第2話 

「スーパー高校球児の本気、か」

 花よりも葉が目立つ桜の下、ベンチに座りながら加瀬くんはしみじみと言った。目の前の川は陽を受けてきらきら輝いている。

「ほんとに、岸川くんと、というか正路くんと、僕は前世で恋人だったの?」

「恋人かどうかはわからないが、契りを交わした相手であることは間違いない」

「契り、って」

 ままままさか肉体関係のことっ?

「転生の契約のこと」

 真っ赤になった僕をからかうような声音で加瀬くんが言う。僕は前髪をひっぱりながら俯いた。

「だ、だけど、僕らは兄弟として育てられてて、お互いのことは兄弟として慕ってるだけなんだよ、そりゃ本当に大切に想ってはいるけど」

「正路くんとやらはそんなふうに見えなかった」

 はらり、はらりと花びらが落ちる。加瀬くんは膝に落ちてきた花弁を摘み、しばらく眺めてから地面に捨てた。

「加瀬くんには、どういうふうに見えてるの?」

「なんていうのか、映画でよくある幽霊のCG。半透明の。あの感じ。あれが本人とダブって見える」

 幽霊……。前世の記憶というのは単純に脳内にあるものだろうから、それが表出して見えるのは、加瀬くんがオーラや魂というものが見えるってことだ。そんなもの見えるのか? それより実在してるのか? 前世があるなら、それくらいのものも在って当たり前なんだろうか。幽霊も? 

「そういえば、乗っ取られるって言わなかった?」

 怨霊に乗っ取られるのを連想して、思わず声がうわずった。

「覚醒の始まり方によっては、完全に前世の記憶に乗っ取られることがある。きみの価値観はこの時代に生まれ暮らし形成されたものだろう。それが塗りつぶされると言うのかな、現世の記憶が消えることはなくても、完全に違う人間になってしまう」

「ま、ま、まさか、岸川くん、乗っ取られてるんじゃ」

「いや、あれは見事に融合してるよ。あんなに動く前世、ちょっと見ない。きみに近づいていくって言ったろ」

 ああーっと思わず声が出る。

「どういうこと? こんな、たまたま同じ学校に前世の相手がいるなんてこと、ある?」

「……まあ、きみたちが正しい契りを行ったってことじゃないか」

 少し、加瀬くんが気分を害したように感じたので、僕は黙った。いけないことを言ってしまったんだろうか。

「基本的に転生は再会するために行うのだから、自然に近づくようになってるんだ。幼馴染に転生した人たちもいたよ。本当に輪廻転生の神様がいて、こまかく調整を行ってるんじゃないかって思うくらいだ。岸川くんは、実家は県外なんだよね」

「よく知らないけど……。どっちにしても野球部は寮に入らないといけないから」

「きみはどうしてこの高校を選んだの」

「家から近くて、偏差値が合ってたから、親が勧めてくれたんだ。それに甲子園で有名でしょ。ここ数年行けてないけど、もし在籍中に行けたら、祭りになって楽しいんじゃないかな、とも思った」

「野球が符号だったのか」

 加瀬くんはうーんと両手をあげて伸びをした。僕はカバンからペットボトルの水を取り出し、ひとくち飲んだ。なんだかもう、疲れ果てた。

「加瀬くんは、みんな転生してるって言ったよね。全員がそんなふうに見えるの?」

「いや、ぼやっと見える人もいるけど、はっきり見えるのは契りを持つ人間だけだね」

「純也は?」

 膝に肘をついていた加瀬くんは、ちらりと僕を見返した。

「それは個人情報だ」

「純也もそうなら、相談できるのに……」

 加瀬くんはなにも言わなかった。純也に前世の相談ができたらどんなにいいだろう。あの能天気さで僕の不安を吹き飛ばしてほしい。「岸川くんは女子アナと結婚するって絶対」と保証してほしい。

「学校に、僕ら以外にもいる? 誰か契りを持つ人が」

「個人情報」

「不安なんだよ。今だって加瀬くんがいてくれるから正気を保ってられるけど、不安で不安で、どうしたらいいのか」

「この眼鏡をかけてるの、近眼だからじゃないんだ。見たくないんだよ、前世の映像を。美しい人ばかりじゃない。もっとも、君たちのは無視しようにもできなかったけどね。なんかもう、光っちゃってるんだから」

 恥ずかしくなって、俯く。自分があまりに自分勝手なことを言ったのも恥ずかしかったけれど、それ以上に、光っちゃってることがたまらなかった。光ってるのか、僕と岸川くんは。穴があったら入るから埋めてほしい。

「まずは状況の把握。なにか思い出した?」

「あ、えっと、鈴生りが」

「すずなり?」

「それが由来で、藤成って名づけられたって。鈴よりも藤のほうが数多く咲くから、っていう。正路くんが、僕の名前好きだって……」

 胸の中が疼く。正路くんがそう言ってくれた時、とてもせつなそうだった。正路くんのほうが、とても素敵な名前なのに。

「さりげなく惚気てくるけど、大丈夫かい? もう恋してない?」

「してない! してないよ! 正路くんがかわいいっていうだけ!」

 悲鳴みたいな声が出た。早く埋めてくれ。僕の周りから空気を遮断してくれ。

「夢で蘇る記憶は薄れやすいから、わかったことは全部メモするほうがいい。名前と住んでいる場所、時代。なにか目立った出来事があれば、それをきっかけに前世を探すことができる。今はいい時代になったよ、前までは国立図書館に通い詰めて、どれだけ資料を漁ったか。今ならネットで、かなりのことがわかる」

 そうだ。加瀬くんはもう四回もこんなことを繰り返してるんだ。四回もこんな孤独と困惑を抱えて生きてるんだ。

「加瀬くんは、毎回すぐに記憶を取り戻すの?」

「その時によって違う。けど、回数を重ねるごとに早くなってる」

「一度も、相手と逢わなかったの?」

 加瀬くんが想いを重ねた人なら、きっとすごい美人だ。深く愛し合ったんだろう。美男美女が寄り添うなんて、これはもう映画じゃないか。現世を優先したとしても、同じ相手と恋に落ちたって、いいんじゃないのかな。

