

 純也はスケート選手がするような、派手なお辞儀をした。周囲はわっと沸いて、拍手した。純也が僕の腕をつかみ、「映えを食べに行こう」と言った。みんなはにこにこと僕らを見送っていた。

「ひいふうみぃ、結構あんな」

「純也、お金返したほうがいいよ」

「一回出した金を引っ込められるわけないだろ」

 純也はいつもの笑顔だった。ビルを出て、右に左に、少しも迷うことなく進んでいく。純也はこんなに東京に詳しかっただろうか。ここに来るまでは、加瀬くんのあとにぴったりついていたのに。

 着いたのはとんでもなく大きなホテルで、兵隊のような格好をした人がエントランスにたくさんいた。純也がどんどん入っていくので、僕は「え? なんで? ここだっけ? 違うよね?」と必死に止めようとしたが、兵隊さんたちは純也を止めてはくれず、簡単に中に入ってしまった。中はおそろしいほど天井が高く、目の前に大きすぎる階段があった。鹿鳴館に随分似ている。純也は歩調を緩めず進み、奥にあるカフェスペースの席に座った。テーブルのオススメを示すメニュースタンドには、イチゴジュースが二千円と書いてある。

「純也無理だって出よう」

 スマホで加瀬くんにメッセージを送りながら、純也はスタッフさんを呼んだ。

「アフタヌーンティーセットをみっつ。全部アッサムのミルク。ひとりは遅れてくるんで」

 そして僕を振り返り「これで綺麗に使いきれる」と言った。

 諦め、僕も席に座った。窓際の広々としたテーブル。窓の外には日本庭園と滝が見える。良さはちっともわからないけれど、これが贅沢な空間なのだきっと。

「こういう金、岩積祥太郎には普通のことだったんだ」

 ぼんやりした顔で庭を見つめている。

「十四の時、知らないババアが上に乗っかってきた。それが俺の初めて。働くより、女がくれる金のほうが多かった。みんな俺の顔を褒めた。この顔がついてりゃなんでもいい、って言われた。映画が成功して褒められても、顔が顔がって言われる。だんだん、俺は着ぐるみを着てて、みんなこの着ぐるみが好きで、俺がこっそり中から抜けても全然気づかないんだろう、って思うようになった。女の子にひどいことをいっぱいした。優しくて明るいこの顔じゃなくて、俺がおまえを傷つけてるんだよって思いながら傷つけた。俺が生きてここにいたことを絶対忘れられないようにしたかった。女の子はみんな優しくて、金くれて、俺を好きだって言って俺を気持ちよくしてくれた。けどほんとは気持ちよくなかった。社長はいつも俺を叱ってた。俺のことはどうしようもないと思ってるくせに、俺の顔が捨てられない。どこまでいけば捨てるのか見たかった。この顔が捨てられるところを見たかった」

 あの整った顔で、あの神々しいくらいの笑顔で、岩積祥太郎は、そんな地獄にいたのか。

「みんながこの顔を捨てたのに、なつこだけは捨てなかった。ああこいつだったんだって思った。俺の中身を愛してくれてたんだ。もうこの顔は要らないんだ、ってホッとした。なつことやり直そう、なつこと普通の夫婦になろう。そう思ってたのは俺だけだったみたいだ。もっとちゃんと確認しとけばよかったな」

 三段になったお皿に、おもちゃみたいな小さなケーキがいくつも乗ってる。こんなものがくるとは思ってなくて、驚いて純也を見たけれど、純也はいそいそとスマホを取り上げている。一番上はサンドイッチだ。サンドイッチとスイーツってバランスが悪すぎないか、ごはんなのかデザートなのか。花が飾ってるけど、まさか食べられるのかな。いやこれは飾りに違いない。銀のポットが置かれ、砂時計が添えられる。なぜ出来上がってから持ってこないんだ。最初に紅茶を淹れておけば、セッティングの間に出来上がるだろうに。小さなコップにパフェみたいにいろいろ入ったのとか、スプーンの上にいろいろ乗ったのとかがズラリ並ぶ。もくもくと煙が出続けているボックスや、どうやって食べるのかわからないものもある。

