第3話 

「こんなものを見つけてしまった」

 加瀬くんはそういってから、目の前でスマホを操作し、僕らに転送した。それはたしかに、度肝を抜かれるものだった。

 ≪昭和の大スター 岩積祥太郎 回顧展≫

 母が時々言う、醤油顔、という言い方でいいんだろうか、さっぱりした男の横顔が大きく使われている。さっぱりしているのに、横から見ると鼻が高い。外国人の鼻とは少し違い、目のあたりではさほど飛び出ていないのに、それでも絶妙なカーブで高さを出している。なかなか見かけない形だ。かっこいい。純也を見る。鼻…………。

「うわー、照れるな」

 純也は僕の視線に気づきもせず笑っている。ほんとにいいやつだ。

「映画のポスターとかレコードとかが飾られてるみたいだ。ゴールデンウィーク、二日間しかやらない」

「え、もしかして加瀬くん行きたいの? 俺、解説しちゃおっか?」

 なぜだろう、いらっとする。

「というか、来るんじゃないかな」

 僕と純也は一呼吸おいて、答えを探すようにお互いを見た。誰が来るんだろう?

「こなっちゃんが」

「あ!」

 そうか!

 もしこなっちゃんも前世を思い出していたら、純也を探してこういうイベントに来るかもしれない。いや純也と逢おうと思ってなくても、岩積祥太郎を見れるのだから、そりゃ好きだったら来るだろう。純也は突然降ってわいた話にオロオロして手旗信号みたいなことをしている。

「ネットで写真探しても、なんかあんまりないんだよね。白黒でよく見えないし」

 僕も参加したくなってそう言った。

「岩積祥太郎は若くして亡くなったからね。映画も五作くらいしかないんじゃないかな」

「もっと出たよ」

 不満そうに純也が言う。

「フィルムは焼失しやすいから仕方ないね」

 ニューシネマパラダイスのラストシーンを脳裏に浮かべながら言った。本当に燃えやすいかどうかなんて知りもしないのに、僕も調子に乗ってる。

「こなっちゃんが来るかどうかはわからない。ま、期待はせずにみんなで東京に遊びに行こうか」

 僕だったら「そんな、申し訳ないよ」と言ってしまいそうなところだけれど、純也は拳を天にぶち上げて「いえーい!」と叫んだ。

「んじゃ帰りに服買いにいかね? あとさ、映え系の飯食べたい!」

「がっつり系? 甘い系?」

 ふたりが一台のスマホを覗き込む。僕は広げていた弁当箱を片付け、ウェットティッシュで机を拭き、時間を確認し、席を立った。

「もう時間か」

 加瀬くんが顔を上げる。今日は岸川くんに爪の手入れで呼び出されてるのだ。

「適当に候補を見繕って、送っておくよ」

「ありがとう」

「あ、えいちゃん」

 純也が得意げな顔を見せた。

「野球部のやつに聞いたんだよ。岸川くんを理解する方法」

「なにそれ」

 加瀬くんの方が身を乗り出した。

「野球部でも最初もめたんだってよ。岸川くん、あんま喋らないじゃん。結構ぼーっとしてて、なにがしたいのかわかんなくて、勝手な行動多いし、表情全然変わんないし、トラブることが多くなって、みんなでミーティングして、なんで岸川くんは自分の意見を言わないのか、話し合ったんだってさ」

「へえ、笑える。野球部には不思議な一体感があるんだね」

「岸川くん、おねえちゃんが三人もいるんだって」

 それを聞いて、とても楽しそうに加瀬くんが僕を見た。

「なるほど、それはもう、念願の男子なわけだ」

「なんかさ、岸川くん、小さい頃おねえちゃんたちのおもちゃだったんだって。自分がなにかする前にぜーんぶおねえちゃんたちがしちゃうから、ただ座ってればよかったんだ。逆にさ、岸川くんがなにかしようとしたら、おねえちゃんたちが奪っちゃうわけよ、だめよ危ないからここにいなさい、みたいな」

「三人もいたら、監視から抜け出すことはできない。家では姉たちがしゃべりまくるから、余計無口になったのか。なるほどなるほど、おもしろい」

 いや、おもしろくないでしょ。全然おもしろくない。

「な、だからさ、えいちゃん」

「え?」

「野球部のやつらはさ、岸川くんがなに考えてるかわかんなかったり指示待ちだったりしたら、末っ子がーって言うんだってさ。そうしたら、イラつく気持ちが収まるんだってよ。えいちゃんもそうしたらいいじゃん」