「初回は江戸時代で場所の移動が難しかったから見つかった。必死で逃げたけどね。幕末、明治、昭和初期はニアミスだけで済んだ。あっちも必死だから油断はできない。新聞に伝言コーナーがあった時なんか、ずーっと僕へのメッセージが載るんだよ。怖い。あいつ病気だよ。現世はネットを使われて見つけられるんじゃないかと、すごく不安だ」

「逢って、みないの?」

 加瀬くんは僕を見た。怒っているようには感じなかった。

「ずっと逃げ続けるなんて疲れない? 話し合えばわかってもらえるかもしれない。お互いに縛られたまま転生を続けていくなんて」

「じゃあ、岸川くんとは話し合うんだね」

「それは無理だよ! だって僕らは男同士だから!」

「うちもだよ」

 加瀬くんは眼鏡を取った。想像していた以上に美しいアーモンド形の瞳だった。淡い茶色、虹彩がところどころ緑がかって見える。光る水面よりも美しく輝いている。

「最初の人生で、私は女だった。きっと私たちは、なにかを間違えたんだ。いや、そもそも転生にふさわしくないんだろう。あの男を、私は憎んでいたからね。この世の何より憎んでいた。女より男の人生がずっと長くなって、私はもう、男以外にはなれない気がする。二度と女性に転生することはないだろう」

 静かな、絹糸を紡ぐような声だった。鼻の後ろがきゅーっと痛くなってきた。こんな残酷なことがあっていいのか。加瀬くんの素顔は、とても中性的だ。ほっそりとして、全てのパーツが見事な均衡を保っている。女性だったと言われても違和感はない。おそらく絶世の美女だったはずだ。

「最初は、女性に戻ったらと思ってた。津久くんの言う通り、このままじゃ転生が終わらないから。次で女性に戻ったら、この次はきっと、その次こそは。女になれば堂々と逢える。あいつが惚れた女の顔で、おまえのことが嫌いだとはっきり言ってやる、って、思ってたな。男性になったことが、私自身がなにかを間違えた証のような気がして、あいつに見られたくなかった。弱みを見せたくなかったんだ。今となっては、そこまでのこだわりはないんだけどね。逢えばただでは済まない、だから逃げてる」

「誓い合うから転生するんじゃないの? お互いに、もう一度やり直したいって願うからなんでしょう?」

「うん……、死ぬ瞬間は、そう思ったかな。私の血に染まって泣き叫ぶあいつを見て、あいつがこれからしでかす惨劇を想像して、もっとうまくやればよかったって、思ってしまったんだろうね」

 血。血に染まって。想像していた以上の極限状態だ。二度目が江戸時代なら、その前、戦国時代だろうか。髪の長い加瀬くんが血まみれになって倒れている。そこに大柄な侍が覆いかぶさり咆哮している。死ぬな、置いていくな、どうかどうか、神よ仏よ、我が魂を連れ去り給うな!

「もしかしたら私は」

 白いかけらが加瀬くんの髪を飾る。この人を手に入れたいと、切実に願う気持ちがわかる気がした。強くて、気高くて、孤独で、存在そのものが物語のように思える。愛することができるだけで、巡り合えたことだけで、どれほどの幸福かと、加瀬くんの相手は、きっとそう思ってる。

「あいつを縛り付けたいのかもしれない。未来永劫、ずっと私を求めさせ、破滅させたいのかも」

「加瀬くんは、そんなことしない」

 可能な限り強くはっきりと、僕は言った。

「加瀬くんはそんなこと考えない。違うよ。もし、転生の神様がいるんなら、ふたりにとって一番いい方法を考えてくれてるはずだよ。今はまだ、道を探してるだけだ」

 加瀬くんの瞳がきらきらと輝いていた。本当に美しいと思った。彼が誰かを大切に思って、両手で抱きしめられたらいい。そうなる日が来ますように、と僕は祈った。

「私のほうが先輩なのに、励まされてしまったな」

 加瀬くんは空を見上げた。転生を、僕はずっと、映画のように考えていた。前世では引き離されたふたりが、生まれ変わり、恋を成就させる。まるでおとぎ話のように、幸せで、実りに満ちたものだと思っていた。けれど僕らはお話の登場人物ではなく、生きて、悩んで、あがく人間。加瀬くんは、こんな時間をずっとひとりで乗り越えてきたんだ。

「君が公家と呼ばれた理由が、わかるよ」

 空は少しずつ色を失っていく。抜けるような青が失われ、太陽の喪失を予告するかのようだ。

「君はとても綺麗なんだ。あの時代、いいや私の知る時代すべて、みんな生きることに必死だった。恵まれ富む人間しか、歪みのない心は持てなかった。毎日食べることが難しい人間ばかりだったからね。君は貧しさとは無縁の、静謐な美しさを保って生きていたんだろう。今でさえそれが見えるほど、君の芯は揺るがない。これは、裕福であれば誰にでも与えられるものではないんだ。どの階層に属しても、ひとは妬み嫉みから自由にはなれない。君は自分の富を熟知し、それを分け与えられる人間だ。そうだな、貴族というより、華族……」

 加瀬くんが立て板に水のごとく話し続けるので「いやいや、それ僕のことじゃないよね」と口をはさむ余地がなく、今か、ここか、とツッコミ待ちをしていたのに、華族という言葉に一気にもっていかれた。