「映え~」

 言いながら純也は写真を撮った。僕も撮った。ひとつノルマがクリアできた。僕はスプーンに乗ったなにかを食べてみた。口の中がオレンジになった。食べたものと味が合わなくて、どんな表情を浮かべるべきなのかわからなかった。

「わあ、豪華だね」

 加瀬くんが現れて、僕の隣に座った。どうしてここなのか、なぜこんなものを食べているのかなど一切聞かず、営業マンのように経過報告を始める。

「えーと、なつこさん。今は鹿田真智さん。一応連絡先を聞いた」

「謝ったほうがいいかな」

 純也が心配そうに聞いた。

「それが……私の連絡先を教えるのが条件だったんだ。連絡をする時は私を介してもらわないといけない」

 ああ、なんか腹が立ってきた。

「こなっちゃん、マジでラブ・グッドルッキングガイだなあ」

 純粋に驚いたように純也が言う。

「谷くん、私は十人くらい、転生者が再会を果たすのを見てきた。その場でうまくいかなかったケースもある。後になって、ダメになったのもある。珍しいことじゃないんだ」

 また三段の皿が運ばれてきた。とても姿勢のいいスタッフが、音もなく加瀬くんの前に食器を並べる。

「え? 私も?」

 加瀬くんは驚いたけど、やっぱりそれ以上なにも聞かなかった。

「もしかしてさ、みんなは前世と同じ顔なん?」

 唐突に純也が言った。加瀬くんはサンドイッチをつまみながら、僕を見た。

「実は谷くんが初めてなんだ。前世と違う顔のひとを見たのは。津久くんは完全に同じ顔。私は、最初は鏡を見ることが滅多になかったからわからないけど、多分、変わってないかな」

「へえ、じゃあやっぱ、俺があの顔嫌ってたからだな」

 純也は小さな菓子をパクパク口に入れた。ものすごく高額なんだからもっと味わったらいいのに。おばあさんたちのお金が無駄になる、とハラハラした。

「どうなるんかな。ここでくっつかなかったら、転生終わり? それとも加瀬くんみたいに次も転生すんのかな」

 いつの間にか砂時計の砂が落ちきっていたので、僕はカップに紅茶を注いだ。すごく渋かった。ミルクを入れた。ミルクは温かかった。

「わからない。毎回、二度と転生しないようにと祈ってるけど、こうして転生してしまってる。止める条件がわからない。もしかしたら、相手と同意することが条件かもしれない」

 さっきのが同意なのかわからないけど。あんな終わり方っていいんだろうか。

「もし転生するとしても、あの顔には戻らない。こなっちゃんに好きになってもらうのは難しそうだな」

「純也はそれでいいの? あんなこと言ったこなっちゃんを好きになれる?」

「好きとかじゃなくないか? 責任あるだろ、俺」

 持ち上げていたスプーンを置いた。責任? 転生したから? 転生させたから? 岸川くんもそうなのか。そうだな、だってあれだけモテて、僕を好きになるわけがない。責任で僕にかまってるんだ。なんだよ責任って。加瀬くんの言ってた主従っていうやつ? 主には責任があるって決まってるのか?

「こなっちゃんより鹿田さんの意識が強いんだと思う。あの言葉はこなっちゃんのものじゃなく、鹿田さんの考えなんじゃないか。こなっちゃんは、顔のことなんて気にしていないかもしれないよ」

「えっ、そんなことあるの?」

「津久くん、言っただろ、前世に乗っ取られるって。もちろん逆もある。私が見てきたうまくいかなかったケースは、相手の身分が低すぎるとか、宗派が違うとか、いまさらそこ気にするのか、というものだった。現世の意識が強ければ、前世の約束なんてなんの意味もない」

 じゃあ、そのひとたちは、なんのために転生したの? 