「僕べつにイラついてないし。イラついてたら行かないし」

「めっちゃイラついてんじゃん」

 無視して教室を出る。イラついてなんかいない。そうか、現世ではおねえちゃんがいるんだ。そりゃそうだな、僕がお兄ちゃんじゃないんだから。

 爪の手入れをどちらかの教室でするのは注目を集めすぎるから、僕が拒否し、解放されてる空き教室に集まることになっている。もちろん誰かがいたりはするけど、隅でこっそりしていれば目立たないし、逆に隠れすぎていないことで、後ろめたいことはしていないと主張できている気がしてる。岸川くんはいつもの一番奥まった席にいた。女子が何組か机を寄せてお弁当を食べている。

「ごめん、遅くなって」

 机の上にはオイルとマニキュアが並べてある。僕は、僕らの手元が他の人たちに見えないよう座り位置を工夫した。持参したハンドクリームを薄く掌にのばし、岸川くんの手を包むように握る。岸川くんの手は乾いている。いつもそうだ。けれどクリームを嫌い、自分では塗らない。以前こってりしたクリームを使ったら、そのまま立って手を洗いに行ってしまった。正直、とてもショックだった。今は水分量の多い、さっぱりとしたクリームを使っている。それもけっして塗りこまない。そっと押えるだけ。

 岸川くんは背もたれに体を預け無言だ。少し気まずい。正路くんとキスしてから、岸川くんの顔がまともに見れない。

「爪、少し伸びてる。やすりは?」

 ポケットから、ポーチというよりは袋という趣きのつまりは袋を取り出し、机に出す。そこに入ってるやすりで指先からはみ出る爪を削る。ワンストロークでかなり削れてしまうので、神経を使う。

「岸川くんって、美容室で頭洗ってもらう時、首の力抜くタイプ?」

 返事はなかった。僕の左手に、岸川くんは手の重みを遠慮なくかけてくる。大きな手だ。皮が厚く、ごつごつしている。僕の手は、岸川くんの手にすっぽり覆われてしまう。

「りよう……」

 岸川くんはそれだけ呟いた。一瞬考えて、美容室ではなく理容室で髪を切っているという意味だな、という結論に至った。この末っ子が。

 爪の根元にオイルを一滴ずつ落とし、すりこむようにマッサージする。これもつけすぎると、無言で手を洗われてしまうので注意が必要だ。何人かが席を立つ音がした。指を変えるたび、解放された岸川くんの指が僕の手をなでる。やわらかく、添うようにしてなでる。時々、合図のように力がこもる。話しかけられている気がする。思い出した? どこまで思い出した? キスまで? もっと先まで? どんどん息苦しくなってくる。

 正路くんの想いを受け止めた翌日、藤成は宗主に婚姻延期の提案を行った。いわく、先方をじらすほうが良い条件を引き出せる、と。実は他にも婿入りを探る話を持ち掛けられている、という情報も開示した。藤成は異性にモテるというよりは、相手の父親から好まれるらしく、実際こんな粉かけは茶席のたびに起こっていた。宗主は「おまえは正路に甘すぎる」と言った。どこまで知っているのか、心底肝が冷えた。同時に、正路くんに教えたのは宗主なのだと理解した。正路くんの独り立ちに期待したのだろう。申し訳ない気持ちになった。

「ふふ~~ん~~」

 岸川くんがなにかをくちずさみ始めた。珍しい、というか、初めてだ。ただの鼻歌だけど、もしかして結構うまいんじゃないか。この曲、知ってる。なんだっけ。つい最近聞いた曲だ。