「言われた! それ、華族の血筋だって。跡継ぎのために正路くんの家に引き取られたんだ。でも正路くんが生まれて、僕は形だけの兄に」

 加瀬くんも気色ばんだ。

「名前は? 華族ならきっと記録が残ってる」

「藤成は新しくつけられた名前だった。ほかには……わからない」

「寝る時は枕元にボイスレコーダーを置いて、すぐに録音できるようにするんだ。正路くんの家業と、場所、時代背景がわかるものもなにか」

「幽霊、僕、掛け軸を部屋中に散らかして幽霊が描かれたやつを選んだ」

 加瀬くんは鞄からスマホを取り出し、指紋認証しながら言った。

「足は? 幽霊に足はあった?」

 思い出そうとするが、ぼんやりとしていてわからない。薄い墨の、幽霊というよりは薄幸な女性のような絵だった。

「足のない幽霊図は円山応挙が始めたというのが定説なんだ。まさかこれじゃないよね」

 画面には哀し気な女性。髪がぼさついているけれど、幽霊のようなおどろおどろしさはない。

「わからない、こんなふうではあったけど、同じかどうかまで」

「応挙以降、似たような幽霊図がたくさん描かれたらしい。江戸中期か。津久くんが生きていたのは明治か大正かぐらいだから、その頃には足がないのが主流だったんだろうな。そうだ、服や靴からも時代がわかるかもしれない。日用品なんかも」

 思い出せるのは、丸めた掛け軸を包む美しい布くらい。次はなるべく置いてあるものに気を付けてみよう。

「もしそれが応挙なら、とんでもない家ってことになる。華族の子息を養子に迎えるんだから、ありえない話じゃない」

 現存する応挙の幽霊図はカリフォルニアと弘前か、この経緯をたどれば見つかるかも、と加瀬くんはぶつぶつ言いながら凄いスピードでスマホをさわっている。

 岸川くんは、全て思い出したんだろうか。名前も、時代も、僕らの間にあったことも。岸川くんに聞けば、と思うのに、勇気は出ない。またあんなふうに、もう少しで失禁するほどの喜びを感じたら、どうなってしまうか自信がない。それに、僕が思い出しかけていることを知られたら、スーパー高校球児に本気を出されてしまう。ただでさえ失禁危機だというのに、そんなことになったら、きっと大惨事だ。

 風が吹いて、桜が舞う。僕らに降りかかる薄片。スマホの画面に落ちた花びらを、加瀬くんは払った。岸川くんは藤成が好きなんだろうか。僕ではなく。藤成を、再び手に入れたいと願っているんだろうか。

 ごめんね。僕は、強い人間じゃないんだ。僕と藤成は別の人間なんだ。ごめんね、岸川くん。期待を裏切ってしまうのは、とてもつらいよ。僕が逃げたいのは、同性だからってだけじゃない。僕は君に求められるような人間にはなれない。平凡な、ぬるま湯の中で生きる人間なんだ。君はきっとすぐに僕に幻滅する。岸川くんや加瀬くんのように、荒波を超えていく人間には、なれない。


 家に入ると、母と姉の声が聞こえてきた。リビングのドアを開けると、ふたりしてけたたましいくらいはしゃいでタブレットを覗き込んでる。

「ただいま」

「おかえりー」

 母は僕を見もしなかった。椅子に鞄を置き、冷蔵庫から麦茶を出す。コップに注いで飲んでいると、ふたりがそろって「きゃーっ」と叫んだ。

「いやだもう、この流し目!」

「これ流し目っていうんだ? かっこよー!」

「だめ、だめよ! 二十二でこの色気は犯罪!」

「もう声がさあ! 子宮にくる!」

「これ! なんてこと言うの!」

 またアイドルだろうか。誇張した電子音の旋律が聞こえる。声はわからない。

「ママ絶対好きだと思った」

「ヤンユよりいいかも!」

 母はここ数年韓国アイドルにはまっている。

「韓国までいかなくても、シロウなら日本で逢えるんだよ」

「えっライブしてるの?」

「チケット一緒にとろっか?」

 チケット代出してもらうために母を沼にはめたな。さすが姉。

 母も姉も、前世からの付き合いなんだろうか。加瀬くんの話では、普通ならありえないらしいが、一度だけ親族一同で転生したひとたちを見たと言っていた。おそらく偶然、転生の条件を満たしたんだろう、と。彼の推理はこうだ。たとえば祝賀会のような盛り上がる集まりで、突発的な災害や事故でまとめて死んだのではないか。一体感を強く感じながらお互いをかばい合い、お互いの血を浴びるなど偶然が起こってしまったんじゃないか。僕がどのように死んだかわからないから、可能性があるかどうかもわからない。加瀬くんが知る限り、自殺は転生できないのだそうだ。生をまっとうした人間にしか、転生の神は微笑まない。

「でも今月はヤンユが来日するし……」

「シロウは基本ネットだから、現物見れるのって貴重なんだよ」

「もう~! 誘惑しないで~!」

 こんなに仲良しの親子なら、来世もその次も、一緒になったらいいのにな。幸せになるために転生するんなら、みんなみんなそうして、最後には仲良しのひとだらけになって、どこにも争いが生まれなくなる、なんて最高の世界平和じゃないか。

「インスタ見る? あ、通信制限だったわ」

「また? いい加減にしなさいよ、ネットしすぎよ」

「うわ、でたウザ」

「なにその言い方! 先月だって料金高かったじゃないの! 今月越えたらスマホ取り上げるって言ったわよね!」

「うるさいなあ! ママの頃と違うの、今はこれがないと生活できないし友達と交流もできないんだよ! ママ古い!」

 そーっとコップを食洗機に入れ、足音を立てず部屋に向う。なるほど、どうなっても争いがなくなるってことはないようだ。

 鞄から教科書を出し、棚にしまう。水筒と弁当箱を机に置く。洗いに行くのはもう少ししてからにしよう。それから鞄を軽く布で拭き、クローゼットに戻す。朝にきっちりとメイクしたベッドに横になる。そうだ、ボイスレコーダーが要るんだった。誰か持ってるだろうか。それともスマホのアプリでいいだろうか。寝言、言ってないかな僕。一度試しに一晩中録音しておけばいいかもしれない。

 前世の僕は、養子だった。現世は本当の家族に囲まれて、姉は少々厄介な存在だけれど、それでも平凡で幸せだ。よかったな。自分だけが本当の家族じゃないと知りながら生活するのは苦しいだろう。僕なら耐えられないかもしれない。というより、平凡で幸せだから、そんな状況に耐性がないとも言えるか。