「加瀬くんはさ、その相手に逢えなかった人生で、誰かと結婚した?」

 純也にそう質問され、加瀬くんは視線を庭に流した。不思議な形をした木々を眺める。伯爵邸の庭を思い出す。

「いいや、結婚どころか付き合うこともなかった。更に言えば、キスもしたことがない。あいつ以外の人間が、私にふれたことは一度もない」

「へえ」

 純也も庭に目をやった。滝があってよかった。視界に動くものがあるのは、こんなに助かるのか。こういう場所は、どんな深刻な話にも耐えられるように工夫が凝らされているから高いんだな。

「じゃあそのひとのことが好きってことだよな。どうして付き合わない? 顔が気に入らなかった?」

 純也は滝に向って聞いていた。

 加瀬くんは紅茶をひとくち飲んだ。僕がミルクを渡そうとすると、微笑んで首を振って見せた。

「今で言う戦国時代に生まれた。学校のある地域から北にある小さな国の、藩主の娘だった。子供の頃からおてんばでね、木に登ったり馬に乗ったり、およそお姫様らしいところなんてなかった。城を抜け出すのもお手の物。兄たちにはサル姫と呼ばれた。谷くんとおそろいだ。ある日、川辺で薬草を摘んでいたら、侍の子に出逢った。隣国に人質として預けられてる子だった。寿寿丸にはずっと監視がついていたが、私が誰か相手はわかっていなかったようで、咎められることはなかった。寿寿丸は薬草と虫に詳しく、私たちはすぐ仲良くなりました。幼い頃の友達とは心の奥底でつながるもの。日を決めて逢うのが、三年も続いたでしょうか。寿寿丸は人質を解かれ、出家することになりました。もう逢うことはできない。悲しくて悲しくて袖が濡れるほど泣きました。私を理解してくれるのは寿寿丸だけだったのです。みなは私を奇妙な姫と呼びました。狐憑きとして祓われたこともありました。寿寿丸は私の知識を褒め、そしてこんな私を嫁にしたいと言ってくれました。監視に見つからぬようこっそりと渡された文には、出家前に逃げ、お家を復興すると書かれておりました。必ず迎えに来るから、けして嫁にはいかぬよう、何度も念をおしてありました。私にとってこの上ない、愛しい文となりました。それから数年後、隣国が河越という田舎大名に襲われました。私の国は小国ではありますが、父は血気盛んな漢です。隣国に加勢して、多くの損害を出しました。私が走り回った野は焼かれ、川は血で染まり、井戸は毒でけがされ多くの民が死にました。三人の兄様は戦で討ち死になされました。父様は籠城し腹を切りました。母様と私は真っ白の死装束をまとい、喉を突いて死のうとしておりました。憎し河越、この身怨霊となろうとも、末代まで祟らでありょうか。そこに兵がなだれ込み、わらわの名前を呼んだのじゃ。玉藻姫! 紋が見えず敵か味方かわからなんだ。しかし若い娘はわらわひとり、すぐにくつわを嚙まされた。ひとりの侍が母様に、介錯つかまつります、見事お果てなさいませ。わらわは泣き叫んだが声はくぐもっておった。母様の最期も見届けられず、わらわは敵の城に運ばれた。それはそれは手厚くもてなされた。小早川という侍がわらわの警護に付いた。見るからに情の深そうな優し気な男であった。数刻して現れたのは、なんであろう、成人した寿寿丸であった。逃避行の末寿寿丸は河越に婿入りし、河越正四位四郎通勝となっておった。あの約束が、ただ無邪気であっただけの誓いが、まさかこのように果たされようとは。私は心身ともに狼狽しました。この鬼は私がここに呼び込んだのです。私が私の国を打ち砕いたのです。通勝を打ち付け、怒り狂い、よもや狂女もさにあらんという有様でした。憎かった。けしてけして許すまじ。通勝は一度も怒らなかった。私を慈しみ、愛おしんだ。言葉を交わせば寿寿丸なのです。誰よりも私を理解し、私を尊重し、私を愛してくれるひとでした。目の前にいるのは鬼なのか仏なのか、私は苦しみから逃れることができなかった。通勝は私に謝りませんでした。許しを請うことはついぞなかった。すべてを覚悟して私を選んだのです。これほど恐ろしい人間がおりましょうか。あの男は何千殺してもかまわなかった。結果的に死んでしまったのではない、覚悟して、罪と知って殺したのだ。数え切れぬ命を。私は日に日に弱っていきました。小早川が私に教えてくれました、誰ぞが、やや子ができればおなごは気が変わると、通勝に進言したと。なりません。父様母様兄様たちに合わす顔がありません。あの男の血だけは、継ぐわけにはまいりません。しかし私はほどなくして孕みます。神仏にいかに祈ろうと無駄でした。それもそのはず、私は鬼を呼んだ罪人。菩薩でさえも顔を背けましょうぞ。小早川は良きひとでした。情け深く、誠実でした。やや子を流す丸薬を差し入れてくれたのです。私はすぐにでもそれを飲むべきでした。なのに幾日も幾日も、それを香炉に隠しては逡巡しておったのです。憎し河越。なれど、愛し寿寿丸。通勝は鬼です。私を愛する鬼です。ひとの理りを知らぬ鬼に罪はありましょうか。膨らみ始める私の腹に頬つけて、喜びの涙を流すのです、鬼が、鬼めが、泣くのです。私に感謝するのです。初めて腹のやや子が私を蹴った時、もはやこれまで、と思いました。この子を生み落とすわけにはいかぬ。父母だけでない、国の民は女も子供ももろとも死んだ。怨嗟を受けた子ならば、またいずれ鬼と成りましょうぞ。そしてまた何千と殺めましょう。思い成ってわらわは丸薬を飲んだ。やや子がおおきゅうなったせいで、わらわも苦しみのたうち血を吐いた。これぞさだめ。今こそ罪を償わんや。駆けつけた通勝はわらわを抱きかかえ薬草の名を吐き、横で薬師が煎じるような有様じゃ。できた薬を口に含んではわらわに与え、通勝は血まみれであったわ。しまいには松に毒の名を聞き出せと言い出しおった。正室である松様がわらわを妬んだと愚かにも早合点した。通勝は言うた、松に一族郎党の首をひとつずつ落として見せよと。毒見が死んだ、小早川が腹を切った。不穏な話が飛び交った。いよいよわらわが助からぬとみると、わらわより先に松を殺せと言いおった。河越の血を一滴も残すなと。なぜだろうの、なぜわらわはあの時、寿寿丸の手を取って冬の山に逃げなんだか。そうしておれば、死ぬのはわらわたちだけで済んだのじゃ。共にあろうとしたがために、幾千の魂が果て幾万の恨みが生まれ落ちた。償いきれぬことをした。よもや父母とおなじところには参れまい。せめてこの鬼を止めねばならぬ。わらわは最後の一息で言うた。徳を積み次世で相まみえん。さすればこの鬼も、もうひとを殺めまい。わらわの地獄が永劫続こうとも」