「あ、あれだ」

 顔を上げると、岸川くんは目を少しだけ大きく開いた。

「最近はやってる曲でしょ、それ」

 姉が聞いていたやつだ。あの背の高いイケメン歌手。

「先輩が、好きな女子とカラオケするためにかけてて、覚えた」

 ああ、なるほど。うんうん頷きながら、ふと思う。あの歌手を好きな女子は、球児を好きになるかなあ。

「前世ソング」

「え?」

「君が消えた日 君が去った場所 そこでまた出逢おう」

 サビの部分を小さく歌う。やっぱりうまい。

「前世」

 もう一度岸川くんは言った。僕は黙って、岸川くんの爪に集中した。マニキュアをはじかないよう、オイルをティッシュでオフ。マニキュアの瓶ってどうしてこんなに小さいんだろう。刷毛も小さい。倒さないよう、ちょっと離れた場所に置く。息をつめ、身を乗り出して岸川くんの爪に刷毛を乗せる。岸川くんの顔が近づいてくる。心臓が跳ね上がる。手が震えそうになる。誰かが教室を出ていった。岸川くんはもっと距離をつめる。縦長の形のいい爪。小指の爪がひときわ長い。順番を待つ指が僕の手をなでる。思い出した? 俺たちが愛し合ったことを?

 もしも岸川くんに思い出したと告げたらどうなるんだろう。藤成なら僕にこう言うだろう。「最後まで認めるな」あのひとは、目的の為ならどこまでも冷徹になる。頭の回転がとても速い。男性を性的対象に考えたことなど一度もないのに、なんの迷いもなく正路くんを自分の体でしばりつけると決めた。告白の後の正路くんはすごかった。僕も高校生だからわからないではないけど、思いのたけがそのまま、なんていうかその、肉欲といいますか、そういうものになって、毎日離れにやってくるし、なんだったら僕が部屋に戻ったら既にいるし、常にさわりたがるし、束縛したがるし、今まで以上に僕の行動を把握しようとするし、もう、すごかった。それを藤成は平然と受け止めていた。僕ならすぐいっぱいいっぱいになってしまうだろうのに、藤成はなにかというとかわいいと言って笑っていた。逆に少しヤキモチを焼かせてみせるほどの性悪ぶりだった。正路くんは異性経験がなく、キスも僕が初めてだった。けれど藤成は、叔父に「おとなにしてやる」と、ええとそういう商売の女性がいる宿につれていかれ、経験済みだった。そういうところに馴染みがいるのも大切とかで、定期的に通ってもいた。藤成の中には、好き嫌いよりも益不益のほうが強く存在していた。正路くんを受け入れたのも、結局は正路くんの気持ちを踏みにじる行為だ。自分の為に、正路くんを操り人形にしたんだ。

「ねむい……」

 ちょっと待って、それ僕の頭頂に鼻先くっつけて言うセリフ? というかそれ、もしかして匂いかいでないか? くそ、マニキュアを人質に取られて動けない。綺麗に均一に塗るために動画サイトで研究してる僕の誠意を踏みにじる行為だ。

 最初は抱きしめるだけで満足していた正路くんは、健康な男子なら当然のことながら、どんどん次を求め始め、藤成は自分が女性にしてもらったことを思い出しながら正路くんに、いろいろと、こう、してあげてた。ああラインがよれる。うう、息は今吸うところだけ吐くとこだっけ。でも正路くんは、もっと一体感を得たいと、とんでもないことを要求してきて、さすがの藤成も即オッケーはしなくて、私がちゃんと調べるまでは待てるね? 正路はいいこだね、なんて調教師みたいなこと言って、正路くんは正路くんでぽーっとなっちゃってなんだこれなんかのプレイかなって

「えいち? 息してるか?」

「ひゃいっ?」

 あ、はみでた。

「ごめん。大丈夫だよ、すぐぬぐえば」

 ティシュではみ出したところを拭く。

「真っ赤」

 頬をさわってみると、本当に熱かった。

「集中してたんだ、綺麗に塗りたくて」

「そうか」

 末っ子にしたって、ぶっきらぼうすぎないか? 

 正路くんは、いつだって僕を見つけたら嬉しそうにしてくれて、本当に幸せそうに笑ってくれて、僕にふれる時だって、愛情が伝わってくる仕草で、だから僕は、それがとても嬉しくて、好きになってしまうだろうそんなのは。あんなふうに見つめられたら、このために生まれてきたんだって思ってしまうだろう。でも岸川くんは違う。同じ顔なのに愛情なんて少しも伝わってこない。

「時間がないね、急ごう」

 刷毛を懸命に動かしながら、ふと気づく。さっき、えいちって呼んだ? 津久じゃなくて? 昼休みの終わりをチャイムが知らせる。僕は動揺して、マニキュアの瓶を倒した。

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