「この馬鹿者が!」

 力任せに宗主が黒い茶碗を正路に投げつけた。額に高台があたった、血が出るかもしれない。ポケットの中のハンケチを握りしめる。今日はまだ使ってない。ひとまずこれで押えて止血して消毒液を

「なぜ盲目に信じた! なじみの業者だからか! なぜこんなガラクタを、楽茶碗と思うことができるのだ!」

 宗主が箱に手を伸ばす。

「この書付! このような無様な偽物に騙されおって! この恥さらしが!」

 宗主の怒りが収まるまで待つべきだ、そうわかっているのに、体が勝手に正路の前に出ていた。

「喜ばしいことではありませんか」

 耳が痛いほど心臓が脈打つ。私は必死に平静を装う。

「藤成、でしゃばるな!」

「骨董は痛い目を見て学ぶもの。この失敗は必ずや次期宗主の肥しとなりましょう」

 宗主は箱をつかんだままぶるぶると震えた。

「兄さん」

 後ろから正路が私を押しのけようとする。しかし私は重心を低く保ち抵抗した。

「三倉殿が事業に失敗され火の車であることを、高校生の正路様がどうして存じましょうか。三倉殿もそう思い、宗主の留守に来られたのです。海千山千の三倉殿に手玉に取られるのは恥ではございません。あちらが上手というだけのこと」

 後ろ手に正路を押した。早く部屋から出したかった。

「子供の頃から同じように一流の物だけを与えたというのにこの体たらく。藤成はこうもうまく育ったというのになあ!」

「私には二年の長がございます。どうか宗主」

 床に手を付き、頭を伏せた。

「兄さん!」

「この不手際、どうか私にお任せください」

「藤成。儂は金が惜しくて言うておるのではない。わかるか」

「はい、名誉は金では買えません。必ず三倉殿を探し出し、話をつけて参ります」

 ことり、箱がテーブルに戻される音に、私は顔を上げた。

「相州流が偽物をつかまされたなどと世間に」

「けして世間に流れることはございません」

 宗主は倒れこむような激しい音をたて椅子に座った。マッチを擦る音の後、敷島の匂いがした。

「お父さん、兄さんは関係ありません。これは俺の」

「おまえではなんの役にも立たぬわ!」

 机を蹴り上げる音。次はなにか飛んでくる。黙れ、という気持ちで正路を睨みつけた。

「三倉殿が飛ぶ前に捕まえなければなりません。これにて失礼いたします」

「もう遅い」

「いいえ、駅にひとをやっております。円タクにも人相を伝え、該当人物なれば連絡がくるよう手配済みです」

 宗主の怒りが薄れるのを見て取り、私は立ち、正路を引き上げた。

「夜までに、宗主の眠りの妨げは取り除かれます。必ずや朗報をお届け致します」

 深く頭を下げ、正路を押して部屋を出る。扉を閉めてから、思わず息を吐いた。

「兄さん、兄さんごめん、ごめん俺のせいで、他流派も狙っていると言われて早く決めなければと焦ってしまって」

「そんな常套句が出た時ほど気を付けるんですよ正路。大丈夫。この程度のことでわが流派の名声に傷などつくものですか」

 頬に流れる一筋の血を、ハンケチで拭き、傷口を見た。

「まだ出てますね、これで押えて。ヨネさんに手当を頼んでください。私はこれから」

 門田が階段を駆け上がってくる。

「藤成様、東京駅で降ろしたと円タクから連絡が」

「わかった。駅なら西原と佐藤が見張っている。車を待たせているな、速いのを用意できたか」

「はい、運転は荒いですが無事故です」

「それは僥倖」

「兄さん、俺も」

 いいえ、あなたに汚い仕事は見せられません。そう言う代わりに私はわずかに微笑んだ。

「兄さん、ごめんなさい」

 泣かせたくはないのに。私は慰めることもできない。抱きしめて、腕の中で優しく揺らして、小さく童謡を歌ってあげるには、正路は大きくなりすぎてしまった。

「ひとりで金庫を開け取引をするのには度胸が要ったでしょう。見事でしたよ正路。次は必ず成功します。あなたは縮こまってはいけません。失敗をしてもいいのです、私がいるのですから」

 これほど愛する者がいる喜びの中では、苦労を厭う気持ちも沸かない。辛苦さえ甘美だ。私は駆け出した。


「ソーシュウ流?」

「ググってみたんだけど、出てこなかった」

「えー……シュウって州かな。確か茶道に州がつく流派がいくつかあった」

 あ。

「前の時、茶席って言ってた」

 加瀬くんの額に、ピキッと青筋が浮くのが見えた。

「あのっなにかのイベントだと思って」

「幽霊図は茶席用だった? そんなトンデモやって許されるなんて一流の茶人くらいだ。決まりじゃないか」

 申し訳ない気持ちが湧き上がり溢れ、もう溺れ死にたい。恥ずかしい。あんなにアドバイスもらってたのに。

「あーある、相州流。うわーサイトショボ。なんも情報ない」

 最近加瀬くん、口が悪くなってきた。距離が縮まったってことだよ、うん。

「加瀬くん、前に藤成のこと綺麗だって言ってくれたでしょ」

 加瀬くんが顔を上げた。階段下のデッドスペースに僕らはしゃがみこんでいる。明かり取りの窓からの光の中に、ふわふわ浮かぶ埃が見える。

「全然そんなことない。すごく悪い男なんだ。偽の茶碗を正路くんに売りつけた男を追い詰めて、あの、すごく、ひどい、ひどいことを」

「私は、価値観が違う」

 加瀬くんは髪をかき上げた。加瀬くんは色素が薄いのだ。陽の角度によって、髪が日本人と思えないほど茶色く見える。

「名誉は命より重いという価値観で生きた時間のほうが長い。正路くんや家名に泥を塗られたら、報復しないほうがおかしい。仮に残虐なほどやりすぎているとしても、私のイメージからは逸脱していない。君のこと、幕末によくいた、綺麗なままひとを殺す人間みたいだと思ってたから」

「きっ、ひとをっ?」

「ひとを殺すのはある意味狂わなきゃできないから、その瞬間はだいたい獣みたいになる。見てて醜悪なんだよ。よく通行人が叫び声をあげる、あれはひとが殺された衝撃より、下手人の異常さに恐怖してるんだ」

 そ、そうなのか? このひと、ほんとに幕末を知ってるんだ、と急に実感する。ひとを殺す場面なんて、映画以外で見たことがない。

「だけど京の都では、ひとのまま、というよりも神の領域で剣をふるう男がたくさんいた」

「加瀬くん、いくら幕末でも、そんな場所に居合わせるなんて、まさか」

「身を隠すのに烏合の衆に紛れ込むのは便利だったから」

 僕は心の中で絶叫した。このひと、絶対、新選組とかああいうのに関わってる! すごいひとだとは思ってたけど、すごすぎるよ!