 とても長い時間が、僕たちの前に横たわった。時間は流れるものだったはずなのに、湿度のある時間はじっとそこから動かなかった。ゼリーの中にいるような感覚、それはあるいは守られているかのようにも思えた。純也は滝を見つめたまま泣いていた。とても静かだった。純也ではなく、岩積祥太郎が泣いているのだとわかった。横顔があまりにも美しく、映画そのものだったから。

「だから、成就するわけにはいかないんだよ」

 加瀬くんは小さなマフィンをふたつに割り、ひとつを口に運んだ。

 僕たちはしばらく黙って、小さな芸術品のようなスイーツを食べた。どれもほどほどに甘く、果物の香りがした。

「えいちゃんは、相手を探すのか?」

 純也が僕を見ていた。いつもと同じ、明日の予定を聞くような調子だった。僕はもうなにもごまかす気にはなれなかった。

「僕の相手は男なんだ。前世でも男同士だった」

 皿の上には溶けてしまったアイスたちが様々な模様を描いている。僕は間に合わなかった。

「岸川くんか」

 純也がそう言ったので、僕は頷いた。

「話した?」

 首を振ると、純也はゆっくりと首をまわし、それから肩もまわした。

「岸川くんはスターになるよ。前世にとらわれちゃいけない。きっとメジャーリーグにいくんだ。女子アナとかキャビンアテンダントとか、綺麗で頭のいい女性が岸川くんを助けるほうがいい」

「じゃあ、岸川くんが怪我をして野球をやめれば打ち明けるのか?」

 純也が投げたボールは僕のど真ん中に落ちた。もしも岸川くんが球児でなく、僕と同じような平凡な学生なら? グローブをはめたこともない僕は素手でボールをつかみ、その革の感触をたしかめる。

「僕なんかを選んで幸せになれるわけないじゃないか。美人で頭のいい女性と結婚するほうがいいに決まってる。誰にも非難されない。子供もできる。家族だってファンだって喜ぶ。そっちのほうが絶対岸川くんの為だ。わかりきってる」

 純也が投げたボールを思いきり投げ返す。わかってるんだ。僕は全部わかってるんだ。岸川くんは平凡な学生じゃない。日本中、世界中から注目される選手になる。その時、僕が隣にいるわけにはいかないんだ。

「いつか、岸川くんも気づく。女性を選べば、人生がうまくいくことに。その時に捨てられるのは僕だ。耐えられないよ。そんな状況に陥りたくない。これは保身なんだ。僕は岸川くんより、自分の方が大切なんだ」

 純也はボールを投げ返さなかった。手のひらで包んでしまった。僕は知っているんだよ、純也。心の核の部分にまで取り込んでしまった相手に去られる恐怖を。それは死よりも圧倒的だ。心が壊れるとか、気が狂うなんて、僕らの知ってる文字面では想像もつかない痛みと苦しみなんだ。叩きのめされる。人間でいられないほどに。鬼にだって成るほどに。それに耐えられるひとなんて、本当のところ、存在しないんだ。藤成の正路くんへの想いは、結局、無償の愛なんかじゃなかった。正路くんより、自分の方が大切だった。無価値の自分を評価してくれる人間に、すがっただけ。愛なんかじゃない。愛してるから転生を望んだんじゃない、きっと、もっと利己的な打算があったんだ。

「約束は、役に立たねえからなあ」

 重い言葉だ。約束は、役に立たない。書面に落としてハンコをついて、なにかあったら裁判所に駆け込めるくらいの縛りがなければ、役には立たない。純也は立ち上がり、伝票を取った。

「俺、買い物はいいや。先に帰る」

「え、待ってよ、一緒に帰ろう。僕だって買い物なんかいい」

 純也はへへへ、と笑った。

「かっこわりーけど、俺、一緒にいたら泣く。ひとりで電車乗らしてほしいんだ。金は払っとく」

 泣きたいのは僕だ。わけもわからず、謝りたくなった。僕が一番ダメだ。純也も加瀬くんも強いのに、僕だけがダメだ。

「なあ加瀬っち、前世持ちってさ、実はめちゃくちゃ少ないんじゃね?」

 加瀬くんは一拍おいて、言った。

「前世の因縁持ちということなら、今の学校では、君らと岸川くんしかいないと思う」

「へえ。前世持ちって寄るんだ。俺、えいちゃんと一緒にいるの好きなの、それでかな」

 純也は明るくそう言い、じゃあまた学校で、と立ち去った。映画のラストシーンのように潔くあでやかな去り方だった。

 スタッフが純也の食器を片付けにきたので、加瀬くんがお湯の追加を頼んでくれた。テーブルがきれいになり、お湯がポットに注がれ、砂時計が反転し、新しい温かいミルクが運ばれた。

「まこも、って」

 周りは静かで、庭の真ん中に小さな鳥が来ていた。揺さぶられた感情が落ち着きを取り戻す。今なら聞ける気がした。

「加瀬くんの名前、真菰って薬草の名前だよね」

「調べたんだ。そう、通勝が最後に叫んだ薬草の名前。因果なものだよ。私の母は漢方の薬剤師でね。それで名づけられた」

 因果応報、因果は巡る。すごく不思議だ。加瀬くんのお母さんは、加瀬くんの前世なんて知るはずもないのに、僕らはどうやって前世をつかんだまま転生したんだろう。

「さっき、薬草の話をしてたから気になって」

「そういえば、通勝に最初に出逢った時探していたのも真菰だったな。今までこんな一致はなかった。女性だった時の名前は、玉藻。ちょっと似てる」

 加瀬くんは笑った。楽しくて笑ってるのではないことが、わかった。。

「思い出すからね、好きな名前じゃない」

 僕らは紅茶を飲み、残った焼き菓子を食べた。サクサクだったり、ふわふわだったりする。食べるたびにじわり、砂糖とカロリーが体に広がって、ささくれ立とうとする心を覆ってくれる。