「で、正路くんとの関係は進んだ?」

 そんなことより加瀬くんも真剣を使っていたのか、歴史上の有名人を知ってるのか、可能なら本当に沖田総司は天才で土方歳三は美男子なのか聞きたい。もしかして加瀬くんもひとを切ったことが、あ、ああ、聞けるわけないじゃんそんなの。

「進むとか、そんなの全然ないよ。だって藤成は本当にすごく正路くんが好きで、正直引くくらい大好きなんだけど、でも恋愛じゃない」

「あ、いたー」

 思わず飛び上がりそうになった。純也の声だった。見上げると階段の端からひょっこり顔が出ている。軽い足取りで近づいてきて、それから屈託なく言った。

「なんか最近、ふたり仲良すぎない? 俺寂しいんだけど」

 湿っぽさもイヤミもまったく感じられなかったのに、ものすごく後ろめたくて、心臓がばくばくしてうまく話せないでいると、加瀬くんが穏やかな声で言った。

「なにかあったの?」

 意外な言葉だった。純也は、僕らがこそこそしていることを責めにきたんじゃないってことだろうか。加瀬くんは心配事を受け入れようとする慈悲深い表情を浮かべていた。

「うん、あのさ」

 純也は僕らの前にしゃがみこみ、困った様子で頭をかいた。

「なんか俺、前世あるっぽい」

 加瀬くんは眼鏡をはずし、純也をじっと見た。

「うわ、加瀬くんめっちゃイケメンだね!」

 困った様子はきれいさっぱり吹き飛び、いつも通りの笑顔があらわれる。ほっとする。

「あるんだよね、相互作用っていうのか、身近な人間が覚醒すると引っ張られちゃうやつ」

 ポケットからハンカチを出し、加瀬くんはレンズを拭いた。純也は加瀬くんの発言にまったく注意を払わず言った。

「加瀬くん前世に詳しいでしょ。相談に乗ってほしいんだよね」

「わかった。いいよ」

 こちらがびっくりするくらいあっさり加瀬くんは言う。見えてるんだろうか、もしかして、例の幽霊っぽいやつ。

「……えーと」

 純也は考えながらまた頭をかき、笑った。

「いや、相談したいこととかわかんねーけど」

 なんじゃそりゃ。

「べつに、俺の問題だし、どうにかするには俺がやんなきゃいけないけど、なんかさ、不安なんだよな。誰かに聞いてほしくて」

 わかる。わかるぞ友よ。

「名前は思い出した?」

「うーん、名前、呼ばれたけど忘れた。レコードに曲名も書いてたのに忘れた」

 そういう時はボイスレコーダーを、と言いかけて、レコードにひっかかった。そうか、レコードで時代がわかるのか、純也にしては良い着眼点じゃないか、レコードの歌手名でも時代が絞れるよ、と思ったけれど、純也がそんなに頭いいか? と同時に思ってしまった。なんで純也はいきなりレコードの話をした?

「君の名前は岩積祥太郎。曲名は、星空に乾杯、かな?」

「あ! なんかそんなだった!」

 加瀬くんは目玉を落としそうになっている僕を振り返った。

「彼は、昭和初期の俳優なんだ。スターというやつ」

「はああっ?」

 純也はにやにやしていた。嘘だろ、冗談だろ、スターって、スターってなんだよ。そんな漫画みたいな話あるわけない。

「困っちゃうよなー、俺、スター」

 昭和初期の芸能人って「東京物語」とか白黒でしか見たことないけど、なんかもっとつるっとした感じだった。さっぱりした顔というか。純也はすごく普通だ。どちらかといえばジャニ系。クールよりはかわいい。鼻筋が通ってるというほどでもないし、頬はまだ子供っぽくふっくらしてる。どうしよう。信じられない。眼はくりくりしてるけど、そうなの? 昭和のスターってこういう感じなの? 加瀬くんがスターって言われるほうがしっくりくる。

「加瀬くん、知ってたの?」

 加瀬くんは首をかしげた。肯定なのか否定なのかわからなかった。たしか加瀬くんも昭和初期に生きていたはず。もしかして前世で、スターの純也を知っていたんだろうか。

「純也、歌へたなのに……」

 うっせ、と純也は僕の横腹にパンチした。

「俺の歌聴いて泣く女の子いっぱいいたんだぞ」

 あははは、と加瀬くんが笑う。馬鹿にするんじゃなくて「そうそう、そうだった」みたいな笑い方だった。本当にスターだったんだ、と実感する。うわあ。純也が。この純也が。うわあ。

「やっぱ加瀬くん、神憑きだったんだ」

 純也の問いに、加瀬くんは肩をすくめる。

「しつこく言って悪かったな。知られたくなかったんだろ」

「いいんだ」

「加瀬くんと急接近ってことは、もしかして、えいちゃんも前世思い出したとか?」

 少し緊張しながらも、頷いた。

「だから最近教室にいなかったのか、みっずくさ! 言えよなあ!」

 また脇腹にパンチされる。痛くはないけど、気まずくてうまくリアクションとれない。

「津久くんはまだはっきり思い出せていなくて、センシティブな状態なんだ。あまりふれないでやってくれないか。谷くんはどうなの、もう全部思い出した?」

 あっけらかんとした様子で、純也は首をひねった。

「全部かどうかわかんねーなあ」

「死んだ時のことは? 誰かと来世を誓わなかった?」

「あー、なんかそうだった」

 足をがばっと開いてヤンキー座りになりながら、純也は続けた。純也は階段下から完全にはみ出ている。これだけの人数になったなら、隠れている意味がない気がする。

「俺、すっごい女遊びしまくってた。だって寄ってくるんだよ、普通だったら遊ばれたって女の子怒るだろ、そんなことないんだって、みんな遊びでいいって言うんだ」

 いったいなんの話だ。

「すっごいかっこよかったんだろうな、すごいんだよもう、もうめちゃくちゃすごい、エロ動画どころじゃないんだって。えっマジで? こんなことできちゃうの? みたいなすごいことがさ、これがえっちか、みたいな、なんかすごいわけ」