「名前のことから考えても、現世は今までより危険な気がする」

「え?」

「兆候なんじゃないだろうか。今まではニアミスはあったけど、逃げきれた。人間関係も生活もすべて捨てて逃げることができる時代ばかりだったから。子供でも働けて、生きていけた。でも今は違う。高校を卒業するまではアルバイトだって難しい。僕の親も必死で僕を探すだろう。住民票に戸籍謄本、なにをするにも身分証明。津久くん、教えてほしいことがあるんだ。君が話したくないことだと思う。けっして興味本位じゃない。ありとあらゆる事態を想定し、万が一の時のために、確認しておきたい」

 言葉の鎖にがんじがらめにされている気がする。いったいなにを聞かれるんだろう。怖い、けれど、加瀬くんのために誠実に答えよう。

「男同士の性行為って、どうなの」

 ああ、それ、それは…………えっ!

「かっかっかっ加瀬くんっ」

「あいつはもう男とか女とかそういうもので諦めたりしないと思うんだよ。二回目ならそのチャンスはあったかもしれない、けどこれだけ繰り返したら、そりゃあどうでもよくなるんじゃないか。実際あいつはほんとに男でもできるんだろうか? そして私はどんな危険に晒されるのか? ネットでも調べたけど病みつきになるって話もあるじゃないか、もしも病みつきになったらどうなるんだ、もう逃げられなくなる? 体を支配されたら終わるのか? されないための方法は? あいつは怒り狂ってる、それは間違いない、話し合いなんかできない、捕まったら最後、絶対に襲われるに決まってる。どんな知識が窮地を救うかわからないんだ、頼むよ津久くん、教えてほしい」

 あ、う、あ、あ、とわけのわからない相槌を打ちながら僕は逃げる方法を考えた。思い浮かばない。というか逃げてはいけない気がする。加瀬くんは本気で僕を頼ってくれてる。今度は僕が加瀬くんの助けになる番だ。とわかっていても、恥ずかしくて顔から火を噴きそうだ。

「あの、実は、ふ、ふたりがそういうことを始めると、心臓がバクバクしちゃって、悲鳴を上げそうになって」

「ああ、なるほど」

「目が覚めちゃうんだ」

 加瀬くんは二回頷き、明らかにがっかりした。

「でも藤成はよくそのことについて思い返していて」

「おお」

「藤成は、いつも、絶望しかないって思ってた」

 加瀬くんの眉間に深いしわが寄り、ゆっくり首がひねられた。

「とにかく痛い」

「痛いんだ!」

「信じられないくらい痛い」

「痛いんだ!」

 加瀬くんが悲痛な声を上げた。

「こっちは苦痛に耐えてるのに、兄さんも果ててとか言われてしまう」

「拷問だ!」

「最初は手とか口とかでごまかせてたけど、底なしに食べる中学生みたいに正路くんは止まらないんだ。なるべく安全な方法を探して試したけど、なにをどうしたって、命の危険を感じるほど痛い」