 言葉とは逆に純也がどんどん落ち込んでいく。

「なんかあんま良いものじゃないっつーか、動画で見るのと実体験するのって違うんだよ、結構なんていうか、グロっていうかさあ生々しさが」

「それはいいから」

 加瀬くんが真顔でつっこむ。

「あ、そうだった。とうとうヤクザの姐さんに手を出しちゃってさ」

 うわ! 突然の昭和臭!

「逃げるのについてきてくれた女の子がいるんだけど。その子と逢わなくちゃいけない、気がするんだ」

 どうしよう。純也の前世、純也じゃなさすぎて引く。純也が女性に対してそんなにだらしがないのも、危険な女性に手を出すのも、逃避行に女の子を連れていくのも、全然想像できない。

「せ、性格って前世と変わるの?」

 うわずりながら加瀬くんに聞いた。純也のこといいやつだとずっと思ってたのに、もしかして本性はこんななのか?

「融合は記憶が戻ってから始まるんだよ。価値観は時代で形成されるから」

 おそるおそる純也を覗き見る。こんな、こんないいやつなのに。たしかに女の子の友達はたくさんいるし人気者だし、その気になったらいつでも彼女ができちゃうだろうのにまだ作ってないピュア小僧なのに。

「変わるな純也!」

「お、おう」

 ああああ、純也がけがれたらどうしよう!

「加瀬くんも転生したんだ?」

「5周目」

 加瀬くんは手で五を見せてる。なんだろう、その言い方、軽くない?

「すっげ! 相手には毎回逢えた?」

「ううん、逃げてる系」

「逃げてるんだあ、あはは」

 あははじゃないだろ。おかしいな、僕は記憶が戻りだした時、この世の終わりくらいの気持ちだったんだけど。この純也のテンションはどうなの。これが正常なの?

「どうしたら逢えるのかな」

 少しもじもじしながら純也が言う。その仕草はかわいい。さてどうだろう、男に対してかわいいとか思っちゃう僕は正常なんだろうか?

「逢いたいんだ」

「いやあ、まあ、逢いたいよね」

「いい女だった?」

 加瀬くんが急にエロい言い方をした。大人みたいだ。純也がうーんと首をひねる。

「一番地味な子だったんだ。なんであの子なんかな。あー、最終的にヤクザにボコられた時に、あの子、ヤクザの目が離れた隙に俺をかついで逃げようとしてくれたんだ。絶対俺を見捨てなくてさ。こいつだったんだなあ、って思ったんだよな、あの時」

 なにその純愛。僕多分そういう映画観たことある。白黒のやつ。スターってば、プライベートの恋愛まで映画調なのか、それがスターの所以なのか。純也かついで逃げようって、どんな女の子なんだ。どう考えても無理なのにやっちゃうのが恋なんだ。ほんとにいい話だ、でも、それより気になって加瀬くんの腕をつかんだ。

「一気に覚醒したら乗っ取られるって」

 明らかに僕より早く記憶を取り戻してる。加瀬くんは慌てた様子もなく、純也に聞いた。

「記憶はどんな感じで思い出す?」

「えー? 普通」

「普通じゃわからない」

 少しイラつきを滲ませた声で、加瀬くんが至極もっともなことを言う。

「普通だよ、だから、忘れてた感じがないっていう」

 なに言ってんだこいつ。もっと加瀬くんになじられてしまえ。こんな綺麗な顔に人格を否定されて地面より深く落ち込んでしまえ。

「来週の予定とか去年の今頃あったことみたいなんだ。忘れてないけど普段は考えてないじゃん。そういう感じ。ああそうだった、みたいな」

「触発されて思い出すタイプはこういうのが多いんだよ」

 加瀬くんは頷きながら僕に言った。僕、純也パターンがよかったなあ。僕が触発されるほうがよかった。思い出すタイミングは予測できないし、毎回思い出す内容も過激ですごく振り回されてる。率直に言ってつらい。

「乗っ取られる心配はなさそうだよ」

「えいちゃんは、違うのか?」

 心配してくれてるのか、なぜか背中をさすってくれる。僕、そんな落ち込んだ顔をしてるんだろうか。前髪を引っ張る。

「夢で前世を見る感じだから、少しずつなんだ」

「てか、足痛くね?」

 純也は立ち上がり、腰を伸ばした。自由だな純也。思い出し方がどうとかはあまり関係ない気がするよ。純也ならどんなケースでも大丈夫だ。

「谷くん、その女の子、どうやって探すんだい?」

 加瀬くんも立ち上がり、足を伸ばしながら聞いた。僕も立った。足がめちゃくちゃしびれている。

「こなっちゃん」

 昭和のスターはちっちっち、と指を振りながら言った。アイドル気取りにむかついた。ポーズに満足したのか、それが終わると純也は突然がくーっとうなだれた。

「それがわかんねーんだよ」

 いちいち、すべてにおいてオーバーだ。調子にのってる。まあ、僕だって、前世がスターだなんて言われたら調子にのるかもしれない。

「約束はしなかった? 最後の時に」

 純也は口を半開きのまま、ぐるぐる首を回す。

「約束、はした」

 ぐるぐる回る頭を見ながら、この動じない精神こそがスターの秘訣なのかもしれないとまで思い始めていた。顔じゃなく精神こそスターの要素なのかも。いやまあ今でも純也がスターとか思えませんけども。

「来世でおまえを嫁にしてやる、って」

 かーっ! かっこいーっ!