「ひどい!」

「でも藤成はバカだからそんな正路くんがかわいっくてギュンギュンしちゃう」

「ギュンギュン」

「だからまだ傷が癒えてないのにしちゃうんだ」

「怖い!」

「それで朝起きて絶望する」

「うわあ……」

「正路くんは初めてだから下手でも仕方ないって自分に言い聞かせるんだけどね、時々真剣に売春宿に連れて行って、やり方を教わらせようかと悩んでる」

「藤成さんは教えないの」

「痛いとか下手とか言ったら正路くんがかわいそうでしょ。あんなに幸せそうで嬉しそうなのに、言えないよとても。僕が我慢すればいいんだから」

「ダメなタイプの彼氏」

「しかも長くて回数が多い」

「恐怖!」

 加瀬くんは震えあがった。僕も悲しくて泣きそうになった。

「痛いけど、満たされる。求められることが嬉しくていつも泣きそうになる。痛みでも泣きそうにもなるけど」

「最初痛くても、慣れるのでは?」

「慣れないね。いつまで経っても下手だね。苦労知らずのボンボンは相手の状況を思いやることができないんだね」

 加瀬くんは顔を覆って少し泣いた。

「おいたわしや……」

「最初に慣らす作業が重要なんだ。でもがっついてる若い男性にはその時間はない」

「襲われたら、そんな丁寧なことしてくれるわけない。私も絶対流血だ」

「だから藤成も自分で準備するようにしたんだけど」

「愛がすごい」

「すぐ戻るんだよ。風呂でほぐしても、正路くんが来る頃にはもう戻ってる」

「四面楚歌」

 キスは好きなんだけどな。裸でふれあうのも。正路くんは終わった後もずっと愛撫してくれる。それがあるから藤成も、正路くんとするのは好きだった。

「慣れないって、どれくらい経っても慣れなかった?」

「えーと、二年以上?」

「絶望しかない!」

 正路くんが大学を卒業し、流派を無事継承してから藤成は姿を消した。知り合いのいない関西に流れ、紆余曲折あって、新聞記者の使い走りの職を得た。正路くんがどれほど傷ついているか想像するとつらかったが、傷ついた分、自分のことを嫌いになってくれればいいと思った。藤成は僕と違い、周りから好かれる男で、すぐに世話をしてくれる女性が現れた。ただ、そんな状態でも女性と肉体的な関係を持つことはなかった。それでいて、正路くんが結婚し、子供を作ることを願った。嘘でも強がりでもなく、心から願ってた。藤成には、正路くんの幸せしか願うものはなかった。どうして藤成はそんなにも純粋に正路くんを愛したんだろう。そう考える時に浮かぶのは、正路くんの笑顔だった。はにかむような、慈しむような、僕を大好きだと言わんばかりの笑顔。あの多くを物語る表情の為なら、すべてを捨ててよかった。

「でも、性奴隷にされる可能性は低いってことはわかった」

 あまりの言葉にぎょっとして見ると、加瀬くんは自分を励ますように頷いていた。

「性嗜好が違っていれば、やっぱり病みつきなんかにはならないんだ」

 返す返す、すごいことを言うひとだ。

「正路くんはとびきり下手なんだと思うよ」

「岸川くんも期待できなさそうだね。お姉ちゃんたちに大切にされて、今でも周りにちやほやされてる。言葉が少なくて自分勝手な行動を起こすのに、周りは彼を理解しようと頑張ってるんだからね。はらわた煮えくりかえってるのに、先輩たちは末っ子がーで済ませてる。正路くんとまったく一緒だよ」

 なぜか気まずくて、僕は自分の手を見た。見たっていつもと同じ、僕の手だった。

「言いにくいこと教えてくれてありがとう。頑張ってサバイブしようね、津久くん」

 加瀬くんは決起集会的なポジティブな笑顔を見せた。僕は前髪を引っ張りながら頷いた。いろんなことが少しずつ歪んで、大きくたゆんでいるような気がした。

「純也、これからどうなるんだろう」

「ふたりがもう少しおとなになったら、なにか変わるかもしれない」

 おとなになったとしても、もうこなっちゃんを純也に近づけたくない。酷すぎる。顔なんて純也にはどうしようもないことじゃないか。確かに顔が変わったのは純也のせいかもしれない。けど、純也の顔を変えたのは純也を傷つけたひとたちだ。純也は十分傷ついたんだ。どうしてそれを、転生までしたのに、それだけの愛情があるのに、理解してあげないんだ。

「僕は、もう逢ってほしくない」

 加瀬くんは小さく頷く。

「意志の固そうな女子だから、あまりいい方向にいくとは考えられないね」

「性格が悪すぎるよ、前世では純也のことが大好きだったくせに、あんな」

 びっくりした顔で加瀬くんは僕を見た。その表情に僕がびっくりした。

「いや、だって」

 加瀬くんはそこで言葉を切り、考え、慎重に言葉を選ぶように言った。

「僕らは、現世を重視したいと、思ってるよね?」

 すとん、と僕の周りに幕が下りた気がした。はい、終了。あなたはもう間違えました。終わりです。どうすることもできなくて庭を見る。もう鳥はいない。

「現世を……」

「生まれた時代の価値観を重視するのは、当たり前のことだよ。こなっちゃんは本当に前世では岩積祥太郎を愛してたんだと思う。けど今の価値観では、やっぱり岩積祥太郎は、その、ちょっと恋愛するには難しいタイプだ。それを打ち消すくらい容姿がいいから、っていうのが彼女の落としどころだったんじゃないか。全然好きじゃないのに、前世では好きだったからとこなっちゃんが考えたら、それはおかしな話だ」