 えっ! かっこいい! やだ純也スターじゃん! スターじゃなきゃ絶対言えないセリフじゃん!

「じゃあ、運命に期待するしかないね」

 そんな約束しちゃってるんなら、純也、彼女どころか、あっという間に結婚しそうだ。高校卒業と同時に結婚とか……純也、大学いかないのかな。働くんだろうか。純也なんの仕事ができるんだろう。スター?

「前世を思い出してすぐ再会するひともいるし、何年もかかるひともいる。焦らないことだよ。どんなことになっても大丈夫なように、毎日過ごしていけばいいんだ」

 学校の先生みたいににこにこと教訓をくちにする加瀬くんを見て、僕は気づいてしまった。加瀬くんは、この言葉に、少しも自分を含んでいない。たくさんのひとを、加瀬くんはずっとこうやって応援し続けてきた。上手に再会できるように、うまく事が運ぶように。不安にならなくて大丈夫なんだよって、ずっとそう言ってたんだね。自分以外のひとだけに。すごく悲しい。加瀬くん。君は自分を、もっと大切にしなくちゃいけない。


「伯爵家……ですか」

 いつかは言われると思っていた。でも予想より早い。考えを悟られぬよう、窓の外に視線をやる。真っ暗でなにも見えないというのに。

「おまえが、流派を継ぐというなら」

「それはありません。次期宗主は正路様です。宗主の血を継ぐ人間がおられるのに、私がなんてありえません」

 宗主は紫煙をくゆらせ、顔をそむけた。大きなガラス製の灰皿に白い灰を落とし、それから縁のくぼみに煙草を置いた。同じくして吸ったのではなく燃え尽きた格好の煙草が溜まっている。

「妾が何人いるか知っているか。どこにも子ができない。俺には子種がない」

 想像もしていなかった言葉に、返答をためらった。宗主はお内儀の不貞を疑っておられるのか? まさか。

「爪の形が」

「ん?」

「同じです、爪の形が。全部の爪で桃色の部分が長く、等しく均整がとれております。特に小指がひときわ長い。男の爪は、正方形あるいは縦より横のほうが長いものもありますのに、宗主と正路様の爪は、他の誰にも見受けられません。足の指も同じです。人差し指が親指より長い。私は幼い頃から、正路様の指を見ては、宗主と同じだと思っておりました」

 宗主はなにも言わなかった。灰皿に置いた敷島が燃え尽きるまで黙っていた。私はこの煙草の匂いが好きだ。高貴だと思う。だが味はだめだ。一度試してみたが、好きになれなかった。炭焼き小屋に迷い込んだような気分になった。

「滋野井が息子だったらと夢想したせいか」

 しげのい、は実父の姓だ。この時初めて、宗主が執着しているのは実父なのだと知った。お内儀は私の実母が宗主様の相手で、実は私が宗主の隠し子なのではないかと疑っている。だから私も、その可能性についてはいつも頭の片隅に置いていた。なにせ、お内儀はあからさまに私を敵視し、宗主のいない日は同じ食卓を許されないほどだ。幼い時から、嫉妬の視線を浴びてきた。

「滋野井は友人であったと伺いました」

「頭がよく、人心を掌握した。なにより佇まいに品があった。まばたきひとつが美しかった。こんな人間が身内であったらどれほど心強いかと思い続けていた」

 しかし学友を息子になどと、普通思うだろうか。仮定の話だとしても、奇妙な印象を受ける。

「おまえはそれらを受け継いでいる。正路よりは、おまえが宗主に相応しいと思っておる」

 カッと体が熱くなり、間髪入れずに答えた。

「婿入りの話をお受けいたします」

「そうか。先方はおまえの実の姓をお望みだ。一度俺の籍から抜き、滋野井に戻してから縁組だ」

「可能なんですか」

「滋野井は正路が生まれた段階でそれを考えていた。没落しても飾りに有用だろうと言ってな。毎年委任状が更新されて届いている。聡い男なのだ。すまぬが、居場所は知らん。最初は俺が用意した家で暮らしていたが、一年ほどで出ていった。こちらに害が及ばぬよう気を使ったのだろう」

 初めて想像上の父に血肉が付いた。生きているだけでなく、私を気にかけてくれている。母や兄は息災だろうか。幼い私は離れることで、父母のお役に立てただろうか。

「令嬢の写真は見るか」

「いいえ。必要ありません」

「そうだな。妻の顔などどうでもいい。気が強く悋気持ちだそうだが、おまえならうまく操縦するだろう」

 できることなら正路を支えていきたかった。しかし私の境遇は火種になる。私を担ごうとする人間は叔父だけではない。頭を下げ、部屋を出る。扉を閉める時に宗主を見ると、窓の外を眺め、敷島をくゆらせていた。江戸時代から百万石大名の茶道指南を担っていた由緒正しき相州流でも、文明開化のあおりを受けている。私の婚姻は、おそらく一助となれる。

 離れの自室に戻り、いくつかの書面をしたためねばならなかったが、気乗りせず、インク壺をいたずらにペン先でかき混ぜていた時だった。普段なら礼儀正しく訪問の手順を踏む正路が、突然自室のドアを開けた。咎める気も起きぬほど息を切らし、切迫した表情を浮かべている。

「兄さん、どういうことなんだ」

 非常に厄介なことになったらしい。おそらく婚姻のことだろう。どう言い繕ったものか、思案しながらペンを置きインク壺を片付ける。つい癖で壺の蓋を拭き棚にしまうまでやってしまった。正路には悠長に見えただろう、いらだちを募らせたに違いない。

「正気なのか、こんなの身売りじゃないか!」

 落としどころが見えないまま、とにかく兄の威厳を保ち「ドアをノックしなさい」と言ってみた。まったく相手にしてもらえなかった。

「ずっと兄さんは一緒だと思ってた! 俺は兄さんに流派を継いでほしいと思ってる、けど兄さんがそれを承諾するはずがないってわかってる、だから! 家は継ぐ、けど、それは兄さんがいるからだ!」

「正路、宗主は私を担ごうとしている派閥を懸念されてるんだよ」

「そんなの、俺たちがしっかりしていれば問題ないじゃないか! 俺は兄さんが継ぐなら嬉しいくらいだ! そうなったってかまわない!」

「しかしね、私がここに嫁をもらうのもおかしな話じゃないか。離れで暮らすわけにもいかない。正路の所帯をどこにやるんだい」

 打ちひしがれたような表情で正路は突っ立っている。

「兄さんは、結婚したいの?」

「そりゃあね、私だって自分の家族がほしいよ」

「兄さんの家族は俺じゃないか!」

 正路がいきなり詰め寄ってきて、私の腕をつかんだ。怒りをにじませている。

「なんでだよ、ずっとそばにいるって言ってくれたじゃないか」

 何歳の時の話だ。

「女がほしいのか? 財産がほしいのか? 兄さんはいったいなにが必要なんだ」

 正路が突っ走っている方向性が見えず、視線が泳いでしまう。なにが必要かなんて、そんなものわかりきっているじゃないか。愛する者がほしいんだ。私だけの、たったひとつの、命をかけられる存在が。

「茶道なんか俺には必要ないんだ、兄さんが必要だから今まで我慢してただけなんだ」

「そうだな、野球の誘いも断った」

 正路は大学で野球を始め、めきめきと頭角を現した。職業球団ができるという話があり、そこにも誘われていたのだが、そもそも野球など怪我をする運動を宗主が許すはずがない。大学での活動も秘密裏に参加していたというのに、職業とするなどありえない話だった。実力が認められても、新聞の取材を断らざるを得ない。高校時代までは柔術剣術に打ち込んでいたが、それも周囲が怪我を心配してやめさせた格好だ。正路にしてみれば、まさしく我慢の連続だったろう。多くを背負って生まれてきた人間の宿命とはいえ、才がある分、不憫でならない。

「こちらの仕事は続けさせてもらえるよう頼むよ。ずっと正路を支えると約束する」

「違う! 結婚をやめてほしいんだ!」

 なぜそんなに結婚にこだわるのだろう。少々早いが、いずれしなければならないものだ。私が家の犠牲になって婚姻すると思っているのだろうか?

「しかし、とてもいいお話だから」

 正直なところ、そこまでいい話でもないが、私が上に詰まっていては、正路の縁談が進まない。早々に戸籍も抜いてしまうのが良策なのだ。

「いやだ! なんで俺じゃだめなんだ、俺が家族じゃだめなのか? 俺には兄さんしかいないのに、絶対にいやだ! 俺は兄さんがっ」

 にいさんが?

 言った瞬間、正路の顔から表情が抜け落ちた。それを見て、理解した。恋愛対象だ。正路は私を恋愛対象にしている。どういうことだ? 正路は男色家なのか? しかしそれにしても相手が私とは、あまりに近場で済ませすぎではないか? 正路の手が震えだす。顔の青みが増し、脂汗が浮いてきた。まずい。とっさにそう思った。

「一生、言わないと決めてたのに」

 ささやくような声だった。終わりを悟った声だ。すべて合点がいく。私の外出のたび、誰と逢うのかばかり気にして、しまいには同行したいと言い出す正路。子供の頃からずっとそうなので、そういう気質なのだと思っていたが、あれは恋だったのだ。秘めていたのだ。そして今、結婚の衝撃から隠すことができなくなってしまった。

「兄さん。ずっと兄さんが、好きだった……」

 わずかに唇の端に浮かぶ笑み。そんなのは若気の至りだ、家族愛を勘違いしているだけだ、ありがとう私も家族として好きだよ、使えない言葉ばかりが浮かぶ。正路はゆっくり息を吸い、一瞬止めて、静かに吐き出した。武術で使う、丹田を意識した呼吸。覚悟を決めたのだ。

「気持ちの悪いことを言ってごめんなさい。ありがとう、兄さん」

 くるりと背を向ける。だめだ、これは駄目なやつだ。正路は今夜姿を消す。もう二度と家に戻らない。それは確信だった。正路の行動など、手に取るようにわかる。いけない。次期宗主を失うわけにはいかない。この美しい男を見よ。頑健で才能にあふれ、魅力に満ち、すべての人間の心にふれる。相州流の次代を築く男だ。息を吸い、止め、ゆっくり吐き出す。私のやるべきことも、手に取るようにわかった。

「正路」

 ドアのところで正路は足を止めた。

「おいで」

 正路はおとなしく、視線だけは外したまま私の前に戻ってきた。そして涙を浮かべながら「ごめんなさい」と謝った。

 わずかに背伸びをし、首をかしげ、唇と唇を重ねた。正路の唇はかさついていた。少し力を込めて、私の唇で押した。かかとを床につけ、寄せていた体を戻すと、正路があまりにも面白い顔をしていたので吹いてしまった。正路は真っ赤になって、笑おうとして、失敗した。涙をぼろぼろ落としている。

「私にだって、正路より大切なものはないんだよ」

 私は手を伸ばし、正路を抱きしめた。

「これを愛と呼ぶんだろう?」

 正路に家を継がせる。それだけが私の目的だ。正路が良家の子女を貰い、子を成し、後継を育て上げること。そのためになら、私一人の人生など、どうとでもなればいい。

「同情なんかほしくない、って言えない……」

 しゃくりあげながら正路は言った。こんなふうに泣くのは何年ぶりだろう。愛おしくて私も泣いていた。私は、自分が愛おしさで泣ける人間であることに感動さえしていた。

「私の中にありもしない感情を、勝手に呼ばないでほしいね」

 正路はすぐに、もっともっと、求めるようになるだろう。体だけでなく心も求めるようになるだろう。どこで満足するか、飽きるか、その地点をうまく仕込めるだろうか。正路の熱い息が首筋にかかる。正路が、力を込めて私を抱きしめた。愛も欲もすべて受け止める。必ず私の宝を、宗主に立たせる。




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