 僕は正路くんと共に生きるために転生した。好きだったから。もう一度結ばれたいと願ったから。正路くんの気持ち、そして藤成の気持ちを、僕は打ち消している。こなっちゃんとなにも変わらない。顔が問題か、性別が問題かってだけだ。しかも僕の場合は、加瀬くんと違い、前世から男同士だった。岸川くんが、藤成を求める気持ちで僕を求めたらどうする? それはなんにも間違いじゃない、だってそのために僕らは転生した。岸川くんに、純也と同じ想いをさせるのか僕は? 

「帰ろう。もう、買い物って気分でもないね」

 僕は加瀬くんについて立ち上がった。レジの前を通る時はドキドキした。「ありがとうございました」とだけ声をかけられた。ふかふかの絨毯を通り抜け、外に出ると急に人通りが増した。五月なのにもう暑かった。

「タピオカくらい飲んでく?」

 そんな気になれない、と言うと、加瀬くんは「わかるよ」という顔をした。わかってなんかない、と言いたかった。言わない分、前髪を引いた。気が付くとタピオカや果汁ジュースやチーズが伸びるホットドッグなんかが軒を連ねる道に出た。大声で笑うひとたちが道を埋めていた。加瀬くんはすいすいと人波を泳いでいく。僕は手足をばたつかせて追った。音楽がやかましい。あちこちで愛を謳ってる。愛なんて、顔だけで消え去るし、男性器がついているだけで終わる。もしも僕が女だったら、それとも岸川くんが女だったら、僕らは手を取り合って涙を流しこんな歌を歌うんだろうか。

 藤成は確かに正路くんを愛していた。でもそれは家族愛だ。正路くんの感情は恋愛だったとしても、藤成のは同情に近い。転生だって、正路くんが願ったから、藤成は付き合ったんだ。絶対にそうだ。新しい人生を生き直すことができたのに、正路くんを拒絶できなくて、身体を捧げたのと同じように、次の人生も捧げた。つまり、藤成は僕を捧げた。こなっちゃんのことは腹立たしく思うのに、どうしても自分のことについては、こう思ってしまう。僕は本当にそれに付き合わなければならないんだろうか、と。

 前を行く加瀬くんが急に立ち止まった。そしてひとに押されながら、その場にしゃがみこんだ。

「加瀬くん! どうしたの!」

 まさかお菓子にあたることなんてあるんだろうか。慌てて駆け寄ると、加瀬くんは真っ青になって震えていた。

「やられた……」

 目には涙が浮かんでいる。だんだん頬が紅潮してきて、ずれた眼鏡の向こうでふるふると瞳が揺れた。その美しさに僕は惹かれた。加瀬くんの指先と声も同じように揺れていた。

「アジュアだ」

 誰? 加瀬くんが熱い息を吐く。興奮している? アジュア、ああ、思い出した。岸川くんにされた命令。

「まさかこんな手があるなんて!」

 あの歌だ。聞こえてくる。一気に鳥肌がたった。前世で別れた恋人に、君が死んだ日、君が死んだ場所でもう一度逢おうと呼びかける歌。

「え?」

 加瀬くんは僕に縋り付き、ガクガクと震えた。喜びと戦っている。抱き留めながら思った。あの時の僕と同じだ。失禁しそうなほどの喜び。抗うことも逆らうこともできない。従いたいという強い欲求。

「あの歌手が、加瀬くんの相手なの?」

 返事はない。それどころじゃないのだ。あの子大丈夫かな、邪魔だ、なにやってるの、人々が呟きながら通り過ぎてく中で僕らは抱き合っていた。ひとの流れと時間の流れに逆らって、どこにも行けなくなってしまった。


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